2022年9月15日木曜日

〈藤原定家の時代119〉治承5/養和元(1181)年3月1日~10日 「院並びに八条院(八条院に御す)に初参す」(「明月記」) 美濃墨俣川の合戦 重衡の追討軍、行家の源氏軍を破る 朝廷側は西三河までを勢力圏として確保      

 


〈藤原定家の時代118〉治承5/養和元(1181)年閏2月5日~26日 公卿僉議は休戦論を決定するが、宗盛は主戦論を主張 追討使(重衡・通盛・維盛ら)進発 より続く

治承5/養和元(1181)年

3月

この月

・頼朝、土屋義清亀谷堂(後の寿福寺)にて母の法事

3月1日

・「官兵等、未だ尾張河を渡らず、水溢に依ってなり。来五日合戦すべしと。」(「吾妻鏡」同日条)。

3月4日

・皇嘉門院聖子(兼実の事実上の母親代り)の九条の御所が火災。兼実の九条富小路殿に入る。

3月7日

・頼朝、武田信義を疑い起請文を要求。武田信義、後白河法皇が頼朝追討を命じたとの風聞を否定し、頼朝に誓書を出す。

「大夫屬入道状を送り申して云く、去る月七日院の殿上に於いて議定有り。武田の太郎信義に仰せ、武衛追討の廰の御下文を下さるべきの由定めらる。・・・子細を信義に尋ねらるるの処、駿河の国より今日参着す。身に於いて全く追討使の事を奉らず。縦え仰せ下さると雖も進奉すべからず。本より異心を存ぜざるの條、・・・起請文に書き献覧せしむの間、御対面有り。この間猶御用心有るに依って、義澄・行平・定綱・盛綱・景時を召し、御座の左右に候せしむと。武田自ら腰刀を取り行平に與う。」(「吾妻鏡」同日条)。

3月9日

・藤原定家(20)、八条院との関係により後白河に仕える。「院並びに八条院(八条院に御す)に初参す」(「明月記」)。←3月15日か?

3月10日

・美濃墨俣川の合戦。

平家軍3万余(平重衡・平通盛・平維盛・平忠度・平知度・讃岐守・阿波民部大夫重能)、黒俣川で源氏軍5千余(源行家・行頼・源義円・中原光家)を破る。源軍5千中1千余討死、300余溺死。義経の同母兄円成(27)、討死。平忠度、源行家の子行頼を捕縛。この合戦で、朝廷の勢力圏は三河国西部まで押し戻される。西国の飢饉により兵粮米欠乏が甚だしく、源平両軍に均衝状態が生じる。

たまたま重衡の舎人金石丸が馬を洗いに川岸に出て行家軍の渡河を目撃、報告した。追討使は「高名の者」として金石丸の名前を出して報告している(『玉葉』)。追討使側も攻め込む準備をしていたので機敏な対応ができ、渡河の途中で十分な応戦のできない源行家の軍勢を一方的に撃破できた。

病没の清盛に代わり平氏惣帥となった宗盛は、畿内近国地域を軍事的に押える「惣管」に任じられ、臨戦体制がようやく整いつつある。墨俣合戦はそうした平家側の反攻を象徴するような戦い。

「十郎蔵人行家(武衛叔父)、子息蔵人太郎光家・同次郎・僧義圓(卿公と号す)・泉の太郎重光等、尾張・参河両国の勇士を相具し、墨俣河の辺に陣す。平氏の大将軍頭の亮重衡朝臣・左少将維盛朝臣・越前の守通盛朝臣・薩摩の守忠度朝臣・参河の守知度・讃岐の守左衛門の尉盛綱(高田と号す)・左衛門の尉盛久等、また同河西岸に在り。晩に及び侍中計を廻らし、密々平家を襲わんと欲するの処、重衡朝臣の舎人金石丸、馬を洗わんが為墨俣に至るの間、東士の形勢を見て、奔り帰りその由を告ぐ。仍って侍中未だ出陣せざるの以前、頭の亮の随兵源氏を襲い攻む。縡楚忽に起こり、侍中の従軍等頗る度を失う。相戦うと雖も利無し。義圓禅師は盛綱が為討ち取らる。蔵人次郎は忠度が為生虜らる。泉の太郎・同弟次郎は盛久に討ち取らる。この外の軍兵、或いは河に入り溺れ死に、或いは傷を被り命を殞す。凡そ六百九十余人なり。」(「吾妻鏡」同日条)。

