2019年9月10日火曜日

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その40)「そうさな、あれは目黒近くだったと思うな、平生では随分見ていられないような光景が到る処にあったよ。何しろ、皆なのぼせ切っているんだからな。何が何だかわからなくなっているんだから・・・。まごまごすれば、引つかまえられてえらい眼に逢うんだからな。でもその中を通らないわけには行かないから、びくびくしながら、いろいろな申訳を言っては、やっとそこを通してもらって来ましたよ。それにしても、人間と言うものは、心の安定を失うと、ああなってしまうんですかな。恐ろしいものですな・・・」

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その39)「西南に当る本街道では誰何の声響き渡り、続いて阿鼻叫喚の巷と化しました。北を望めば近く帝都一帯の火焔、南は遥かに横浜の天紅くして何となく世界破滅の感に触れざるを得ませんでした。夜は刻々と更け将に三更に近づいても、部隊をなした鮮人の襲来は実現しそうにもありませんので、私は大体に於て危険なきものと認め、婦人小児を屋内に入れて安心せしめ、唯男子をして交替万一に備えしめましたが事に何事もなく夜を終りました。」
から続く

大正12年(1923)9月2日
〈1100の証言;目黒区〉
石坂修一〔判事〕
〔2日〕午後4時頃宅前の道路を多数の老幼婦女目黒方面より遁走し来れるを以て訪ぬるに或一人は、多摩川方面より鮮人200名爆弾兇器を持ちて東京に攻寄するものなりと答う。又一人は自分もまさに捕えられんとしたるも振切りて逃げ来れりと答う。〔略〕近隣の勇敢なるは目黒方面に鮮人と闘わんとして走り怯懦なるは驚きかくれ周囲の家に人あるなし危険これに過ぎず。
余は無気味ながら11時頃まで警戒、あたかも知合の警官に会い鮮人来襲の実否を尋ぬるに、多摩川にて砂利採取に使用せられおる鮮人200名が目黒渋谷方面に向って進行したるも直に差止められたる事実あるも、最早来襲の恐なしとのことなれば、警官と協力して工場裏手に集まりたる人々に説き退散せしむるにつとむ。これより以後は居内にて眠ることとなる。
同夜徹宵警戒、警戒中将校の服装したる男、自動自転車を駆り鮮人2千名来襲せりと報し歩きたりと聞く。諸種の事実を総合して考うるにこれは真実なり。
〔略。3日、横浜に向かい、藤棚の従弟夫婦を訪ねる〕夫は竹槍を杖いで警戒に当れり。1日以来の鮮人の暴状を語ること詳なり。〔略〕又曰く、鮮人と見れば直に殺してよしという布令が出たりと。
(「遭難手記」横浜地方裁判所編『横浜地方裁判所震災略記』横浜地方裁判所、1935年)

及川保子
〔2日か3日、戸越で〕〔白石〕隆一の自宅に「城南地区で不呈(ママ)朝鮮人が暴動を起こし、数百人の集団が爆薬を持って押し寄せてくる。日頃の腹いせから婦女子を襲ったり、井戸に毒薬を投げ込んでいるそうだ。早く避難所に逃げなさい」と触れ回ってきた者がいた。女子供ばかりだった隆一の家族は、このお触れに気が動転し、脚が不自由で一人では歩けない祖母に留守をまかせ、とるものもとりあえず、避難所に指定された駒沢の陸軍野砲隊の施設に向かって逃げた。
同じ触れがあたり一帯に回されたため、駒沢に向かう避難民の群は徐々にふくらんで大集団になっていったが、途中、隆一は震災のスケッチをしてくる。先に行っててくれ」と、なをみらに言うと、すぐに集団から離れ、どこかに消えてしまった。〔略〕そのときのことを、妹の保子は後年、次のように書いている。
「ちょうどその時、朝鮮の人たちがあばれたから、女、子供は1カ所に集め男の人達が守る、との触れがあり、何日かを近所の人達と過しました。兄は、市内の様子をスケッチすると言って、その頃画家仲間が良く着用した流行のロシア服の”ルパシカ”を着用し、ベレー帽をかぶってわが家の家宝の日本刀を腰に差して、焼け跡に出かけました。田舎から出てきたばかりで東北ナマリまる出しのズウズウ弁です。変てこな姿も暴徒にまちがえられる原因だったと思います。
〔略〕父親が目黒の林業試験所の前を通って家に帰ろうと歩いていたら、道のかたわらにたくさんの人が集まり何やら大騒ぎしているのに出会ったそうです。いつもはそんなことに無頓着な父親なのですが、何となく人垣を分けてのぞいたら、なんと吾が子隆一が真中に座って両手を合わせているではありませんか。まわりには”タケヤリ”を持った若者数人が殺気立って取り巻き”やっちまえ、やっちまえ”と怒鳴っていたところだったそうです。父親は驚いてやにわに人をかき分け”これは私の子です”と大声を張り上げ息子に抱きつきました。劇的なシーンだったようです。
”お前の息子だと証明するものがあるのか”とか、みんなでがやがやと問いつめたそうですが、幸いにも父親はタバコ専売局勤めの証明を持っていて、どうやら許され命びろいをしたのです。帰宅してその様子を泣きながら話してくれました。涙など見せたことのない頑固な父親でしたので、そのときの2人の姿を見て私も貰い泣きしたのを記憶しています」。
〔弟の良平によれば兄隆一が救出された場所は「山手線の目黒駅から西方日黒川を越えたところにあたる大鳥神社の交差点近く」〕
(小池平和『美は脊椎にあり ー 画家・白石隆一の生涯』本の森、1997年)

