2022年9月21日水曜日

〈藤原定家の時代125〉治承5/養和元(1181)年6月11日~7月17日 造興福寺定め・造東大寺定め(再建の詔) 頼朝の上総介広常への不信感 越中・加賀・越前・能登の反平家勢力優勢 「養和」改元 頼朝・義経確執の萌芽    

 


〈藤原定家の時代124〉東大寺・興福寺再建纏め その2 治承5/養和元(1181)年8月10日~ 造東大寺知識詔書 勧進上人重源 南宋の商人・工人、陳和卿 一国平均役化する造営費用 より続く

治承5/養和元(1181)年

6月11日

・平貞能、九州より福原に帰還。

18日、都入り。数万の軍との噂であるが、実際の都入りは1千で都人は落胆。

6月12日

・藤原定家(20)、俊成の命で平維盛邸に参り、その妻(姉後白河院京極二女)に維盛任右近衛中将の慶びを申す。

6月14日

・「伝聞、東国より牒状を山上に送る。・・・而るに座主件の状を以て前の幕下に見せしむ。また奏聞を経る。大衆これを聞き、大いに怒り云く、先ず衆徒に触るべきなり。・・・仍って座主と大衆不和と。」(「玉葉」同日条)。

6月15日

・造興福寺定め(再建の詔)(「百錬抄」)。造興福寺使の除目が行われ長官藤原兼光以下が任命される。

興福寺は藤原氏の氏寺ではあるが、創建以来官寺としての扱いをうけていた(半官半民的色彩が濃厚)。再建費用の調達も両様に行われ、南円堂と維摩堂は「氏長者の沙汰」、金堂・廻廊・僧房などは「公家(こうげ、朝廷)の沙汰」であった。前者は藤原氏の荘園などから捻出する方式であり、後者は国宛て方式で、例えば金堂が近江・丹波・播磨・美作・備中・讃岐・伊予の国々に各一間分を割当てた。

6月19日

・頼朝、三浦海岸で納涼。上総広常、頼朝に対し下馬せず会釈のみ。頼朝、不信感を持つ。

「武衛納涼逍遙の為三浦に渡御す。・・・上総権の介廣常は、兼日の仰せに依って佐賀岡浜に参会す。郎従五十余人悉く下馬し、各々砂上に平伏す。廣常轡を安めて敬屈す。時に三浦の十郎義連、御駕の前に候ぜしめ、下馬すべきの由を示す。廣常云く、公私共三代の間、未だその礼を成さずてえり。・・・酒宴の際、上下沈酔しその興を催すの処、岡崎の四郎義實武衛の御水干を所望す。則ちこれを賜う。仰せに依って座に候しながらこれを着用す。廣常頗るこれを嫉み、申して云く、この美服は、廣常が如き拝領すべきものなり。義實の様な老者を賞せらるの條存外と。義實嗔りて云く、廣常功有るの由を思うと雖も、義實が最初の忠に比べ難し。更に対揚の存念有るべからずと。その間互いに過言に及び、忽ち闘諍を企てんと欲す。武衛敢えて御詞を発せられず。左右無く両方を宥められ難きの故か。爰に義連奔り来たりて、義實を叱って云く、入御に依って義澄経営を励む。この時爭か濫吹を好むべきや。若しくは老狂の致す所か。廣常が躰また物儀に叶わず。所存有らば後日を期すべし。今御前の遊宴を妨げること太だ拠所無きの由、再往制止を加う。仍って各々言を罷め無為なり。義連御意に相叶うこと併しながらこの事に由ると。」(「吾妻鏡」同日条)。

6月25日

・「戌の刻、客星艮方に見ゆ。鎮星色青赤にて芒角有り。これ寛弘三年出見の後例無しと。」(「吾妻鏡」同日条)。

・「伝聞、去る二十五日より、客星内天(壬艮傍らと)に出る。以ての外の変異なり。左右に能わず。天下の大事、足を挙げて待つべしと。」(「玉葉」同28日条)。

6月26日

・造東大寺定め(再建の詔)(「百錬抄」)。法然、大勧進職辞退し重源を推挙。重源、東大寺大勧進職に内定。


7月

・城氏の惨敗以後、越中・加賀の在地勢力が東国(頼朝・義仲らの勢力)に同意、越前にも影響が現われ始める。

下旬、能登・加賀などで一国規模の反乱。能登武士謀反。知行国主平知盛・能登守平教経が派遣した目代が京に逃げ帰り、従者は現地で斬首。平氏の国務知行権が完全に否定。

平氏はたびたび追討軍を派遣するが、見るべき戦果もなく、若狭・越前あたりで一進一退の状態が続く。

越前の稲津新介、斎藤太、平泉寺長吏の斎明(さいみょう)、加賀の林氏、冨樫氏、井家(いのいえ)氏、都幡氏、能登の土田氏、越中の野尻氏、河上氏、石黒氏、宮崎氏、佐美太郎ら、義仲方につく(「平家物語」)。

