2022年7月17日日曜日

〈藤原定家の時代058〉治承4(1180)5月11日~15日 以仁王の令旨発覚 検非違使派遣 長谷部信連の機転 以仁王は園城寺に逃亡 

 


〈藤原定家の時代057〉治承4(1180)5月10日 熊野の別当堪増、行家の動静から謀反を察知し清盛に通報(「平家物語」) 清盛上洛「五月十日・・・今暁入道相国入洛、武士洛中に満つ。世間又物恖(騒)と云々」(「玉葉」) 下河辺行平が頼政挙兵を頼朝に告げる「下河邊庄司行平使者を武衛に進し、入道三品用意の事を告げ申すと。」(「吾妻鏡」) より続く

治承4(1180)

5月11日

・藤原隆房、定家(19)を通じて俊成に贈答歌を見せる

5月14日

・後白河院(54)、鳥羽殿より内蔵頭藤原季能の八条坊門烏丸第へ武士300騎の護衛で移る(『玉葉』『山槐記』『百錬抄』)。周囲を軍兵で囲んで警固し、周囲との連絡を断つ。

「一昨日、法皇鳥羽より八粂坊門烏丸に渡御す(八粂院の旧御所と云々)」(「明月記」16日条)とあるが、「平家物語」「鼬(いたち)之沙汰」に、「入道相国やうやうおもひなおつて、同十三日鳥羽殿をいだしたてまつり、八条烏丸の美福門院御所へ御幸なしたてまつる、」とあり、日付・場所に誤りあるものの、よく似た記事といえる。

□「鼬之沙汰」(「平家物語」巻4):

5月12日正午、鳥羽殿で、鼬(イタチ)が御所中を走り回ることがあった。不審に思った法皇が、陰陽頭安倍泰親のもとに密使を遣わし占わせたところ、3日のうちの吉事と凶事という結果が出た(「今三日が中の御悦び並びに御欺き」)。翌日、宗盛の父へのとりなしによって院は幽閉を解かれ、吉事の意味を知る。一方、湛増の飛脚が以仁王の謀反を告げ、清盛は福原から急速上洛。清盛は宮を流罪にせよと命じ、追討使を宮の御所に派遣する。

5月15日

・以仁王の令旨発覚。

朝廷、以仁王に源姓を授けて「源以光」と改名させ、土佐国に配流を決定。

深夜、以仁王逮捕の為に検非違使左衛門大夫源兼綱(源頼政の甥で養子)・同右衛門尉源光長を三条高倉殿(平安博物館敷地)へ派遣。二人とも、旧二条天皇親政派で八条院のもとにいる源氏。

令旨が露見するが、源頼政の関与は未だ発覚しておらず、兼綱は父に事の次第を連絡、頼政は以仁王に急報。たまたま来合わせた院の武士長谷部信連の機転で、以仁王は女装して園城寺に逃亡。

信連は以仁王を逃がすと、1人で御所に残り、検非違使と戦い捕縛。「山槐記」によれば矢により2~3人、「吾妻鏡」では刀をふるい5~6人を傷つける。(「山槐記」「玉葉」「百錬抄」同日条)。また謡曲「長兵衛」、「平家物語」巻4「信連合戦」、「源平盛衰記」巻13で名高い。

以仁王は、信連の機転で、女装して三条高倉御所を脱出し、御所横の高倉小路を北に進み、近衛大路で東に進み、鴨川を渡って鹿の谷口から如意山に入り、如意越えから三井寺へ向かう。三井寺の大衆は宮を温かく迎え、総門の南の両院谷にある僧坊の法輪院を御所として提供。

園城寺の大衆は、逃げ込んできた以仁王を保護する方針を決め、南都北嶺の権門寺院に対して牒状を送り、援助を求めた。園城寺の牒状を見て、興福寺は早い段階から助力を申し出た。なお、興福寺返牒を書いた信救得業(しんきゆうとくごう)は、後にその責任を問われて出奔し、大夫房覚明と名を改め、木曽義仲の謀臣として源平合戦に再登場する。

この事件の初動段階では、園城寺は南都北嶺の権門寺院に対して、嗷訴の手順を踏んで交渉を行った。園城寺の大衆も協力を申し出た興福寺も、以仁王を保護すると決めた人々は、嗷訴とよばれる儀礼としての武力行使で京都に入り、朝廷を訴訟の場に引っ張り出すことで、以仁王の陰謀に関する処罰を撒回させることを狙っていた。

仮に、戦争を考えているのであれば、園域寺は、寺院の大衆や荘園の兵士(武装できる人々)といった寺社が組織する武力と、近江・美濃の源氏を中心とした近国の武者を速やかに結集させようとするだろう。

しかし、園城寺に落ち着いた以仁王は、ここで諸国の源氏や豪族たちに「宮令旨」とよばれる令旨を発給する行動をとった。これは、威嚇のために味方を積極的に増やそうとしたのだろう。東国の源氏が軍勢を率いて上洛してくると情報が流れるだけでも、十分な脅しにはなると踏んだのだろう。

□「吾妻鏡」。

「高倉宮に配流せらるべきの旨宣下せらる。上卿は三條大納言(實房)、職事は蔵人右少弁行隆と。これ平家追討の令旨を下さるる事、露見せしむに依ってなり。仍って今日戌の刻、検非違使兼綱・光長等、随兵を相率い、彼の三條高倉の御所に参る。これより先入道三品の告げを得て、逃げ出で御う。廷尉等御所中を追捕すと雖も、遂に見せしめ給わず。この間長兵衛の尉信連、太刀を取り相戦う。光長が郎等五六輩これが為に疵を被る。その後光長、信連及び家司一両人・女房三人を搦め取り、帰り去ると。」(「吾妻鏡」)。

