2022年7月30日土曜日

〈藤原定家の時代072〉治承4(1180)5月26日~30日 園城寺・興福寺の罪科を定める会議 宇治御室戸合戦(三井寺炎上) 「五月三十日。...上下奔走周章シ、女房悲泣ノ気色アリ。...俄ニ遷都ノ聞エアリ。両院・主上忽チ臨幸アルべキ由、入道殿(清盛)申サシメ給フト。」(定家「明月記」)    

 


〈藤原定家の時代071〉治承4(1180)5月26日 物語世界の宇治川の合戦(その4) 「宮御最期」(「平家物語」巻4) 頼政の自害 高倉宮の討死 間に合わなかった南都勢 より続く

治承4(1180)

5月26日

・夕方、平清盛、福原から上洛。

景高の取った頸は、頼政と源義賢の子仲家、渡辺党の源勧(ミナモトノススム)らの7人、忠綱が取ったのは、兼綱と渡辺党の源唱(トナウ)、副(ソナウ)など4人、美濃国の住人の左兵衛尉源重清が取ったのは、渡辺党の源加(クワウ)などであったと報告。

5月27日

・高倉院の殿上で園城寺・興福寺の罪科を定める会議。謀叛に与したことの責任を追及することが確認された。弁護する人のいない園城寺には、平重衡を大将軍とする追捕使派道が滞りなく決定した。重衡は園城寺に対して謀反人与党の引き渡しを求める交渉を行った後、拒否の回答が明確になると追捕から合戦に発展させた。11月17日、重衡は園城寺を焼討ち。

興福寺に対しても追捕使派遣が取り沙汰されたが結論を出すには至らず。清盛とその支持者は、追捕使派遣を強く主張。

しかし、摂政近衛基通以下、藤原氏の公卿は氏寺興福寺に対する実力行使を認める追捕使派遣を承認するわけにはいかなかった。基通には平氏の支えによって摂政に就任した恩義があるが、追捕使派遣を認めることは藤原氏から追放されることにもなりかねない重い課題であった。平氏と親しい関係にあっても、譲歩するわけにはいかなかった。とるべき方策は、結論を出させないように会議を引き延ばし、その間に興福寺と交渉して新たな譲歩の条件を引き出すことであった。

興福寺に対しては、謀反に荷担した人々の引き渡しを求める使者を派過して交渉を重ねること以上の合意を引き出すことはできず、交渉は平行線をたどった。この交渉が暗礁に乗り上げたことで、しびれをさらした清盛は重衡を追捕使として派遣し、12月28日、南都焼討ちを強行した。

頼政の滅亡により平氏に次ぐ武家源氏の代表として振舞える人物がいなくなり、平氏は朝廷の軍事行動全般に対して責任を持つことになった。この立場は、武力を用いる仕事が、すべて平氏に被せられる厳しい立場に立たされたことを意味する。

源通親と藤原隆李は、三井寺の衆徒は退散したので張本についてはその師匠を通じて召すこと、興福寺の衆徒については官軍を派遣して攻め、末寺・荘園の没収を主張。

九条兼実は、興福寺へは使者を派遣し事情を確かめた上で、その結果に基づいて派遣すべと主張。結局、兼実の意見が通る。兼実は、通親や隆季らを「権門(清盛)の素意」を察して動く者と強く批判。

□「玉葉」が記す評定の様子。

公卿らは、しばらく伺候しているようにとのことで数刻も待たされる。この間、院の前で、宗盛・大納言隆季・邦綱・別当時忠らが「内議」をしていた。ようやく申刻(午後4時頃)、隆季が出て来て、蔵人行隆が左大臣に対し、今日の議題として、この度源朝臣以光(以仁王)に与同した三井・興福両寺の罪科をどのように定めるか、との院の指示を伝える。参議左中将源通親の意見に従って下﨟より意見を申すことになる。廟堂での評議は、官位の低い者から意見を述べて上位者に至り、最後に天皇の裁断を仰ぐというのが、昔からのならわしである。

通親申していう。

園域寺の事は、師主の縁に付して張本を尋ね出し沙汰すべきである。

興福寺の事は、与同の罪は軽くない、よって官軍を派遣してかの寺を攻撃し、末寺庄園も停廃すべきである。

実宗(サネムネ)申していう。

園城寺の事 - 通親に同じ。

興福寺の事 - 皆兵を派遣すべきだが、一宗魔滅については考える必要がある。先ず張本を召すことにし、それを出さないとき攻撃するのがよい。

これと同意見の者、

頼定・実守・実家・朝方・雅頼・忠親・宗家・実房の8人

隆季申していう。

園城寺の事 - 張本を召して沙汰すべし。

興福寺の事-厳罰に処すべきである。追討するのも一刻も早いほうがよい。かの寺の兵は強いから、日数を経ればそれだけ勢を増すから。「賢に従いて遅きは愚にして速きにしかず」、というではないか。