7月4日

・この日申刻(午後4時ころ)に参院した兼実は、召しによって御前に参り数刻法皇と「世間逆乱の間のこと」を話す。病気がちでほとんど出仕しなかったことで、内心「疎遠の恐れ」を抱き遠慮がちであったが、天気(法皇のごきげん)は至ってよく、ほっとする。

7月8日

・若宮営作。

「若宮営作の事その沙汰有り。而るに鎌倉中に於いて然るべきの工匠無し。仍って武蔵の国浅草の大工字郷司を召し進すべきの旨、御書を彼の所の沙汰人等の中に下さる。昌寛これを奉行す。」(「吾妻鏡」同3日条)。

「浅草の大工参上するの間、若宮営作を始めらる。先ず神躰を仮殿に遷し奉る。武衛参り給う。相模の国大庭御厨寺一古娘、召しに依って参上し、遷宮の事を奉行す。また輔通・景能等これを沙汰す。来月十五日、正殿に遷宮有るべし。その以前に造畢すべきの由と。」(「吾妻鏡」同8日条)。

7月13日

・左少弁行隆を使者として後白河のことばが兼実に伝えられる。

「近日、衆災(多くのわざわい)が競い起こっている。すなわち炎旱・飢饉・関東以下諸国の諜反(叛)・天変・怪異等々。これに対してどういう謀略を廻らせばその夭殃(ようえい、わざわい)を消すことができるのであろうか。朕はもうどうしていいかわからない(朕已迷成敗)。公(兼実)よろしく思うところを奏上せよ。あえて時議をはばかることなかれ。」

この後、暫くの間、後白河と兼実との間で徳政論(抽象的なレベル)などについて意見交換がある。

10月2日、法皇は兼実に、「天下乱逆、今においては獲麟(かくりん)に及ぶか(終末。来るところまで来た)、武略(では)及びがたし。徳政(も)叶うべからず。なお別の御願等あるべきか」とたずねている。

対して兼実は、大神宮への行幸や神楽なども結構であるが、結局は、いますべからく天下を太平に致し、政を淳素に反(返)すべきことを、法皇の叡念から起し、潔白の御願を立てられることが大事なのであって、このほかの事については一切お答えできない、と使者の頭弁経房に述べ、経房もこれに感心している。

7月14日

・「養和」に改元

全国的な凶作・北国にも反乱。疫病流行。

頼朝、似仁王令旨の有効性と旗下の武士達の情報操作の為、改元前の治承を使う。

7月14日

・義経(23)、鶴岡若宮宝殿上棟式で御家人の1人として、大工に与える褒美の馬を引く。

御家人扱いに不満を洩らすが、頼朝の怒りをかい、高圧的な態度に仕方なく服従。頼朝は義経を旗下に位置付けておく必要がある。この頃、東国では義仲が東山・北陸道に進出、行家が東海道の尾張に、甲斐源氏が遠江・甲斐に、信太義広が常陸にと、各地に源氏一門が拠り、相互に牽制しつつ勢力を築き、頼朝は自らの存在を卓越したものと認めさせておく必要がある。鎌倉武士団における頼朝の基盤の脆弱さと義経の背後にある奥州藤原氏への牽制。

7月16日

・後白河法皇、密かに資盛の六波羅亭に御幸。

この時、院のお供をしたのは「他人一切参らざ」るなかで、平親宗(ちかむね)・資盛らだけだった(『玉葉』)。前者は清盛の妻時子の異母弟であるが、公然たる院の近臣である。それと並んでの供奉は、彼の立ち位置をよく表している。(「平家の群像」)。

7月17日

・この日、加賀・越中両国が源氏に与したという情報が京都に届く。

7月18日、北陸道への追討使派遣は、平通盛が総大将になるとの情報が九条兼実に伝えられる。

22日、城助職が態勢を立て直して勢力を維持しているとの報告が届く。

・兼実、人づてに「越後助職いまだ死せず、勢またあながちに滅せず、信乃源氏等掠領するに似たりと雖も、いまだ(越後に)入部せず」との情報を得る(「玉葉」同日条)

24日、能登目代が任地から逃亡して京都に帰着。

「みな東国に与し了んぬ。能登目代逃げ上ると云々」(「玉葉」7月24日条)

京都には、北陸道の国衙支配が崩れていく状報が伝えられている。

7月21日

・この頃、播磨国でも国司に背くものが現れ、兼実は「およそ外畿(畿内の外)の諸国みなもってかくのごとし」と慨嘆する(「玉葉」同日条)


つづく




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