2018年10月2日火曜日

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その19)「あのじぶん朝鮮人てのは埼玉でも千葉でも駅のまわりで朝鮮人が来たなんていうとすぐ殺されちやって。あんときやそうとう殺されただろう。日本人だって田舎の人なんざまちがえられて殺されたんだよ。.....ごくろうさまといえない奴はあやしいって殺されちゃうんだ。まちがえられて殺された人もそうとういるでしょうね。」

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その18)「翌2日になって警官が取調べの上釈放するが、自警団が承知しない。2、3人でこの釈放された男を鉄棒でなぐりつける。男はヒーヒーと悲鳴をあげる。4、5歩歩くとばったり倒れる。それへかさにかかって大勢で鉄棒でなぐる。頃を見て針金でしばり、まだ焼残っている火の中へほうり込む。これを繰り返し、繰り返しするのである。無惨な殺し方をしたものである。」
から続く

大正12年(1923)9月2日

〈1100の証言;台東区/入谷・下谷・根岸・鶯谷・三ノ輪・金杉〉
内田良平〔政治活動家〕
2日坂本方面の火災は三ノ輪方面よりの延焼なりしが三ノ輪及び坂本方面の罹災者は一般に鮮人の放火なりと確信しおれり。これは荒川堤工事に従事の鮮人約600名位いずれも市内の者と連絡を取れる模様ありたれば三輪方面より潜入せるものの仕業ならんと。
〔略〕2日夜日暮里在住の婦人日暮里より赤羽に向いたるが、途中の街道に於て〔略〕17才位の鮮人が現場に於て捕えられ、群衆より殺さるるを目撃したり、引続きその連類らしき2名の鮮人が捕えられ来りしが群衆は「此奴は放火したること故、火刑に処すべし」と.....。
(内田良平『震災善後の経綸に就て』1923年→姜徳相・琴秉洞編『現代史資料6・関東大震災と朝鮮人』みすず書房、1963年)

小畑惟清〔医学者〕
〔2日夜、日暮里駅と鴬谷駅の中間で〕ウトウトと眠ろうとしたら、突如線路の上の森に銃声があがり、続いて誰何叱咤の声、人々の駈け回る音で急に騒がしくなった。やがてして森の中から鉄路に向って人が飛び出し、これを左右に追い回わし、物情愈穏かならずなった。よく聞けば、これが朝鮮人騒動であった。即ち吾々は今初めて朝鮮人騒ぎを目の前に見るのである。
騒ぎが愈大きくなり、闇をついて人は右往左行する。時々闇を貫く喊声が挙がる。その時朝鮮人が殺されたという話で、何れも戦々兢々である。この時に当り、病院を愈立退く際人力車で駆け付け一緒に連れてきた妊婦が陣病が強くなって来た。一方朝鮮人騒ぎは激しくなる。何たる悲惨事であろう。漸くにして分娩は無事に済み、母子共に健全である。やがて鮮人騒ぎも鳴りを鎮めた。
〔略。不忍池畔で〕土工風の服装した男が高張提灯を眺め先頭にあった松浦副院長に嗄声で話しかけて来た。それによると、その男は刑事であるが、変装して朝鮮人の行動を探り、連日連夜の活動に疲れ、今そこに寝ていたとのことである。今しも大学構内に鮮人が闖入して爆弾を放たんとしたが、軍隊の探知する所となり、大活劇が演ぜられた。なお鮮人は大学病院をねらって森の方々に潜んで居るから、今大学病院に進入するのは剣呑千万であると言うとて、後尾にあった私を、松浦副院長は呼びに来て密かに協議した。自分は第一に、朝鮮人騒ぎと言うのが不思議で仕方ない。第二に、もし朝鮮人が不逞な企てを以ってするとしても、病人を収容する病院を襲撃する様な馬鹿者揃いではないであろうと。大学病院へ進む様決心した。
(小畑惟清『一生の回顧 - 喜寿』私家版、1959年)

中村忠蔵〔金杉下町で被災〕
一晩たって朝方目がさめたら、まわりが真っ赤、ほんと真っ赤だよ。それからいまの大関横町に学校があったのでそこに避難した。そうしたらこんだあ朝鮮人騒ぎでね。どっからデマがとんだんだか知らないが、朝鮮人がきて爆弾投げるってんだ。方々でその間にパンパンすごい音がするんだ。朝鮮人がきたら殺しっちまえってんで殺気だっていたんだが、そんなときでもゆれかえしがなんかいもあったんだよ。学校にいてもぐらぐらとくるし、そのたびに校庭からとび出しちゃうんだよ。それでね、しょうがないから、水汲みに行こうと思ったら、こんどは朝鮮人が井戸の中に毒を入れたっていうから井戸水も飲んじゃいけなえっていうことになった。
〔略〕あのじぶん朝鮮人てのは埼玉でも千葉でも駅のまわりで朝鮮人が来たなんていうとすぐ殺されちやって。あんときやそうとう殺されただろう。日本人だって田舎の人なんざまちがえられて殺されたんだよ。お互いのあいさつで、朝鮮人てのは日本語がよくできないから「だいこん」を「タイコン」なんていうし、ごくろうきまってのがいえないんだな。夜警のときお互いにあうと「ごくろうさま」っていうんだよ。ごくろうさまといえない奴はあやしいって殺されちゃうんだ。まちがえられて殺された人もそうとういるでしょうね。〔略〕だけどなんであんなに朝鮮人がころされたんだろうかね。
(「吉原池は死体でうまっていた」日朝協会豊島支部編『民族の棘 - 閲東大震災と朝鮮人虐殺の記録』日朝協会豊島支部、1973年)

森下実〔下谷区寵泉寺町41で被災〕
〔2日、上野公園で〕今日も一日中頻々として余震があったが、その内に朝鮮人があばれ出したとの噂が流れ出し、危険を避けて都心を離れるべく公園を出て、音無川に添い王子から飛鳥山に登ったが、深夜になり朝鮮人の集団が此方に押し寄せて来たとの噂で、これは大変だ鉄道で遠くに逃げるより外はないと、王子駅で東北方面(行先不明)の列車が出るのを待った。罹災者は無料で超満員の列車だった。
3日朝、列車は宇都宮に到着したが同地止りで、止むなく近所の家で親切に握り飯を出され、宿泊の面倒を見てくれたが、その内に又噂が飛んで田母沢御用邸のある日光を中心として朝鮮人が水源地に毒を入れたという。
(金杉二丁目町会史編纂委員会編『金杉二丁目の人々と町会の歴史 - したまち・金杉の今昔をたどる』金杉二丁目町会史編纂委員会、1987年)

若林君江〔当時浅草区清島尋常小学校4年生〕
〔2日夜〕三輪のガードの下に家の知っている家があるのでそこへ行きました。その時私達が、いたところは○○人が200人もきて火をつけたり井戸へ毒を入れたりするというのでこわくてたまりませんでした。けれども、そこは運送屋なので、馬がいるので馬屋の中へござをひいて、ふとんをかけてねました。すこしたつと、うわーと大きなこえがして、中で誰かがあつまれーといって、ふえをならしました。そして、わいわいいっているので、こわくてたまりませんでした。
(「9月1日」東京市役所『東京市立小学校児童震災記念文集・尋常四年の巻』培風館、1924年)

つづく




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