2022年7月22日金曜日

〈藤原定家の時代063〉治承4(1180)5月21日~22日 園城寺攻撃の命が下る 追討軍に加わるよう命じられた源頼政が挙兵 

 


〈藤原定家の時代062〉治承4(1180)5月17日~20日 園城寺から延暦寺・興福寺へ働きかけ(「山門牒状」「南都牒状」(「平家物語」巻4)) 園城寺長吏房覚らの以仁王引渡し工作、失敗 より続く

治承4(1180)

5月21日

・園城寺攻撃の命が下る。以仁王追討軍(平家・源頼政軍)園城寺攻略へ派遣決定。明後23日出兵の準備のために指揮官を決定。総大将宗盛を総大将、頼盛・教盛・経盛・知盛ら清盛の弟たち、維盛・資盛・清経・重衡ら平氏一門、それに頼政が加えられる。頼政の隠密はまだ保たれている。京都は戒厳状況下に置かれ、王に関連する人々の逮捕が続く。

・朝廷は、園城寺が南都北嶺の権門寺院との交渉を進めていることを見過ごせず、この日、追捕使派遣を決定。宗盛に対して一門の人々を伴って参陣することを命じ、源氏は出家を遂げていた源頼政に出陣を要請。

この段階では、以仁王を保護した園城寺の大衆と京都を警固する武者が対時する嗷訴の形式で展開しており、平氏政権も園城寺も合戦に発展させる意図を持っていなかった。

しかし、平氏政権が交渉を持ちかけた延暦寺は、園城寺焼討ちという一点に絞って満山の合意を取り付けた。天台座主明雲は、高倉院政を支持する村上源氏の一族である。明雲は、延暦寺と袂を分かって天台宗に新たな門流を興した園城寺は宿敵であり、以仁王を保護した罪科を問える今こそ、逆賊として討つ好機であると説いた。比叡山延暦寺は、三塔十六渓とよばれる広大な寺域に堂舎が並び立ち、ひとたび声をかければ公称三万人の大衆を集めることのできる大寺院である。それだけに、さまざまな立場の人々がいて、ひとつにまとまることは難しかった。しかし、園城寺を攻めるとなれば話は別である。平氏政権は延暦寺を懐柔するために兵粮米の提供などを約束したが、話を持ちかけられた延暦寺がいきなり園城寺焼討ちを決定することは予想の範囲を超えていた。

・夜、源頼政、挙兵。

邸宅に火を放ち、嫡子仲綱以下一族(源兼綱ら)の軍勢を率い、以仁王を奉じて挙兵、園城寺へ向う。

22日、源頼政、園城寺到着。頼政軍50余騎(源有治ら)と園城寺大衆1千。平家軍は平知盛(総大将)・平忠度(副将軍)が率いる。園城寺焼失。

頼政の加担が露見し、頼政が挙兵するのは、「平家物語」では16日、「吾妻鏡」は19日、「玉葉」「明月記」「山槐記」では、21日。

・未明、追捕使に任命されていたにもかかわらず、源頼政は近衛河原にあった館を焼き、以仁王に合流すべく園城寺に入った。

以仁王が園城寺に逃走するきっかけは、頼政による情報リークであり、以仁王追捕に失敗したのは、頼政の養子兼綱である。これらを一連の動きと説明されてしまえば、源頼政は以仁王と共謀していると嫌疑をかけられた場合に弁明し切ることは難しい。

頼政は最後の最後まで迷ったと思われる。武勇に秀でた養子の兼綱、腹心の郎党渡辺競にさえ連絡が行かなかったという。

以仁王脱出以降の平氏の対応。

16日、平氏は以仁王が三井寺に逃れたことを知り、翌17日、50騎を従える使者を三井寺に派遣し宮の差出を要求するが、寺はこれを拒否。

18日、三井寺は延暦寺と興福寺に牒状を送って協力を求めるなど敵対的な姿勢を明確にしたので、21日、軍兵をもってこれを攻撃する決意を固める。

「高倉宮去る十五日密々に三井寺に入御す。衆徒法輪院に於いて御所を構うの由、京都に風聞す。仍って源三位入道、近衛河原の亭に自ら放火し、子姪・家人等を相率い、宮の御方に参向すと。」(「吾妻鏡」19日条)。

