2019年9月12日木曜日

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その41)「しかし、田無分署の報告書と田無の人びとの記憶は大きく食い違う。.....、まだ記憶の鮮明な時期に古老たちが語っている内容が一致していることを考えれば、警察が最初から自警団を取締まったとは考えにくい。〔略〕田無分署の報告には事後の合理化を含んでいるとみられるのであり、震災直後の田無では、朝鮮人をめぐる流言が警察も含めて交わされていた、と考えるのが妥当であろう。」

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その40)「そうさな、あれは目黒近くだったと思うな、平生では随分見ていられないような光景が到る処にあったよ。何しろ、皆なのぼせ切っているんだからな。何が何だかわからなくなっているんだから・・・。まごまごすれば、引つかまえられてえらい眼に逢うんだからな。でもその中を通らないわけには行かないから、びくびくしながら、いろいろな申訳を言っては、やっとそこを通してもらって来ましたよ。それにしても、人間と言うものは、心の安定を失うと、ああなってしまうんですかな。恐ろしいものですな・・・」
から続く

大正12年(1923)9月2日
〈1100の証言;五日市〉
青梅警察署五日市分署
9月2日午後5時頃、多数鮮人は社会主義者と相提携して八王子市を襲い、更に大挙して管内に侵入せんとすとの流言あり、これが為に自警団の発生を促し、漸く直接行動に出でんとするの傾向ありしが、当署はその流言に過ぎざる事を知るに及び、町・村当局者並に小学校長等と協力して、これを一般民衆に宣伝し、かつ青年団・在郷軍人団・消防組等の幹部を招きて懇諭する所ありし。
(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)