「平中納言送書、また所々より告げて云く、去る十日尾張の賊徒等、彼より洲俣を渡り、官軍に向き逢い合戦す。渡る者三千余騎、及び千余人打ち取ると。事実ならば、一天四海の慶び何事かこれに如かずや。」(蔵人頭(頭弁)吉田(藤原)経房の日記「吉記」同12日条)。

「美濃合戦の事注文風聞す、実説を知らずと雖もこれを注(しる)す。

三月十日、墨俣河の合戦において、討ち取る謀反の輩の首の目六(もくろく目録)

頭亮(重衡)方二百十三人内(生取八人)、越前守(通盛)方六十七人、権亮(維盛)方七十四人、薩摩(忠度)方廿一人、参河(みかわ)守(知盛)方八人内(自らの分有り)、讃岐守(維時)方七人(同)、巳上(いじょう)三百九十人内、大将軍四人、

和泉太郎重満(頭亮方盛久自らの分)、同弟高田太郎(同方盛久郎等の分)、十郎蔵人息字(あざな)二郎(薩摩守方)、同蔵人弟(甥)悪禅師(義円)(頭亮方盛綱が手)

此の外負手(手負)、河二逃げ入る者等三百余人」(「吉記」13日条)

「注文」;事件の詳細や結果を記した文書


「伝聞、去る十日、官兵等墨俣を渡らんと欲するの間、尾張を遮る賊徒等越え来たる。五千余騎なり。而るに重衡が舎人男(金石丸。高名の者なりと)これを告ぐ。茲に因って相防ぎ、巳の刻より申の刻に至り合戦す。賊党等千余人梟首せらる。その後三百余人河水に溺れ亡滅す。大将軍等、多く以て伐ち取りをはんぬ。猶官兵等墨俣河を渡り、残賊等を襲うと。これ去る夜、飛脚到来し、称し申すと。十郎蔵人行家(本名義俊)疵を被り河に入りをはんぬ。定めて夭亡をはんぬか。然れども、梟首の中に入らずと。」(「玉葉」同13日条)。

重衝が中央に布陣して全体の半数を討ち取る。義円は重衡に属した平盛綱、泉重満は平盛久、高田太郎は盛久郎党、源行頼は平忠度の手の者が討ったと記録されている。義円は平治の乱の後で僧侶となることを条件に助命された義朝の遺児で、八条宮円恵(えんえ)法親王に坊官として仕えていた。東国に逃れなければならない立場にはなかったが、平治の乱の復讐の機会と考えてこの合戦に加わったか。京都では円恵法親王付の坊官をしていたので、同房同宿の大衆を組織する条件にはなかった。義朝の遺児という血筋をもつ義円を、一軍の将として地方豪族から担ぎ上げられる立場には置けるが、4ヶ月にわたって合戦を続けてきた平氏の武将たちとは熟練の度合いが違う。行家は大軍を集めたが、義円を大将に抜擢しなければならないところに、武将の質に致命的な問題のあることがわかる。

その後、追討使は追撃を続け、尾張国府を占領した後も、東に逃走する行家を追い続け、安田議定が警戒のために三河国に派遣していた軍勢と矢作川(愛知県岡崎市)を挟んで接触するまでとなった。

重衝は、この合戦の勝利で、西三河までを朝廷が影響力が及ぶ勢力圏として回復し、遠江国を実効支配する甲斐源氏の安田義定と境を接するようになった。ここから先は、頼朝・甲斐源氏連合軍と戦うことになるので、大規模な遠征軍の編成が必要であった。

この合戦の勝利によって、東海道の勢力分野の境界線は安定した。平氏政権は当面の危機を乗り切ったが、この合戦で軍勢を消耗させていた。回復するまで、しばらくの休養が必要であった。


つづく



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