2019年9月8日日曜日

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その38)「9月2日の夕刻近く、当時はめずらしいオートバイ(ハーレー)3台ぐらいに分乗した屈強な若者たちが、「目黒方面から、あるいは五反田方面から手に手に爆弾を持って朝鮮人が押しかけてくる」。その数は千人2千人とも、怒号しながら駆けぬけてゆく光景を私は目撃した。しかし朝鮮人は一人もあらわれなかった。むしろ、自警団や警察官の方が手に手に武器を持って朝鮮人狩りを始めたのである。」  

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その37)「「戒厳令と言えば軍隊のカはなんと言っても大したものですな。軍隊の出動がなかったら、東京の秩序は到底保てなかったでしょう」 ..... 私は大人たちの間に一人前の顔を突き込んで、その会話に耳を傾けていた。大人たちの軍隊讃美に同感だった私は、いや、恐らくその大人たちも、この関東大震災の際の軍隊の威力なるものが、のちの軍閥台頭の因を成し、やがてそれが無謀な戦争へと導かれて行ったことに、その時は少しも気がつかなかったのである。」
から続く

大正12年(1923)9月2日
〈1100の証言;港区/芝・赤羽橋・一之橋〉
荒井虎之〔当時警視庁警戒本部員〕
筆者は2日夜課長の命を受けて、芝公園増上寺内、愛宕警察仮本部に署長弘田警視を訪ね、「仙台坂の鮮人が攻め込まぬよう管内の関門を固めるよう」本部命令を伝達した。〔略。弘田警視は〕「そんな馬鹿なことがあるものか」と一笑に付した。
(「恐ろしき流言飛語と群集心理の体験」『捜査研究』1962年3月号、東京法令出版)

井上
「避難民を虐ぐ暴漢を拘束す 生と死の現状を見、死線を越えて帰洛した井上氏の実見談」
戒厳令が布かれたのはこの夜〔2日〕からで、芝四国町即ち東海道筋では既に青年団、在郷軍人などと暴徒の間に争闘が演ぜられ、警備はいよいよ厳重になって来ました。日本人は闇の夜にも敵味方を知るために白鉢巻に腕章をつけ誰でも一々誰何して行く先を詰問し、何等の返事がない時は相当な処置をとったのです。
(『京都日出新聞』1923年9月6日)

小川平吉〔政治家。城山町(現・虎の門)に避難〕
〔2日、城山町東久邇宮邸で〕時に米糧すでに尽きんとす。人心恟々たり。守矢氏をして自動車を駆り大森に至り必需品を購わしむ。品川に至れば鮮人襲来の警備厳重にして南行を許さず、空しく帰市せりという。
〔略〕2日使者帰京す。横浜市の惨状は言語に絶し、灰烟空を覆い死屍路に横わる。異臭鼻を衝く。行人皆鼻を蔽いて往来す。この混雑中朝鮮人の暴行を為すものあり。警官、民衆と共にこれを追跡し逮捕す。使者目あたりこれを見たりという。品川における鮮人襲来の説はけだしこれより伝わり、更に渋谷、目黒等に転じて鮮人2千名襲来の説となり、又市外各所における鮮人及社会主義者の暴行は、警官の宣伝と民衆の流言と相俟ちてたちまち全市に伝播して自警団の奮起となり、更に地方に流布せられて恐慌を惹起し、遂に市県を通じて鮮人の虐殺となる。3日以後市内各地の街角竹槍、刀剣の閃くを見ざるなし。戒厳令また昨夜発布せられ、市中夜間行人絶ゆ。
(「地震人震記」小川平吉文書研究会編『小川平吉関係文書Ⅰ』みすず書房、1973年→琴秉洞『朝鮮人虐殺に関する知識人の反応2』緑蔭書房、1996年)

後藤順一郎
当時14歳の少年工にすぎなかった私は、いやおうに拘らず竹やりを持って古川沿岸地帯の警備を命せられたのを覚えています。「9月2日」の昼すぎ頃からどこともなく伝わってきた不逞鮮人の暴動のデマであったり、あるいは井戸に毒薬を投げ込んだので飲むな! といったことが広くつたわってきました。町の自警団組織を強化するため仕組んだものか? 自警団自体が警察と共同作戦を指揮していたようでした。自警団があらゆる武器を持っていたし、警官があご紐をかけ、抜剣し、異常きわまる興奮状態をひそかに眺め、いささかびっくりしたのを覚えています。
古川沿岸地帯は震災による火災をまぬがれたのが反って朝鮮人暴動のデマにまんまとのせられる感情興奮ばかりでなく、ふだんの軽蔑感を煽ることになった感じでした。故に、そうした軽蔑感情に呼応するが如く、9月2日の夕刻近く、当時はめずらしいオートバイ(ハーレー)3台ぐらいに分乗した屈強な若者たちが、「目黒方面から、あるいは五反田方面から手に手に爆弾を持って朝鮮人が押しかけてくる」。その数は千人2千人とも、怒号しながら駆けぬけてゆく光景を私は目撃した。しかし朝鮮人は一人もあらわれなかった。むしろ、自警団や警察官の方が手に手に武器を持って朝鮮人狩りを始めたのである。
そのとき、どんな行動を私はしただろうか? まず、自警団の幹部から朝鮮人か、日本人かを見分ける判別を教えられた。それが発音の語尾のアクセントによって確かめ「アイウエオ」を正しく発音しない者を朝鮮人と見なせ? というきわめて乱暴なやり方だった。
故に、ふだん顔見知りの朝鮮人といえど有無をいわさずら致していく方針を自警団は決めていた。当時、古川沿岸地帯にはたくさんの荷馬車業者があった。その荷馬車屋に住み込み夫婦で働いていた若い朝鮮人がいた。当然のことながら荷馬車屋の主人も自分の家で働いている朝鮮人が不逞鮮人と思っていなかっただろうが、黙して語らずで自警団に参加していたことだろうと思います。ところが、朝鮮人騒ぎで恐怖に怯えたのは荷馬車屋で働いていた朝鮮人労働者だったのでしょう。身の危険を感じ、いち早く姿をくらまし、ほとぼりのさめる頃まで、どこかへ逃亡したのでしょうが、留守を守る妻君はそうはいかなかったにちがいありません。たけりたち、気狂いじみた自警団幹部は、この若い妻君を見のがさなかったのです。どこへ逃がした! かくしたところを言え!・・・といって彼女をら致してゆくのを私は目撃したのです。そして、ただあ然と眺めるだけでした。哀号! 哀号と泣きさけぶ声が少年の私に強烈な印象感覚を与えました。古川沿岸に沿う雑木林に連れて行ってしまったのです。少年といえども、なぜ勇気を揮って若い妻君をかばってやれなかったのか? その痛恨ざんきは朝鮮人虐殺に私は加担したことになるのです。階級的な思想や政治感で日本民衆大衆の犯罪を朝鮮人民に謝罪することはたやすいことだと思いますが、一方、人間感情の通路としては深くて底なしの感じがします。その感情通路の亀裂させ溝をつくる感情媒体の根深い遺恨をつくり出した日本人民大衆の「どしがたい」感情閉塞を作り出している根本を掘り下げ、震災問題を通じて問い返されるときであろうと思います。
〔略〕2日の夜、10時過ぎ、馬車屋に夫婦で雇われていた私の知りあいの朝鮮人の奥さんの方が、近くの雑木林の中で凌辱を加えられ虐殺されたということを聞いて知っています。私といっしょに警備していた人間に、おまえの知っているかみさんがあそこでやられているから見てこいと言われ、とても行く気になれなかったのが当時の私の実感でした。
(九・一関東大震災虐殺事件を考える会編『抗はぬ朝鮮人に打ち落ろす鳶口の血に夕陽照りにき ー 九・一関東大震災朝鮮人虐殺事件六○周年に際して』九・一関東大震災虐殺事件を考える会、1983年)

田中清〔当時芝区芝浦尋常小学校5年生〕
〔2日〕その夜も芝公園でねた。真夜中になると気味が惑いのと、うすら寒いので眠られなかった。うとうとしている中に人々が〇〇人が来た来たとののしる声がした。中には「〇〇人が来たならばぶち殺してやる」などと力んでいる人もあった。どんどんという音につづいて、どぶんと水の中へとびこんだような音が聞こえた。同時に「わあーっ」と時のこえがあがった。僕は驚いてお父さんをよび起こした。お父さんも驚いて起きた。芝園橋へ行って見ると大勢の人が棒や剣などをもって、川の中をさがしている。中には石を投げる者もあった。お父さんが「何ですか」とそばの人にきいたら、〇〇人がピストルを放って川の中へ飛びこんだということであった。こうして2日は過ぎて行った。
(「大震災の思出と災後の学校」東京市役所『東京市立小学校児童震災記念文集・尋常五年の巻』培風館、1924年)

坂東啓三〔実業家。当時19歳。赤坂で被災、京橋区霊岸島の坂田商店に戻り、宮城へ避難〕
〔品川をめざして2日夕〕ところが赤羽橋の所までくると、警官や自警団やらが大勢立ち騒いでいて、それより先、品川方面には通してくれません。というのは、そっちの方面で、朝鮮人が暴動を起こしているらしいということです。仕方がないから迂回して麻布一の橋にある主人の親戚の家に立ち寄り、そこで様子を見ようということになりました。ようやくその親戚の家まで来た時は、すでに辺りは真っ暗で、物騒なデマが飛び交う中を品川まで行くには危険すぎました。
〔略〕その家の裏手に古川という川が流れていましたが、その中を朝鮮人と思われる人たちが、自警団らしい男たちに追われて逃げまどっていたのを私は覚えています。それ以外は静かなものでした。
(坂東啓三『私の歩いた道 - 負けず 挫けず 諦めず』日刊工業新聞社、1980年)
光水保〔当時墨田区でメリヤス工場経営〕
〔2日夜か?〕暗い廃墟の町を通りぬけて、芝山内にさしかかる。すると暗がりからいきなり、棍棒や竹槍を持った若者たちがばらばらと現われて保を取りかこんだ。「おいこら、お前は日本人か?」なかの一人が、のっそりと保の前に立ちはだかっていう。思わず保もむっとなっていい返した。「見ればわかるだろう」「なにい・・・それじゃイロハ48文字を大きな声でいってみろ」 ばかばかしいのでだまっていると「手に持っている瓶は何だ。毒水が入っているんだろう。飲んでみろ」 いいたいことをいう。さすがに保も腹に据えかねて、思わず大きな声を出した。「おれは溜池の衆議院内に立ち退いて来た罹災者だ。今日は知人の家に見舞いに行っての帰りだが、おまえたちがそんなに心配なら、おれといっしょに衆議院までついて来い。身もとをはっきりしてやる」
連中、しばらくがやがやとやっていたが、やがて中の一人が声をかけた。「よし、通れ。・・・しかし、生意気な奴だ。今度つかまえたら、ただではおかんぞ」
おどし文句と共に、かこみは解かれた。
(高橋辰雄『莫大小(メリヤス)の生涯 - 光永保伝』私家版、1975年)

つづく



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