〈1100の証言;青梅〉
石川泰三〔青梅で被災〕
〔2日、和田で〕自転車をせわしく降りた人が訪れた。それは、中分のマッサージ業の源さんであった。「今、朝鮮人が200人青梅へ来襲して火をつけるという騒ぎですから、油断が出来ません。一寸お知らせ致します」 〔略〕源さんは言うだけ言って、そのまま自転車を夕闇に走らした。〔略〕俄かにじゃんじゃん警鐘が鳴る。そら! 火事だツ! - ところが火の気は、さらに見えない。が、方向は正に青梅であった。しかたがない。その防備をせなければならぬ。父は、下男万吉に言い付け、諸道具を土蔵に入れ、観音開きまでも鎖させて、重要書類を一まとめに腰になし立退きの用意をする。妻や妹は、裾をからげ、襷十文字に、これまたその手伝いをするのである。
「まあ、お母さんは何をしているのだろう! この騒ぎを知らないのだろうか! 実に呑気だわネえ。鮮人にでも捕まったらどうするだろう・・・。ほんとうにし方がな!」
素六や千代子、篤子は恐いよ! 恐いよ! とただ泣くのみである。
ところへ母が帰った。〔略〕母はしばらくして語る。「〔略〕夕刻になった。すると、俄かにチャンチャン警鐘が鳴り出した。〔略〕〈火事はどの辺でしょうねえ〉〈なあに、火事じゃないそうです。今鮮人が300人ほど青梅へ入込んで、斬合いが始まったそうです。それで警鐘が鳴るのでしょう〉 近所の人が物知り顔に言う。私は実に驚いた。〔略〕畑中駐在所前へ来ると〔略〕近所の青年が2、3人訪れた。〈なんでも、君等も直ぐ準備しなければならぬ! なかなか油断が出来ない!〉〔略〕」と(母は)語る。
そのうち白玉橋方面に当って、右往左往、人の騒ぐ声が、銃の音、警鐘の音の間にまじって聞こえる。陰惨な気分は、今にも阿鼻叫喚の生地獄が現出されるかのようであった。
〔略〕恐ろしい2日の夜は明けた。幸い、鮮人は来ない。また人まちがいの怪我もできなかった。〔略〕午後3時過ぎになった。役員の一人が来て、青梅から伝令があって、今夜もなかなか油断が出来ない。なんでも八王子方面から峠を越して鮮人が来たそうであるから、今夜も各村では警戒しなければなるまい、というのである。〔略〕一面に於ては、東京より避難するについて、どのくらい自警団連中に脅かされたりしたかわからぬ。こうした騒ぎも、不逞鮮人がこの地震につけ込み、社会主義者と気脈を通じて好機逸すべからずと、爆弾を投げ、婦女を凌辱し、金銭を強奪し、放火し、良民を殺戮し、あらゆる惨虐を重ねたによって、自警団の組織となったではあるまいか!換言せば吾人の生命財産を保護するについては、警察署の威厳をのみ頼みとするには余りに突発した騒ぎが大きかった。この意味において出来た民衆の警戒が多少の物議を惹起しても無理からぬことと思われるのである。かくの如き社会の安寧秩序を乱す鮮人や社会主義者は、実に国賊である。乱臣である。震災で居るべき家もなく、飢餓に泣いて、恐怖に戦いて居る良民に対して、極力警戒し、撲滅して以て安定をはからなければなるまい。こう考えると、一脈の義憤は自ら胸中に漲る。僕は決然として第二部自警団長として起った。
〔略。3日夜〕暗闇からのっそり人が現あれる。「第二部では高張をつけて置くのですか・・・、提灯は消した方が良いです・・・」〔略〕
「誰だ!・・・提灯を消せというのは?」語気を荒く言いつつその人を見た。○○駐在所の巡査であった。
「僕ですよ。提灯は消して、暗黒にして置いて、いきなり通行の者をなぐりつけ、それから訊問するがいいです。なかなか鮮人はすばやいです。こちらで調べようと思う間に、すぐむかってくるですからね・・・」
「しかし、それでは無辜の良民に怪我をさせたり、または、同士討がでます。僕の考えでは、通行人の挙動、言語等よく見きわめて、怪しいと思ったら最後の手段を採るつもりです。この意味に於いて、提灯は消すことは出来ません。・・・」断固として言った。自警団が人間違いで、無辜な良民を殺したことは、実に無数である。人民保護の役人がこんな軽率な監督命令をするから・・・。
〔略。4日〕夕方になると、青梅方面よりまた伝令があった。今夜もどうも油断が出来ぬ、と言うのだ。東京から鮮人や社会主義者が、みな郡部へ逃げてくるという評判である。それで、詮方ない、その夜も刀、竹槍、棍棒の姿で出かけた。(1923年記)
(「大正大震災血涙記」石川いさむ編『先人遺稿』松琴草舎、1983年)

青梅警察署
9月2日午後5時頃、強震再襲すべしとの流言ありて、一時人心の動揺を見しが、幾もなく鎮静したるに、午後6時頃に至りて「鮮人数十名拝島村に襲来せり」「鮮人の団体は八王子方面より福生村方面に向えり」「鮮人等爆弾を投じて各所を焼けり」等云える蜚語これに代るに及びて始めて混乱の状を呈したるを以て、直に署員を拝島・福生両村に派遣して偵察せしむると共に、本署に於ては青梅町を中心として霞・調布・小曾木・成木・吉野・三田の諸村を警戒するの一方には更に氷川村巡査部長派出所詰の巡査部長をして、各駐在所巡査及び消防組を指揮して古里村以西を警戒せしめ、更に在郷軍人団と交渉して警備の応援と伝令の任務とを託して、厳に自警団員の直接行動を戒め、管内の警備はことごとく警察の指揮命令に従わしむ、しかれども暴行の流言は何等事実の徴すべきものなく、ただ数名の鮮人の福生村瀬船場付近を徘徊せるを認めてこれを保護検束し同村居住の飴売鮮人19名に厳密なる監視を付せるのみ。
かくて翌3日警視庁の命に依り、警部補1名・巡査15名を応援として本庁に派遣し、警察力の減殺せらるるや、在郷軍人消防夫等を督励して警戒の任に就かしめしが、流言はなお衰えず、「鮮人等埼玉方面より箱根ヶ崎村に襲来せり」「東京・横浜・埼玉方面に於ては鮮人の暴行甚しぎを極む」など称し、疑懼の念を助長せるが為、次第に自警団悪化の傾向を示したれども、本署の努力幸に宜しきを得て、遂に直接行動等の挙なかりき。
(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)

