2022年9月9日金曜日

〈藤原定家の時代113〉治承5/養和元(1181)年1月8日~14日 畿内近国惣官職を置き、宗盛を惣官に任命 梶原景時、頼朝のもとに参上 高倉上皇(21)没  定家(20)、高倉院崩御を歎く。俊成の庭訓より参院せず、葬送にも参加せず、ひそかに群衆に交って見送る 〈落涙千万行〉とある。        

 


〈藤原定家の時代112〉治承5/養和元(1181)年1月1日~7日 熊野衆徒の伊勢・志摩襲撃 定家(20)、式子内親王に初参 東大寺・興福寺の荘園を没収、僧綱以下免職 源通親、従三位 より続く

治承5/養和元(1181)年

1月8日

・平氏、畿内近国の軍事支配のため惣官職(行政権・徴税権・徴兵権を掌中)を置く。

平宗盛を五畿内と伊賀・伊勢・近江・丹波諸国の惣官に任命、畿内近国一帯に平氏役・兵糧米を課す。また、有力家人を夫々の国の諸荘園総下司とし態勢立直しを図る。山城・大和では、検非違使源季貞(平宗盛近習)が徴収。

「伝聞、熊野の辺、武勇の者等、五十艘ばかり、伊勢の国に打ち入り、官兵を射取る。三百余人猶国内に居住す。この事、去る四日の事と。仍って明日、宣旨を伊勢の国に給い、国内の勢を起こし、彼の悪徒を追い払うべきの由と。また筑紫謀叛の者、いよいよ悪逆を事とす。仍って九国與力し、伐ち奉るべきの由、同じく宣旨を下さる。また延暦の衆徒蜂起す。」(「玉葉」7日条)。

この時の宣旨

治承五年正月八日 宣旨

惣官正二位平朝臣宗盛

仰す。天平三年の例にまかせて、件(くだん)の人を以て彼の職に補(ぶ)す。宜しく五畿内並に伊賀・伊勢・近江・丹波等の国を巡察し、徒を結んで衆を集め、党を樹(た)てて勢を仮り、老少を劫奪(ごうだつ)して貧賎を圧略せるの輩を捜(あなぐ)り捕へ、永く盗賊・妖言(ようげん)を禁断すべし。

                           蔵人左少弁藤原行隆奉る


「天平三年の例」とは、天平初年以来の長屋王の変、干害・飢饉、社会不安などに対応して、731年(天平3)11月に京畿内を対象として兵馬の権が与えられた総官の官職であり、任じられたのは一品新田部(いつぽんにいたべ)親王であった。

1月8日

・地震あり。(玉葉36)

1月9日

・追討使、美濃国に入る(『山槐記』)

1月11日

・「梶原平三景時、仰せに依って初めて御前に参る。去年窮冬の比、實平相具し参る所なり。文筆に携わらずと雖も、言語を巧みにするの士なり。専ら賢慮に相叶うと。」(「吾妻鏡」同日条)。

□「現代語訳吾妻鏡」。

「十一日、戊午。梶原平三景時が頼朝の御命令によって初めて御前に参上した。去年の十二月頃、(上肥)実平が連れて来ていたものである。景時は文筆に携わる者ではなかったが、弁舌に巧みであった。非常に(頼朝の)お気に召したという。」。

○梶原景時(?~1200):

景清の子。通称平三。石橋山の戦いで平家方に属すが、山中に潜む頼朝の所在を知りながらその命を救う。「吾妻鏡」は「時に梶原平三景時といふ者あり。たしかに御在所を知るといえども、有情の慮(オモンバカリ)を存じ、この山には人跡なしと称して、景親が手を曳きて傍の峯に登る」(治承4年8月24日条)と淡々と記す。以後、頼朝の信任を得て侍所所司となり、源平合戦に際しては戦奉行として平家追討軍の監視役となり、義経とは軍略上の意見対立も生まれ、義経の非を頼朝に報告。また頼朝の意を受けて上総介広常を粛清するなど、頼朝の片腕として御家人社会の冷徹な引き締め役を担う。しかし景時に対する御家人たちの反発を強まり、頼朝没後、正治元年(1199)景時が結城朝光を2代将軍頼家に讒言したことに反発し、三浦・和田ら御家人66人が連判して景時を弾劾(「吾妻鏡」正治元年10月27、28日条)。景時は鎌倉を追放され相模国一宮に退き、鎌倉の邸宅は破却(「吾妻鏡」正治元年12月18日条)。翌年上洛を企てるが、幕府の追討を受け、駿河清見関で在地武士に一族討ち取られる(「吾妻鏡」正治2年1月20日条)。

1月11日

・この日付け『玉葉』は、荷駄隊と追討使が近江国で衝突し、追討使が庄民を殺したことを伝える。追討使は、軍勢と、年貢を輸送する荷駄隊の区別がつかなかった。荷駄隊は、武装して美濃国平野庄が延暦寺に納める御油を輸送していた。灯油は仏事・法会の必需品であり、軍事物資ではなかった。この事件は、追討使のやりすぎとして批判された。

