2020年12月25日金曜日

日下徳一『子規断章 漱石と虚子』(晩年の子規に関するメモ)(メモ8)「『三四郎』には「原口さん」という画家が登場する。.....ここでは不折のエピソードが「原口さん」のエピソードになっているが、名前は関係ない。注目すべきは、ここでも漱石は子規の最後の手紙を思い出していることだ。漱石はおそらく「倫敦消息」の続篇を送らなかったことが、こんな時にも唐突に頭によぎったにちがいない。」   

日下徳一『子規断章 漱石と虚子』(晩年の子規に関するメモ)(メモ7)「『三四郎』は今ふうにいえば明治の青春文学の傑作で、今に至るも決して人気は衰えていない。.....一般の読者にとってこの中にときどき子規の影がちらついているのに気づくことはまず無い。.....小宮豊隆でさえ、そのことにふれるのは『三四郎』が書かれて半世紀近くたった昭和二十八年に、『夏目漱石』を出した時からであった。小宮はその中で《全体として『三四郎』の上に、ほのかなる哀愁が漂ってゐるのも、子規に対する追憶と当時の自分自身に対する追憶とが一つになって、漱石にさういふ気特を用意したものかも知れない。》と初めて子規の存在をはっきりさせた。」

より続く

日下徳一『子規断章 漱石と虚子』(晩年の子規に関するメモ)(メモ8)

3 不折の鰹節


「三四郎」を執筆中、漱石はふと子規からもらった最後の手紙を思い出した。

それは子規が明治三十四年十一月六日、久しぶりに漱石にしたためた《僕ハモーダメニナツテシマツタ、毎日訳モナク号泣シテ居ルヤウナ次第ダ》で始まるあの有名な手紙だ。・・・・・

(略)

・・・・・その中に、


不折ハ今巴理(パリ)ニ居テ、コーランノ処へ通フテ居ルサウヂヤ。君ニ逢フタラ鰹節一本贈ルナドゝイフテ居タガモーソンナ者ハ食フテシマツテアルマイ。


と不折のことを面白おかしく書いた個所がある。これは子規が余りにも悲痛なことばかり書いたので、ここらで漱石を喜ばせようと思って、滑稽味を出そうとしたのかもしれない。コーランというのは、不折が美術学校に通うかたわら個人的に師事していたパリの画家、ラフアエル・コランのことだ。

ところで『三四郎』には「原口さん」という画家が登場する。ある日、三四郎がたまたま廣田先生を訪ねた時、そこへ原口さんがやって来て、三四郎は先生と原口さんの話を聞く羽目になった。どうやら原口さんは、三四郎がほのかに恋ごころを抱いている美禰子の肖像画を制作中らしい。・・・・・それから二人は、


「原口さんは洋行する時には大変な気込(きごみ)で、わざわざ鰹節を買ひ込んで、是で巴里の下宿に籠城するなんて大威張だつたが、巴里に着くや否や、忽ち豹変したさうですねつて笑ふんだから始末がわるい。大方兄からでも聞いたんだらう」


と取りとめもない話をする。ここでは不折のエピソードが「原口さん」のエピソードになっているが、名前は関係ない。注目すべきは、ここでも漱石は子規の最後の手紙を思い出していることだ。漱石はおそらく「倫敦消息」の続篇を送らなかったことが、こんな時にも唐突に頭によぎったにちがいない。一般の読者にとっては何の係わりもない話だが、漱石にとってそれは心の中にわだかまっている重石のようなものだったのかもしれない。

子規の手紙に出てくる不折は子規の推挙で「小日本」で挿絵を描き、その縁で日本新聞社から従軍画家として、子規といっしょに遼東半島にも派遣された中村不折のことである。不折は子規や漱石より一歳年長の慶応二年生まれだが、画や書を通じて二人とは親しくしていた。子規は不折が明治三十四年六月末、フランスへ留学するとき、『墨汁一滴』に五回にわたって不折の人となりや画業にふれ渡欧の記念とした。その中で、不折が貧しい中から身を起こし苦学力行の末、住まいや画室を建てその後も倹約を重ねて誰の援助も受けず、洋行の資金を作った話なども紹介した。

おそらく不折は、巴里でも鰹節をかじりながら頑張るとつねづね語っていたにちがいない。・・・・・

(略)


もちろん『三四郎』に登場する画家の「原口さん」は不折がモデルではない。「原口さん」は漱石が親しくしていた洋画家の橋口五葉から思いついた架空の画家である。架空だが、たびたび漱石のお供で五葉のアトリエを訪ねたことがある小宮豊隆の話では、漱石の描く「原口さん」は風貌やアトリエの感じまで五葉そっくりだという。五葉は独特の感覚の美人画を得意としていたので、美禰子をモデルにして美しい婦人像を描くのにふさわしい設定だ。漱石はこのように、身近な友人をモデルに使うのが巧かった。

五葉はまた当時、著名な装丁家でもあり『吾輩は猫である』をはじめ何冊もの漱石の著作を装丁している。


つづく



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