2022年9月30日金曜日

〈藤原定家の時代134〉養和2/寿永元(1182)年7月~8月 北陸宮(以仁王遺児)、越前の義仲のもとに脱出(義仲、大義を獲得) 頼朝嫡男万寿(頼家)誕生 頼朝が信頼を寄せる比企能員 比企尼のこと  「・・・能員が姨母(比企の尼と号す)当初武衛の乳母たり。(中略)治承四年秋に至るまで、二十年の間、御世途を訪い奉る。」(「吾妻鏡」)            

 


〈藤原定家の時代133〉養和2/寿永元(1182)年4月~6月 仮借ない九州での兵粮米徴収 寿永改元 徳子(28)に建礼門院の院号宣下 「武衛御寵愛の妾女(亀前と号す)を以て、小中太光家が小窪の宅に招請し給う。(中略)去る春の比より御密通、日を追って御寵甚だしと。」(「吾妻鏡」) より続く

養和2/寿永元(1182)年

7月12日

・北条政子、出産の為に比企能員の屋敷に移る。

「御台所御産気に依って、比企谷殿に渡御す。・・・千葉の小太郎胤正・同六郎胤頼・梶原源太景季等御共に候す。梶原平三景時、御産の間の雑事を奉行すべきの旨、仰せ付けらると。」(「吾妻鏡」同日条)。

□現代語訳

「十二日、庚辰。御台所(政子)が御産気のため、比企谷殿(比企能員の屋敷)へお移りになった。輿を用いられた。これはあらかじめそこが指定されていたという。千葉小太郎胤正・同六郎胤頼・梶原源太景李等が御供した。梶原平三景時は御産の間の雑事を取り計らうようご命令を受けたという。」。

7月14日

・新田義重、源頼朝の勘気を蒙る。悪源太義平の後家である義重の娘に、頼朝が艶書を送るが、政子を憚りこれを拒否して家臣師六郎に嫁がせたため(「吾妻鏡」)。

□現代語訳

「十四日、壬午。新田冠者義重主が(源頼朝の)お怒りを蒙った。義重の息女は、武衛(源頼朝)の兄の悪源太殿(源義平)の後室であった。ところが頼朝がこの間、伏見冠者(藤原)広綱に命じて密かに御艶書をお届けになったところ、義重の息女は全く受け入れる気配がなかったので、直接、父の主(義重)に仰ったところ、義重はもとよりなにかと配慮する性格で、御台所(政子)の耳に入ることを恐れ、急いでにその女子を帥(ソチ)六郎に嫁がせたのである」。

7月29日

・慈円、無動寺検校に補される

7月29日

・北陸宮、出家。乳母の夫讃岐前司重季に守られ北陸道から越前へ向う。源義仲が越中宮崎に御所建設、還俗し元服。

この日、右大臣九条兼実のもとに届いた情報は、以仁王の後見人を務めていた妻(従三位藤原季行娘、良通・良経母)の兄讃岐前司藤原重季(しげすえ)が、南都に潜んでいた以仁王の遺児(北陸宮)を伴って北陸道に脱出したというもの。重季は治承4年(1180)の以仁王事件以後、北陸宮を南都の周辺に匿っていたという。

8月10日には北陸宮を伴って越前国府に入ったとの続報が届く。

北陸宮は、南都を脱出して北上し、近江源氏柏木義兼の所領近江国甲賀郡(滋賀県水口市周辺)を通り、園城寺・延暦寺の勢力圏に属する近江の山中を通過し、平氏の勢力圏として残る若狭国を山越えして、木曽義仲の勢力圏越前国敦賀に入った。南都北嶺の権門寺院の勢力圏を通って近江国の北端まで抜けられるので、平氏政権が勢力圏として維持している若狭国以外は危険のない安全なルートである。

義仲は、越中国宮崎(富山県下新川郡朝日町)に御所を構えてこの宮を迎えたと『平家物語』は記している。北陸宮を奉じたことにより、木曽義仲は北陸道・上野・信濃を実効支配する反乱軍から、以仁王の遺児を奉ずる皇位継承戦争の有力者に立場を変えることになった。安徳天皇を奉ずる平氏、北陸宮を戴くことで以仁王挙兵の大義を継承する義仲、後白河院と結ぶ頼朝、この内乱の帰趨を定める三者の政治的な立場が明確になった。

『源平盛衰記』巻28「顕真(けんしん)一万部法華経事」;

寿永元年5月19日(日付は「玉葉」と合わない)、延暦寺の悪僧永雲が薩摩国に配流、顕真が土佐国に配流になったとある。罪状は、高倉宮の御子(北陸宮)ならびに伊豆守源仲綱子息を、木曽義仲のもとに逃した咎である。

8月12日

・北条政子、鎌倉比企ヶ谷の能員の屋敷にて頼朝嫡男の万寿(のちの源頼家)を出産。

18日、御七夜の儀。千葉常胤が奉行、妻・秩父重弘娘、子息6人がそれに従う。

「晩に及び、御台所御産気有り。武衛渡御す。諸人群集す。またこの御事に依って、在国の御家人等近日多く以て参上す。御祈祷の為、奉幣の御使いを伊豆・筥根両所権現並びに近国の宮社に立てらる。所謂、伊豆山 土肥の彌太郎 筥根 佐野の太郎 相模一宮 梶原の平次 三浦十二天 佐原の十郎 武蔵六所宮 葛西の三郎 常陸鹿嶋 小栗の十郎 上総一宮 小権の介良常 下総香取社 千葉の小太郎 安房東條寺 三浦の平六 同国洲崎社 安西の三郎」(「吾妻鏡」同11日条)。