1月12日

・高倉上皇、危篤に陥る。

1月13日

・中宮平徳子(27)を後白河院(55)の後宮に入れるとの風聞。

『玉葉』(1月13日条)の記事

脚気を押して参入した兼実に、新院(高倉)は、自分の命はもう旦暮(たんぼ)に迫っている、もう一度会っておきたかったという。

この日、兼実が兼光から聞いた話。

兼光密々云わく、若し大事出来(しゆつたい)せば、中宮(徳子)を法皇に納るべきの由、或る人和讒(わざん)す。禅門(清盛)及び二品(時子)、承諾の色あり。而るに中宮此の旨を聞き、枉(ま)げて出家の事を仰せられ、すでに切なり。仍って忽ちその儀を変じ、巫女腹の女子(世に御子姫君と号す)を以て、之に替うべしと云々。法皇平に以て辞退するの故、日来(ひごろ)一定せず。猶事成就、明日(十四日)必定その儀を遂げらるべしと云々。夢か夢にあらざるか。凡そ言語の及ぶ所にあらざる者也

徳子が拒絶し、出家を希望したので、代りに、かつて清盛が厳島内侍に生せた(内侍は盛俊に与えた)安芸御子姫君(18歳)を納れたという。法皇が難渋を示したのでなかなか実現しなかったが、新院の崩御以後納れられた)

1月14日

・高倉上皇(21)、六波羅池殿で没(誕生:永暦2(1161)/09/03)。80代天皇。

新院崩御(「平家物語」巻6):

一昨年の後白河院の鳥羽への押し込め、昨年の高倉宮の討伐、都遷りの心労などから病気にかかり、東大寺・興福寺が焼けるに至り、高倉上皇(21)六波羅にて崩御。

紅葉(「平家物語」巻6):

高倉上皇は、優雅で人望があった。10歳の頃、気に入りの紅葉を掃除の者が燃やしてしまったことがあったが、叱らなかったし、主人に装束を届ける途中に、それを盗られてしまった少女に代りの衣を与えたりした。

葵前(あおいのまえ、「平家物語」巻6):

院は女房付きの少女葵前を側に召したが、噂が立ち、その後召さなくなった。院は、「しのぶれどいろに出にけりわがこひは ものや思ふと人のとふまで」と手習いの歌を作り、冷泉少将隆房が葵前に与えると、病に臥し5~6日で没した。

小督(「平家物語」巻6):

中宮建礼門院は恋慕の思いに沈む院に、小督という女房を差し上げたが、小督は冷泉大納言隆房と恋仲。これを知った清盛は憤慨し、小督を追放しようとし、小督は行方不明になる。しかし、清盛は小督を捕らえ尼にして追放。

・藤原定家(20)、高倉院崩御を歎く。俊成の庭訓より参院せず。健御前が池殿に参向、高倉院の臨死の模様を語る。葬送にも参加が出来ず、ひそかに群衆に交って見送る。〈落涙千万行〉とある。

正月十四日。天晴。巷説ニ云フ、新院已ニ崩御ト。庭訓不快ニ依リ日頃出仕セズ。今此ノ事ヲ聞キ、心肝摧クガ如シ。文王已ニ没ス。嗟呼悲シキ矣。倩(ツラ)々之ヲ思フニ、世運ニ尽クルカ。健御前懇切ニ依り、密々牛車ヲ求メ之ヲ送ル。池殿ニ参ラレ、或女房ニ謁シ帰り来ル。語ラレテ云フ、今晩ニ至リ叡慮太ダ分明。夜前実全僧都(験者)、山上ニ住房ヲ造ルベキニ依り、方違ヘノタメ退出スベキ由申ス。若州之ヲ抑留ス。仍テ罷り出ヅベカラザル由申ス。而レドモ殊ニ仰セラレテ云フ、山上ノ方忌尤モ不便。早ク暇ヲ賜ハリ方違へセシムベキナリト。再三ノ仰セニ依り僧都退去ス。其ノ後、泰山府君ノ都状ヲ進ム。脂燭ヲ召シ、分明ニ御覧ズ。又人々申スニ依り、聊カ御膳ヲ召シ寄ス。御寝ノ際、御気頗ル奇シキ事アリ。驚キ見奉ルノ間、事已ニ危急。仍チ泰通朝臣ヲ以テ、院ノ御方ニ申サシム。即チ渡リオハシマス。金ヲ打チ鳴ラシ、御念仏アリト雖モ、御合眼ニ及バズト云々。日来、法王渡リオハシマス。深ク喜悦二思シ食ス。臥シ乍ラ御対面アリ。御言語平常ノ如シ。諮詢互ニ懇切卜云々。視聴クニ付悲慟ノ思ヒヲ催ス。須ク馳セ参ズべキノ処、末座ノ者更ニ然ルベカラザル由、深ク以テ難渋ス。是レ又、前世ノ宿願ノミ。只此ノ説ヲ以テ僅ニ不審ヲ散ズ。今夜、邦綱卿清閑寺ノ小堂ニ渡シオハシマス。抑是レ六条院ノ御墓所卜云々。如何々々。聞キ及ブコト、幾バクナラズ。夜、私ニ出デ雑人ニ交ハリテ見物ス。落涙千万行。


つづく


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