〈1100の証言;田無〉
浦野善次郎・下田富三郎・小崎順誉・佐々登志・賀陽賢司
大正時代の記憶がまだ鮮明な1957年に、町の古老たちが関東大震災について語った貿重な資料(『古老の語る田無町近世史』)の中で浦野善次郎は、「夜になると朝鮮人が来るというので”竹ヤブ”に逃げた」と語っている。
〔略〕下田富三郎の日記には、早くも9月2日に「流言蜚語等にて人心不安にかられ」という記述が登場する(『史料編』Ⅱ336)。
〔略〕田無における流言については、小峰順誉も次のように述べている。「田無でも朝鮮人が井戸の中へ毒を入れるから気を付けろというデマがとんだから、井戸を中心に自警団が警戒した」(1988年10月31日聞き取り)。自警団は消防団員だったという。
管内における「人心の動揺」は3日以降も激しく、「或は警鐘を乱打して非常を報じ、或は戎・凶器を携えて通行人を誰何審問」して「鮮人の一群が吉祥寺巡査駐在所を襲えり」「八王子方面より300人鮮人団体将に管内に襲来せんとす」などの流言が盛んに飛び交った。田無分署は調査の結果、流言のような事実はないとして朝鮮人を保護したが、騒擾をきわめた民衆は警察に反抗し、驚察署長を暗殺すべしというものすらいたという。田無分署はその誤解を説き、自警団に対する取締りを「励行」した。これが震災から1カ月後にまとめられた田無分署の報告である。
しかし、田無分署の報告書と田無の人びとの記憶は大きく食い違う。先に引用した『古老の語る田無町近世史』によれば浦野善次郎は、「警察署長は、男は棒とか刀を持って、朝鮮人が来たときは殺せという命令を出したほどであった」といい、佐々登志は、「署長が私の家に来て、朝鮮人を見つけ次第殺せということを云ったので、主人が『それより一時朝鮮人を収容した方がよい』と話していたのを覚えている」と語っている。
警察が自警団を取締まることは、当時あったであろうが、まだ記憶の鮮明な時期に古老たちが語っている内容が一致していることを考えれば、警察が最初から自警団を取締まったとは考えにくい。〔略〕田無分署の報告には事後の合理化を含んでいるとみられるのであり、震災直後の田無では、朝鮮人をめぐる流言が警察も含めて交わされていた、と考えるのが妥当であろう。
〔略〕震災後、外地から帰国した賀陽賢司によれば、9月20日に中央線の吉祥寺駅で下車して以降、各所で消防組の自警団による検問に合って朝鮮人と疑われ、ようやく田無まで帰郷したという(『古老の語る田無町近世史』)。田無とその周辺で流言飛語がおさまるまでには、相当の時間がかかったように思われる。
(田無市企画部市史編さん委員会編『田無市史・第3巻通史縞』田無市企画部市史編さん室、1995年)

府中警察署田無分署
9月2日午後1時頃鮮人襲来の流言伝わるに及び、民衆の憤激漸く甚しく、鮮人に対する迫害は至る所に演ぜられしかば、当署は鮮人をして任意その外出を申止せしむると共に、流言に就きて調査せしもその事実を認めず、しかも翌3日以来人心の動揺益々甚しく、或は警鐘を乱打して非常を報じ、或は戎・兇器を携えて通行人を誰何審問するのみならず「鮮人の一群が吉祥寺巡査駐在所を襲えり」「八王子方面より300人の鮮人団体将に管内に襲来せんとす」等言える蜚語盛にして騒擾を極め、本署が鮮人を保護するを見ては暴徒に與(くみ)する者なりとて警察に反抗し、甚しきは署長を暗殺すべしと称するものあるに至れり。
(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)

つづく



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