「酉の刻、御台所男子御平産なり。御験者は専光房阿闍梨良暹・大法師観修、鳴弦役は師岡兵衛の尉重経・大庭の平太景義・多々良権の守貞義なり。上総権の介廣常は引目役。戌の刻、河越の太郎重頼が妻(比企の尼女)召しに依って参入し、御乳付に候す。」(「吾妻鏡」同12日条)。

「若公誕生の間、代々の佳例を追い、御家人等に仰せ、御護刀を召さる。所謂、宇都宮左衛門の尉朝綱・畠山の次郎重忠・土屋兵衛の尉義清・和田の太郎義盛・梶原平三景時・同源太景季・横山の太郎時兼等これを献ず。また御家人等が献ずる所の御馬、二百余疋に及ぶ。」(「吾妻鏡」同13日条)。

「若君三夜の儀、小山の四郎朝政これを沙汰すと。」(「吾妻鏡」同14日条)。

「鶴岡宮の六齋講演を始めらる。」(「吾妻鏡」同15日条)。

「若君五夜の儀、上総の介廣常が沙汰なり。」(「吾妻鏡」同16日条)。

「七夜の儀、千葉の介常胤これを沙汰す。」(「吾妻鏡」同18日条)。

「若君九夜の御儀、外祖これを沙汰せしめ給う。」(「吾妻鏡」同20日条)。

頼朝が信頼を寄せる比企能員

比企尼(頼朝の乳母、頼朝が伊豆に流されてからも20年間支援を続ける)の甥で猶子の比企能員が頼家の乳母父に選ばれてる。頼家誕生にあたって最初の乳付けの儀式は比企尼の次女(河越重頼室)が行い、比企尼の3女(平賀義信室)、能員の妻も頼家の乳母になる。

比企尼

「・・・能員が姨母(比企の尼と号す)当初武衛の乳母たり。而るに永暦元年豆州に御遠行の時、忠節を存ずる余り、武蔵の国比企郡を以て請け所と為し、夫掃部の允を相具す。掃部の允下向し、治承四年秋に至るまで、二十年の間、御世途を訪い奉る。今御繁栄の期に当たり、事に於いて彼の奉公に酬いらるるに就いて、件の尼、甥能員を以て猶子と為し、挙げ申すに依って此の如しと。」(「吾妻鏡」同日条)。

源義朝が鎌倉にいる頃、比企掃部允は義朝の家人となっており、義朝が武家の棟梁として京都で活躍するようになると、比企掃部允夫妻も京都へのぼり義朝側近として奉公する。久安3年(1147)、頼朝が誕生し、妻の比企尼がその乳母に選ばれる。平治元年(1159)、平治の乱で義朝が清盛に敗れ、頼朝(14)が伊豆国に流罪となる。武蔵国比企郡の代官となった比企掃部允は比企尼と共に比企郡中山郷へ下り、治承4年(1180)秋まで20年間頼朝に仕送りを続ける(「吾妻鏡」寿永元年10月17日条)。比企尼は男子に恵まれず、家督は甥の比企能員を尼の猶子として迎える。文治年2年(1186)6月16日と文治3年(1187)9月9日、頼朝・政子の夫妻は尼の屋敷を訪れて、納涼や観菊の宴会を催す。

比企尼には3人の娘があり、

①長女:二条天皇に仕える丹後内侍で、すぐれた歌人として知られ、惟宗広言に嫁ぎ、島津家先祖島津忠久を生む。また、平治の乱後、比企掃部允夫妻が武蔵に下ると、り、足立遠元の叔父安達藤九郎盛長と再婚(その娘は頼朝の異母弟範頼の妻)。

②二女(頼家乳母):武蔵の有力豪族河越重頼の妻(その娘は頼朝の異母弟義経の妻)。

③三女(頼家乳母):伊豆の有力豪族伊東祐清に嫁ぎ、祐清が討たれた後、平賀義信と再婚(子は朝雅で、北条時政の女と結婚)。

また、比企能員の娘(若狭局)は頼家と結婚し、一幡と竹御前を生む。

一方、頼家の弟千幡(実朝)は北条氏が掌握。政子の妹阿波局が乳母になり、その夫阿野全成が乳母夫になる。頼朝・政子の2人の男子は、夫々比企氏・北条氏を乳母父関係に持ったことで、抗争の火種を宿す結果となる

8月14日

・前斎宮亮子内親王(のちの殷富門院)、皇后となる。

8月22日

・この日朝廷で、大嘗会(祭)を延期するや否やの議あるべし、という声が上がる。北陸道追討使を派遣せねばならず、そういう凶事の遂行と天皇即位行事の仕上げとしての「大祀(だいし)」は両立できないとの主張(「吉記」)。

安徳天皇即位の大嘗会は、本来なら前々年(治承4年)11月に実施されるべきところ、福原遷都の最中、7月下旬から8月中旬まで、福原でやるのか京都でやるのか激しく議論された。大嘗会は都以外でやった前例がないから、福原でやれば福原を正規の都と認定することになるので、遷都反対派は翌年延期を主張し、結局時間切れで翌年に持ち越された。ところが、翌治承5年早々に高倉上皇が亡くなり、この年は諒闇(天子が父母の喪に服する期間)となり、更に1年延期となった。

しかし、8月25日、大嘗会延引すべからず、追討使は発向すべしと決まった(「吉記」)。

しかし、兼実は、北陸道追討使派遣がまた猶予されたとの情報を聞き込んで、毎度だが準備命令がされていないからだ、とあきれている(「玉葉」)。


つづく



0 件のコメント: