より続く
日下徳一『子規断章 漱石と虚子』(晩年の子規に関するメモ)(メモ6)
5 畢生の功績『子規全集』
ところで、だいぶ脇道にそれたが忠三郎畢生の功績は二高時代からの友人ぬやま・ひろし(西沢隆二)にけしかけられて、新しい『子規全集』を刊行したことだ。
子規没後、『子規全集』は大正十三~十五年にはアルス社から、昭和四~六年には改造社からと戦前に二回出ている。しかし、その後の研究成果や新しい資料を取り入れた全集は、戦後の全集ブームにも取り残されて戦後三十年もたつのに出ていなかった。
戦前、非合法の革命運動で逮捕されたぬやまは、獄中で子規の著作にめぐり合い生きる力を得、夢中になって子規を読んだ。そして忠三郎と子規の関係を抜きにしても、ぬやまは子規に惚れ込んだ。子規を読まなかったら、ぬやまは十二年に及ぶ府中刑務所での獄中生活に、堪えられなかったかもしれない。
ところが、ぬやまが『子規全集』を出したいと思い立った時、忠三郎はすでに病床にあったのである。
「忠三郎の生きている内に、最初の一冊でも手にとらせてやりたいのだ」
こうしたぬやまの情熱が出版社をゆり動かし、いろいろな曲折を経ながら最新の編集理念のもと、別巻三巻を含めて全二十五巻の『子規全集』が講談社から刊行されることになった。昭和五十年四月、最初の第一冊が配本されたが、忠三郎は全巻の完結を見ることなく、十五冊目の配本が終わった昭和五十一年九月十日に死んだ。また、全集刊行に命をかけていたぬやまも、忠三郎のあとを追うように忠三郎の死の八日後に没した。忠三郎が七十四歳、一歳下のぬやまは七十三歳だった。
ところで子規と血の繋がる従弟である忠三郎は、小学生時代「俳譜童子」という異名をもっていたという服部嘉香の話(『子規全集』月報20)もあるぐらいだが、どうして文学の道に進まなかったのだろうか。よく「歌も俳句も作らない」約束で、正岡家の養子に迎えられたのが原因だといわれるが、それは小学校を出たばかりの時のことである。
中学生、高校生になれば自我にも目ざめ、いくらでも軌道の修正ができるのに、忠三郎はかたくなに律との約束を守った。これが前にも拙著『子規山脈』でふれたことがあるが小幡欣治の『根岸庵律女』(「劇団民藝」初演は平成十年六月)の一つのテーマであった。
芝居の中の律が雅夫(忠三郎)に俳句を禁じたのは、雅夫がいくら精進しても子規をしのぐ程の俳人になれる保証はない。子規の縁者として、ひとときは持て囃されるかもしれないが、やがて忘れられていくだろう。律はそんなことで雅夫を、ひいては子規の名を傷つけたくなかったのだという。
忠三郎は小林秀雄など府立一中時代の文学仲間を振り切るように、高等学校では理科を選び大学では経済学を学んだ。そして周囲から、忠三郎にサラリーマンが務まるものかといわれながら、子規のことはおくびにも出さず、生涯無名の一市井人に甘んじた。
しかし血は争えない。忠三郎も職を引いた昭和三十年代の終わり頃から、律がしていたように子規や父拓川の遺品や書簡類の整理を思いつく。そしてふと知り合った雑誌「大阪手帖」の編集長のすすめで、その小さな雑誌に全て未発表の「子規への書簡」の連載を始めた。それは昭和三十九年二月号から、途中病気で休載することもあったが、昭和四十四年五月号まで五十一回続き、病気のため続稿は日の目を見ることはなかった。この中で忠三郎が取り上げたのは九名で、回数は碧梧桐が最も多くて二十回、次いで五百木飄亭が十二回。漱石は一回だけだった。
それらは『子規全集』別巻一「子規あての書簡」に全て収録されているが、「大阪手帖」の編集長は《東京辺りの》《一流の雑誌では出来ないことをやらねばならないという楽しみと自負を持って》連載を開始したと語っている。
忠三郎は収録する書簡や発信者について、子規との関係などコメントを付けているが、これがまた身内から見た子規論になり面白い。・・・・・
(略)
ところで、忠三郎のこの連載の功績の一つは、今まで所在の分からなかった漱石が子規に出したロンドンからの初便りを見つけ出したことだ。このことは本書の「倫敦の漱石」でもふれたが、漱石が明治三十三年十二月二十六日、ロンドンに着いて初めて子規に出した絵葉書が見付からず『漱石全集』書簡集や、『漱石・子規往復書簡集』にも収録されていない。子規がそれを翌年二月十四日に受け取ったところまでは分かっているのに、現物の所在は杏として不明だった。それを忠三郎が律没後、他の断簡零墨といっしょに、反故紙様のものに包まれた書簡類の中から見付けたのである。
その絵葉書はロンドンの目抜き通りを描いたもので、それに漱石がロンドンのクリスマスと新年の感懐を記し、俳句を添えている。忠三郎の注によると絵葉書の絵はイングランド銀行、丸く囲まれたのはエー・バンク・ピードルの肖像だという。
このように晩年の忠三郎はあくまでも裏方に徹し、中央の「一流雑誌」ではできないような地味な子規研究を続けた。・・・・・
つづく
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