2022年7月16日土曜日

〈藤原定家の時代057〉治承4(1180)5月10日 熊野の別当堪増、行家の動静から謀反を察知し清盛に通報(「平家物語」) 清盛上洛「五月十日・・・今暁入道相国入洛、武士洛中に満つ。世間又物恖(騒)と云々」(「玉葉」) 下河辺行平が頼政挙兵を頼朝に告げる「下河邊庄司行平使者を武衛に進し、入道三品用意の事を告げ申すと。」(「吾妻鏡」)       

 


〈藤原定家の時代056〉治承4(1180)5月1日~8日 定家(19)前斎宮亮子内親王を見舞う 平知盛重病「万死に一生、頗る物狂か」と より続く

治承4(1180)

5月10日

・熊野の別当堪増、行家の動静から謀反を察知し源氏を攻撃するとともに、清盛に通報。

[謀反発覚] [源平両派に分れた熊野別当家の対立抗争]

第18代別当湛快は、久安4年(1148)、兄長兼の跡を継いで熊野別当職につくが、新宮に住まず本宮を拠点としたことから、本宮・新宮両派の分裂が生じ反目しあうようになる。平治の乱で湛快は平家方に味方するが、その跡を継いだ甥の行範は源為義の娘を娶り、また為義が新宮別当家の女に生ませたのが新宮十郎行家であることなどから、新宮派は源氏色を強める。

一方、本宮系は、湛快が別当に任ぜられるときに平家の支援を受けたこと、その妹が薩摩守忠度の妻となったことなどから平家色が強い。この頃の別当は、平家寄りの本宮派の湛快の子湛増であり、新宮十郎行家の行動を知り、これを平家に内報するに至る。但し、日付は、清盛が対策の為に上洛する5月10日の前と推測される。

「平家物語」では、新宮十郎が高倉の宮の令旨を得て謀反を企てているると判断した湛増が、「平家の御恩を天山(アマヤマ)に蒙りたれば、いかでか背き奉るべき。矢一つ射懸けて、其の後都へ子細を申さん」と言い、兵1千余で新宮に押し寄せたとある。

新宮側は、兵1,500余でこれを迎撃。「鳥井法眼」は、第19代別当行範の子の行全で、為義が熊野別当家の娘立田御前(タツタゴゼン)に生ませた鶴田原(タヅタハラ、立田腹タヅタバラ)の女房と呼ばれる女性が、先夫湛快没後、行範に再嫁して産んだ人物で、母の弟と思われる新宮十郎に味方していると思われる。「高坊(タカバウノ)法眼」は、別に「たかはらの法眼」とも表記され、鶴田原(タヅタハラノ)法眼が訛ったものと思われ、行全の兄の行快のこと(母の呼び名をついで鶴田原と名乗る)で、のちの第22代別当。「宇井」以下の人々は、熊野新宮系の神職。「那智執行法眼」は、行範の子範誉(ハンヨ)で、行快・行全の兄で、同じく為義の娘鶴田原の女房を母とする。

両軍は、鬨の声をあげ、矢合わせをし激しく挑み合う。「矢叫び」は、目標に矢が当たった時に射手があげる喚声。「鏑」は「鏑矢」のことで、木や竹の根、鹿の角などでかぶらの形を作り、中を空洞にして数個の穴をあけ、射ると音が出るようにした矢尻をつけた矢をいう。3日間にわたる戦いの結果、新宮側が勝利し、湛増は配下の家の子・郎党を失い、自分も負傷し本宮に逃げ帰る。

「其の比(コロ)の熊野の別当湛増は、平家に心ざしふかかりけるが、何としてか洩れ聞いたりけん。「新宮十郎義盛こそ、高倉宮の令旨給は(ッ)て、美濃、尾張の源氏ども、触れもよほし、既に謀反をおこすなれ、那智新宮の者共は、さだめて源氏の万人をぞせんずらん。湛増は、平家の御恩を天山(アメヤマ)とかうむ(ッ)たれば、いかでか背き奉るべき。那智新宮の者共に、矢一つ射かけて、平家へ子細を申さん」・・・」(杉本本)。

「同日(5月15日か)ニ高倉宮ノ御謀叛ノ事顕ハレ御(オハ)ス。去(イン)ジ四月廿八日ニ、十郎蔵人行家、高倉宮ノ令旨ヲ潜(ヒソカ)ニ給テ、伊豆国へ下テ兵衛佐ニ奉り、・・・行家ハ平治(の乱)ヨリ以来、能野ニ居住シケレバ、新宮(行家)ニ与力スル者多カリケレバ、何卜無ク其用意ヲゾシケル。此事世ニ披露アリケレバ・・・覚悟法橋(等々・・・)申ケルハ「新宮十郎義盛コソ、高倉宮ニ語ラハレ奉リテ、平家ヲ討ムトテ、源氏共ヲ催(モヨホ)サムガ為ニ、東国(頼朝)へ下向シケル由聞ユレ。サ様ノ悪党ヲ熊野ニ籠タリケリト、平家ニ聞工奉ラム事、甚ダ恐アリ。当時義盛(行家)コソ無ケレドモ、新宮ヲ一失射バヤ」トテ、・・・五月十日、新宮ノ湊ニ押寄テ・・・」(延慶本)。