小川森太郎〔当時下目黒422番地在住。品川町立東海小学校に勤務〕
翌日〔2日〕の晩早く床について何時間か過したのであろうが表の通りが騒々しくて目が覚めた。あわただしい足音が聞える。誰かが早く逃げましょう、ぐずぐずしていると攻めて来るよ、などと口々に叫びながら走り来たり、走り去る様子なので戸外に出て見ると、後から後からと暗い闇の中を大鳥神社の方に走る人波である。
呼びとめて訪ねると「横浜刑務所を破って脱獄した朝鮮人が東京の方へ数千人隊を組んで攻めて来るので大切な物を持って逃げよ」との事です。先生も早くというのだ、「大鳥神社の境内へ行きましょうと消防の人達が言うています。白い着物は目につきやすいからなるべく黒いものを着なさいと云っています」と親切に知らせて下さった。
家族に知らせて当座必要な財布やら、タオルなど持って言わるる様に神社に行った。
しばらくすると又しても消防団の人達が来て「ご注意を申し上げます。ここは道路わきで人目につきやすいから下目黒小学校へ集って下さい。引込んだ広場だから都合がよいから急いでください。落し物忘れ物のない様注意して下さい」と細心の注意をして下さった。
場内には既に多数の人が集っていた、「好い時をねらったものだ。人心の落着のない時を見込んでよくもやられたものだ」と感心している者もあり、それどころではない、皆どうすれば防げるか何か工夫をしなくては、むざむざやられてしまうではないか、など思い思いの泣ごとやら真剣になって小首を傾けている者もある。
〔略〕9月2日よりは昼夜を分かたず刑務所破りの不法者を警戒するので各町会は要所要所に詰所を作り自警団を組織して警備に当った。人相のよくない者は呼び止められて尋問された。どこから来たか、どこに行くか、名前は、何の用事かなどと質問し、発音の下手な者で、「ラリルレロ」「タチツテト」の言えない者は三国人と疑われた。危く切られた者もあった。又しばられて困った人もあった。戒厳令が敷かれて戦時状態であった。
(小川森太郎『清水東町会誌考』私家版、1973年)

田山花袋〔作家〕
〔友人のKの話。2日、横浜沖から東京に帰る〕
「何しろ、朝、早く出て、目黒の方までやって来るのに、1日かかってしまったからね。それに閉口したことは、鶴見あたりから何しろあの騒ぎが大変でね。まごまごすれば、どんな眼に逢うかわからないんだからな・・・。
そうさな、あれは目黒近くだったと思うな、平生では随分見ていられないような光景が到る処にあったよ。何しろ、皆なのぼせ切っているんだからな。何が何だかわからなくなっているんだから・・・。まごまごすれば、引つかまえられてえらい眼に逢うんだからな。でもその中を通らないわけには行かないから、びくびくしながら、いろいろな申訳を言っては、やっとそこを通してもらって来ましたよ。それにしても、人間と言うものは、心の安定を失うと、ああなってしまうんですかな。恐ろしいものですな・・・」
(田山花袋『東京震災記』博文館、1924年)

古川富美枝〔当時芝区愛宕高等小学校1年生〕
〔2日、避難先の目黒で〕ようやく火事がおさまって夕方帰ろうとすると〇〇人の騒ぎ。
裏の竹薮で人の流言とは知らず息をこらすその心地。度々起こる数多の人声に生きている心もなく今にも地獄の鬼に見えるかと。それから「逃げてください逃げてください」と叫ぶ巡査の声に逃れた先は世田谷の練兵場。後で聞けば一里半ばかりだとよくもそんなに歩けたものだと今更感心する。幸に焼け残った家に落ついたのは3日の日。
(「震火災の記」東京市役所『東京市立小学校児童震災記念文集・高等科の巻』培風館、1924年)

『東京日日新聞』(1923年9月3日)
「鮮人いたる所めったきりを働く 200名抜刀して集合 警官隊と衝突す」
政府当局でも急に2日午後6時を以て戒厳令をくだし、同時に200名の鮮人抜刀して目黒競馬場に集合せんとして警官隊と衝突し双方数十名の負傷者を出したとの飛報警視庁に達し〔略〕。

つづく




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