より続く
日下徳一『子規断章 漱石と虚子』(晩年の子規に関するメモ)(メモ7)
木瓜咲くや - 漱石、拙を守る
1 子規の七回忌
明治四十一年九月十九日は子規の七回忌に当たるので、「ホトトギス」は九月発行の第十一巻第十二号を「子規居士七回忌号」とし、漱石の談話「正岡子規」を掲載した。
これがその後、漱石の子規像の一つになるわけだが、落語の好きな漱石らしい話しぶりで楽しく読める。これを「ホトトギス」に載せるため、編集者が漱石のところへ話を聞きに行ったのは、たぶん夏前だったにちがいない。この頃漱石は前年の朝日入社第一作『虞美人草』、第二作『坑夫』に続いて第三作『三四郎』の連載を九月から開始する予定で、構想を練っている最中であった。そんな忙しい時期だったので漱石はおそらく資料を十分に準備する暇もなく、思いつくまま話したと思うが、なかなか巧みに子規の人間像を捉えている。・・・・・
(略)
その頃漱石が書き始めていた『三四郎』は、周知のように熊本の五高を卒業した三四郎が、帝大に入学するため上京するシーンから始められている。車中で三四郎は、後に廣田先生と分かる髭を生やして面長の四十男と隣り合わせになり、
(略)
といった会話を交わしていたが、豊橋の駅でその人は窓から首を出して水蜜桃を買った。
・・・・・
次に其男がこんな事を云ひ出した。子規は果物が大変好きだつた。且ついくらでも食へる男だつた。ある時大きな樽柿を十六食つた事がある。それで何ともなかった。自分抔(など)は到底(とても)子規の真似は出来ない。 - 三四郎は笑つて聞いてゐた。けれども子規の話丈には興味がある様な気がした。
ところで漱石の小説の中で歴史上の人物を除いて、朋友や恩師の名前が実名で出てくることはまず無い。子規は没して既に六年も経ち、当時それほど文名が高かったわけでもない。朝日新聞の読者でも俳句に関心のある人は別だが、一般の読者にとって子規はさほど馴染みのある名前ではなかった。
そこへ漱石が果物の話にかこつけて、いきなり子規を登場させたのである。それは、漱石が「ホトトギス」で子規のことを話したように、朝日の読者にも子規のことを話しておきたかったのにちがいない。あれだけ親しかった友人だったのに留学中で死に目にも会えなかったし、懇願されていたのに「倫敦消息」の続篇を書くという責めも果たさなかった。こうした自責や悔悟の念もあって、ここで唐突とも取られかねないほど不自然な形で、子規を登場させたのであろう。『三四郎』の連載は明治四十一年の九月一日から始まったが、ページ数から勘定すると子規の話が出てくるのは九月五、六日頃で、子規の七回忌の十日程前であった。
2 佐々木与次郎
九州から出て来た三四郎が最初に親しくなったのは、専門学校を出て選科にはいった佐々木与次郎という同級生であった。彼は東片町の原田という高等学校の先生の家に住んでいて、半ば書生のようにしていた。初めのうち、三四郎はこの先生が東海道線で乗り合わせた髭の男と同一人物だと分からない。
田舎出で純朴な三四郎は毎日学校へ律義に通って講義を聴いていたが、一か月たってもなぜか学校にも東京にも物足りない。そのことを与次郎に打ち明けると、外へ出て電車に乗って東京中をぐるぐる回るのが一番だと教えてくれた。
(略)
このあたりの与次郎は、漱石が「ホトトギス」の「正岡子規」で語った子規そっくりで、初(うぶ)な三四郎は若き日の漱石である。
(略)
・・・・・漱石は自分自身や朋友や門下生をひっくるめて、三四郎という明治の青春像を作り上げたのである。
(略)
さて、与次郎が兄貴ぶって三四郎を連れ回すのは入学直後だけで、やがて与次郎から子規らしい面影は薄れ、ただの軽率な世話好きの男として描かれている。・・・・・廣田先生だけは相変わらず世間に背を向け、だんだん漱石の分身らしくなっていく。
いうまでもなく『三四郎』は今ふうにいえば明治の青春文学の傑作で、今に至るも決して人気は衰えていない。漱石の作品の中では『坊つちゃん』『吾輩は猫である』『こゝろ』に次いでよく読まれているという。しかし、一般の読者にとってこの中にときどき子規の影がちらついているのに気づくことはまず無い。漱石没後『漱石全集』を編集し、漱石研究に専心した小宮豊隆でさえ、そのことにふれるのは『三四郎』が書かれて半世紀近くたった昭和二十八年に、『夏目漱石』を出した時からであった。小宮はその中で《全体として『三四郎』の上に、ほのかなる哀愁が漂ってゐるのも、子規に対する追憶と当時の自分自身に対する追憶とが一つになって、漱石にさういふ気特を用意したものかも知れない。》と初めて子規の存在をはっきりさせた。
つづく
0 件のコメント:
コメントを投稿