□「現代語訳吾妻鏡」。

「十五日、丙寅。曇。以仁王を土佐国へ配流する旨の宣旨が出された。上卿は三条大納言実房、職事は右少弁(藤原)行隆という。これは平家追討の令旨を下したことが露顕したためである。そこで、この日の戌の刻、検非違使(源)兼綱と(源)光長が随兵を率いて三条高倉の御所に参った。(以仁王は)これ以前に入道三品(源頼政)から連絡を受けて、すでに逃げ出されていた。検非違使たちは御所の中を捜したものの、結局見つけることはできなかった。その間、長(長谷部)兵衛尉信連は太刀を手にして検非違使を相手に戦い、光長の郎等五、六人が傷を負った。その後光長は、信連および(以仁王の)家司一人二人、女房三人を捕えて帰ったという。」

○長谷部信連(?~1218建保6)。

長谷部為連の男。左兵衛尉で「長兵衛尉」とも呼ばれる。三条高倉西の以仁王邸より防ぎ矢を射て奮戦(「山槐記」)。六波羅に拉致。黙秘を続け、斬罪を命じられるが平家西遷後に釈放。文治元年後半、頼朝は土肥実平に信連を捜し出させ、一旦安芸の検非違使に補任。梶原景時を通じて頼朝に忠勤を励みたいと申し出る。文治2年に関東へ下り、頼朝の御家人に列することを許され、4月能登鳳至郡大屋荘の地頭に補任。建久年間、加賀の検非違使時代に山中温泉を発見。子孫は長氏を名乗り、戦国時代に名を馳せる。

○上卿。

宣旨は担当の公卿(上郷)と蔵人(職事)を通して出される。

○実房(1147久安3~1225嘉禄元)。

藤原北家公季流。藤原公教の3男。母は中納言藤原清隆の娘。仁安3年、権大納言。

○行隆(1130大治5~87文治3)。

右少弁とあるが、正しくは左少弁。藤原顕時の1男。母は右少弁藤原有業の娘。長寛3年、蔵人・治部大輔より権左少弁に任じ、さらに左少弁に転じる。永万2年4月6日解官。治承3年11月17日、正五位下・左少弁に還任し、翌日蔵人に補せられる。

○兼綱(1153仁平3~80治承4)。

源頼政の弟頼行の子で、頼政の養子となる。従五位下・左衛門尉、検非違使を兼ねる。以仁王の謀叛が露見したのを受けて、討手を命ぜられるが、御所を囲んだものの積極的には動かず、のち頼政とともに以仁王のもとに参じ、宇治平等院の合戦において戦死。

○光長(?~1183寿永2)。

源光信の男。検非違使・左衛門尉。

「昏に臨むの間、京中鼓騒す。山の大衆下洛するの由風聞す。但しその実無し。今夜三條高倉宮(院第二子)配流と云々。件の宮八條女院の御猶子なり。此の外、縦横の説多しと雖も、信を取り難し。」(「玉葉」)。

「高倉の宮とて、院の宮に高倉の三位(成子)とておぼえせし女房うみまいらせたる御子をはしき。この宮をさうなく流しまいらせんとて、頼政三位が子に兼綱と云う検非違使を追つかいまいらせて、三條高倉の御所へ参られけるを、とく逃がさせ給いて、三井寺に入せたりける。寺法師どももてなして道々切りふさぎたりける。頼政はもとより出家したりけるが、近衛河原の家をやきて仲綱伊豆の守・兼綱など具して参りにける。」(「愚管抄」)。

「亥の刻、京より下人走り来たりて云ふ、高倉宮<一院の御子、故高倉三位の腹、新院の御兄なり>配流の事有り。只今検非違使兼綱<大夫尉>・光長、三条北高倉西の事へ向ふ。武士等之を囲む者(テヘリ)。後に聞く、今日免物(メンモツ)有るべきの由仰せ下さる。仍って官人等冠を着て陣に参る。<大内>三条大納言<実房>、召しに依って参内す。実は免物無し。宮の御事を仰せ下さる。依って宮人忽に烏帽子を召し寄せ、陣辺に於て之を着し、晩頭彼の宮に参り向ふの処、皆門を閉ぢ、答ふる人無し。仍って光長高倉面の小門を踏み聞かしむる間、左兵衛尉信連之を射る。疵を被る者両三人有り。宮は御座されず。早く以て遁れ出で令(シ)め給ひ畢(オハ)んぬと云々。

今夜猶武士之を囲む。女房等裸形(ラギヤウ)東西に馳せ走る。悲しむべし、悲しむべし。抑(ソモソモ)彼の宮の御名は以仁王なり。而(シカ)して仁の字憚(ハバカリ)有るの由沙汰有り。仁の字を改め、光の字と為すと仰せ下さると云々。宮は、張藍摺(ハリアイズリ)の輿に乗り、幣(ヌサ)を持たしめ、物詣での人の如くして寺に向はしめ給ふと云々。或いは云ふ、浄衣を着し騎馬に御し給ふと云々。又乗馬の者二人有り。御供人、凡そ四五人と云々。末だ一定(イチヂ゙ヤウ)を知らざるか、平等院に渡り御(オボ)す也。」(春宮大夫中山忠親の日記「山槐記」)


つづく




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