兼実申していう。

園城寺の事-隆季に同じ。

興福寺の事 ー これまでの罪は追討使派遣もよいだろうが、その前に宣旨か院宣で事情を尋ねるべきだ。官兵を派遣したら寺社悉く灰煙に帰すことは疑いがない。尋ねた結果次第で官軍派遣はきめたらよい。特に源以光がかの寺に移住したかどうかは明らかでない。同意しただけでそれが罪とされ満寺の破亡を顧みることなく攻撃するというのなら致し方はないが、賊徒がいるかどうかで追討するか否かをきめるというのなら、その在否を尋ねた上で沙汰するというのが道理というものではないか。先ず使者を遣わし、その結果で追討の沙汰に及ぶべきである。

左大臣これに同じ。

大勢を占めた慎重論(使者を派遣して事情調査のうえ沙汰する)に賛成の左大臣は、その線で奏上しようとすると、陸季が反対。南都へ宣旨・院宣を下しも道路は塞がれ行けないし、行けてもそれに従わないだろう。一刻も早く追討すべきだ、と重ねて自説を主張。どうやら強硬論は先の「内議」の方針であったようだ。これに対し、忠親は、情勢は昨日と今日とでは変っているだろうと疑問を出し、兼実もまた色をなして反論。

結局左大臣は、慎重論を蔵人行隆に奏上させる。兼実は「奏聞の後、入道相国に示すか」と推測。しばらくして行隆が戻り、左大臣に対し、今南都から使者があって以仁王は誅殺されたとのことである、なお不審な事を尋ねたいので、そのまましばらく待つように、云う。兼実は、南都への道が通じないというが、使者はやって来ている、逃隠の実否を確かめず軍兵を発するのは、大乱を求めているようなものだ、と自説の正しさに自信を得る。数刻後戻った行隆は、興福寺のことについては詮議の決定に任せる由を左大臣に告げる。兼実の線で落着。

「今日の隆季・通親の申状は恥を知らざるものというべし。弾指すべし弾指すべし。ただ権門(平家)の素意を察し、朝家の巨害を知らず」(「玉葉」)。

5月27日

・宇治御室戸合戦。平重衝・忠度、園城寺(三井寺)を焼く。

「官兵等宇治の御室戸を焼き払う。これ三井寺の衆徒城郭を構うに依ってなり。同日、国々の源氏並びに興福・園城両寺の衆徒中、件の令旨に応ずるの輩、悉く以て攻撃せらるべきの旨、仙洞に於いてその沙汰有りと。」(「吾妻鏡」同日条)。

□「現代語訳吾妻鏡」。

「二十七日、戊寅。官軍の兵たちが宇治の御室戸(ミムロト、園城寺末の寺)を焼き払った。三井寺の衆徒が城郭を構えていたためである。同日、諸国の源氏ならびに興福寺・三井寺の衆徒の中で、以仁王の令旨に応じた者すべてに攻撃を加えることが、院(高倉)の御所において決定された。」。

□「三井寺炎上」(「平家物語」巻4):

27日、清盛は4男重衡に三井寺を襲わせる。戦いは夜に及んで火が放たれ、由緒ある伽藍も焼き尽くされた。責任ある立場の僧は役職を解かれ、僧兵は流罪となる。今度の事件はただ事ではなく、平家の世が末になる前兆かと人は噂する。

5月28日

・清盛、高倉上皇を邸に招き頼政の首を見せる。清盛、大番役で京にいる東国武士の一部の帰郷を引き止め、相模の大庭御厨の大庭景親などには伊豆の源頼朝の動きを警戒するよう指令

5月30日

・乱の恩賞。

宗盛の子清宗が従三位に叙任。藤原景高・藤原忠綱が大夫尉(タイフノジョウ)になり、他にも景高・忠綱の一族が刑部丞、衛門尉、兵衛尉に任官。

5月30日

・藤原定家、高倉院に出仕したところ、「上下奔走、周章、女房或いは悲泣の気色有り」という有様。6月1日には「遷幸必然」となり、遷都後は、「夜に入りて、明月蒼然、故郷寂として草馬の声を聞かず」。(「明月記」)

「五月三十日。天晴ル。早旦、布衣ヲ着シテ院ニ参ズ。帥参侯ス。上下奔走周章シ、女房悲泣ノ気色アリ。密カニ右馬允盛弘ヲ招キ、子細ヲ問フ。答へテ云フ、俄ニ遷都ノ聞エアリ。両院・主上忽チ臨幸アルべキ由、入道殿(清盛)申サシメ給フト。前途又安否ヲ知ラズ。悲泣ノ外、他事無シト云々。退出シテ法性寺ニ帰ル。」(「明月記」)。


つづく




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