○熊野別当湛増(1130~1198):

熊野の田辺(和歌山県田辺市)在、熊野3山の統括者、源為義の娘で行家の姉鶴田原(たつたはら)の女房の娘を妻とし、従って湛増にとり、行家は叔父で頼朝・義経や義仲とは従兄弟にあたるが、親平家の立場をとる。湛増の父の第18代熊野別当・湛快が拠点を新宮から田辺に移して以来、熊野別当家は新宮家と田辺家に別れ、新宮家(本家)は源氏寄り、田辺家(分家)湛増は新宮家に対抗する為か、妹を平忠度(清盛の弟)の妻とするなどして平家に近付く。湛増の支配は自拠点田辺と熊野3山中の田辺に近い本宮で、新宮・那智は源氏に近い。

湛増は、田辺勢を率い本宮勢と共に新宮・那智に攻め込む。新宮には鳥井の法眼(第19代熊野別当行範の子、行全)、高坊の法眼(行範の子、行快(行全の兄))、侍には宇井・鈴木・水屋・亀の甲、那智には執行法眼(行範の子、範誉。行快・行全の兄)以下、1500余が迎撃。3日ほど戦い、湛増は、家の子・郎等の多くを討たれ、自らも負傷し本宮へ撤退。

湛増は、治承4年の段階では平家方につき、熊野における行家の動向を清盛に報告。

元暦元年(1184)新宮別当。元暦2年2月屋島の戦いでは、源氏に合力して参戦(「吾妻鏡」元暦2年2月21日条)。「平家物語」では、田辺の新熊野の神前で紅白の鶏を競わせる鶏合によって源氏への味方を決めたという。更に3月、義経軍に属し、「追討使を承り、去ぬる比(コロ)、讃岐国に渡り、今また九国に入」るとされる(「吾妻鏡」元暦2年3月9日条)。壇ノ浦合戦でも活躍。文治2年(1186)上総国畔蒜(アビル)庄を知行(「吾妻鏡」文治2年6月11日条)。翌年、熊野湛増の使者永禅、関東に参着、巻数(カンジュ)に相副え綾30端を献ずるが頼朝はこれを返却(「吾妻鏡」文治3年9月20日条)。建久6年(1195)、頼朝と対面、御甲(ヨロイ)を頼家に献ずる(「吾妻鏡」建久六年5月10日条)。熊野別当家の請所である紀伊国南部庄の下司職を湛増・湛政兄弟が争い、500石増額することで湛増が勝利。建久9年(1198)5月8日没(69)。

・平清盛、突然、上洛。武士が洛中に充満。翌日、福原に戻る。以仁王の叛乱が発覚し、その対応を措置か。この後、京都の街で以仁王の陰謀がささやかれ始める。

「玉葉」は、「五月十日・・・今暁入道相国(清盛)入洛、武士洛中に満つ。世間又物恖(騒)と云々」と記し、「十二日、・・・昨日禅門(福原へ)下向し了んぬ云々」とある。清盛は、以仁王謀反露顕にあたり、以仁王逮捕という処置を済ませ福原へ帰ったと推測できる。

・「下河邊庄司行平使者を武衛に進し、入道三品用意の事を告げ申すと。」(「吾妻鏡」)。

□「現代語訳吾妻鏡」。「五月大 十日、辛酉。下河辺庄司行平が武衛(源頼朝)に使者を送り、入道三品(源頼政)が挙兵の準備をしていることを報告したという。」

○下河辺行平。

下河辺行義の男。秀郷流藤原氏で、八条院領下総国下河辺荘の荘司。父は源頼政の郎党として活躍。行平も頼政の配下にあり、頼政挙兵を頼朝に告げる。頼政敗死後、頼朝に従い、信任を受け、平氏追討や奥州攻めで武勲をあげる。平氏追討では、範頼に従い鎮西を攻める。兵糧不足に苦しむも、自らの甲胃を手放し、小船を入手して戦おうとする。弓の名手で、頼朝命により頼家の弓の師範ともなる。また、武家の故実にも通じる。建久6年(1195)11月には、頼朝より源氏門族に准じる待遇を与えられる。


つづく

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