□「現代語訳吾妻鏡」

「十九日、庚午。雨。高倉宮(以仁王)は去る十五日、密かに三井寺に入られ、三井寺の衆徒が法輪院を以仁王の御所にしたという噂が京都に広まっていた。そこで源三位入道(頼政)は、近衛河原の自宅に火を放ち、一族や家人を率いて以仁王のもとに向かったという。」

○三井寺。

園城寺。現、滋賀県大津市。以仁王を奉ずる源頼政の軍勢を迎え入れる。山門に援軍を求めたが受け入れられず、平家の攻撃を受けて堂舎・在家が焼失。

○法輪院。

園城寺の子院。近世の寺領目録には南院に法輪院がみえる。現在、廃絶。

○近衛河原。「山槐記」5月22日条に「頼政家(近衛の南、河原の東)」とある。

三井寺を攻める大将の一員とされた源頼政が近衛河原の家を自ら焼いて、息子の仲綱らを率いて三井寺に向かい、宮に参じ、叛乱の大要が判明。京には、山門の大衆が与力したとか、興福寺の大衆が蜂起したなどの情報が伝わり、武士も慌てて家中の雑物を運び、女性を他所に移す支度を行う。

「(二十一日)今日園城寺ヲ攻ムベキ由、武士等ニ仰セラル。明後日発向スベシト云々。前大将宗盛卿己下十人。所謂大将、頼盛、敦盛、経盛、知盛等ノ卿、維盛、資盛、清経等ノ朝臣、重衡朝臣、頼政入道等卜云々。人語リテ云ハク、大衆一同出シ奉ルベカラザル由、議定申シ了ンヌ。宮曰ハク、衆徒縦ヒワレヲコノ地ニ放チ、命ヲ終フベント雖モ、更ニ人手ニ入ルベカラズト云々。意気衰損無シ。太ダ以テ剛ナリト云々。見ル者感歎セザルナシト云々。コノ間カノ宮ニ親昵スル輩、及ビ一度参入ノ人知音等卜雖モ、併シナガラ尋ネ捜サレ、人多ク損亡スベント云々。但シ余ニ於テハ、消塵モコノ恐レ無キ者ナリ。仏天知見アルべキカ。園城寺ノ仏法滅尽ノ時至ルカ。悲シムベン。悲シムベン。但シ又所詮人ノ運報ニ依ルベキカ。非道ノ横災ヲ免ルルニ若カズ。恥辱顕サズ病死セバ、末代ノ人コレヲ以テ望ミトナスべキカ。」(「玉葉」)。

「(二十二日)去夜半頼政入道子息等ヲ引率シ(正綱、宗頼相伴ハズ)、三井寺ニ参籠ス。己ニ天下ノ大事カ。余コノ事ヲ尋ネ聞キ、病ヲ相扶ケ院ニ参ル。今夕当時ノ院ノ御所ニ行幸シ、院八条ノ御所ニ渡御スト云々。--夜ニ入り南都ヨリ人来タリテ云ハク、奈良大衆蜂起シ、己ニ上洛セントスト云々。者(テ)へレバ左右スル能ハズ。叉前将軍以下、京中ノ武士等、偏ニ以テ恐怖シ、家中ノ雑物ヲ運ビ、女人等ヲ逃ゲシム。大略逃ゲ降ルベキ支度カ。太ダ不吉ノ想ヒナリ。疑フラクハカノ一門、ソノ運滅尽ノ期カ。但シ王化空シカラズ、深ク憑ムベキカ」(「玉葉」)。

「廿二日、今朝云々ノ説、頼政<入道、年七十七>子姪ヲ引率シテ三井寺ニ人ル云々・・・頼政卿ノ家ニ火ヲ放ツ云々」(「明月記」)


つづく


0 件のコメント: