2022年9月8日木曜日

〈藤原定家の時代112〉治承5/養和元(1181)年1月1日~7日 熊野衆徒の伊勢・志摩襲撃 定家(20)、式子内親王に初参 東大寺・興福寺の荘園を没収、僧綱以下免職 源通親、従三位 

 


〈藤原定家の時代111〉治承4(1180)年12月25日~29日 南都合戦 市街地・東大寺・興福寺以下南都7大寺焼打 大仏頭部が落ち身体は溶ける 「七大寺已下、悉く灰燼に変わるの條、世の為民の為、仏法・王法減し尽きをはんぬるか。凡そ言語の及ぶ所に非ず。」(「玉葉」)  「官軍南京ニ入り、堂塔僧坊等ヲ焼クト云々。東大興福ノ両寺、已ニ煙卜化スト云々。弾指スべシ弾指スべシ」(「明月記」) より続く

治承5/養和元(1181)年

この年

・鴨長明(27)、処女歌集「鴨長明家集」。

1月

・熊野衆徒、50艘余で伊勢・志摩襲撃、官兵200余人殺害。関信兼(伊勢二宮禰宜庁牒)、防御。「関出羽守信兼が姪(ママ)の伊藤次以下の軍兵を相具し」、伊勢の四瀬河辺で熊野の悪僧多数を撃破(「吾妻鏡」21日条)。関は三重県鈴鹿郡関町で鈴鹿関の置かれたところで東海道の要衝。

紀伊熊野の別当湛増は平治の乱では、熊野参詣から急ぎ帰洛した清盛を援けるが、この頃は反平氏の動きを示し、熊野水軍を率い、前年暮れから、伊勢・志摩を襲撃。この地域は清盛の祖父正盛以来の伊勢平氏の基盤であり、これへの侵食は平氏の打撃を一層大きなものにする。熊野水軍は、その後の壇ノ浦合戦では、源氏側の中核戦力を構成し、熊野水軍の加担は極めて大きい。

・鎮西の叛乱軍、菊池高直の勢力が数万となり、これを追討すべき宣旨が出される。

・平家は前年(治承4年)中に近江をほぼ制圧、この年正月中旬になると美濃に攻め入り、20日には通盛・維盛らが、美濃源氏光長の城を攻め落とす。

1月1日

・前年の兵乱と南都炎上により元日の儀礼は停止

1月1日

・頼朝、鶴岡若宮へ参る。1日を鶴岡若宮への奉幣の日と決める。

□「現代語訳吾妻鏡」。

「一日、戊申。卯の刻に前武衛(頼朝)が鶴岡若宮へお参りになった。日の吉凶にかかわらず、一日を鶴岡若宮への奉幣の日とお決めになったという。三浦介義澄・畠山次郎重患・大庭平太景義等が郎従を率いて、昨日の夜半以後、辻々を固めて警備した。お出ましは御騎馬で、拝殿にお着きになった。(鶴岡別当の)専光房良遢(リョウセン)があらかじめそこに控えていた。まず神馬一疋を神前に引き立てた。宇佐美三郎祐茂・新田四郎忠常等がこれを引いた。次に法華経の供養があり、(頼朝は)御聴聞になった。参拝が終ってお帰りになった後、千葉介常胤が椀飯を献じた。三尺の鯉を用意し、また、酒肴は数え切れないほどだったという。」。

1月3日

・藤原定家(20)、式子内親王(30?、以仁王の妹)に初参。定家の姉2人はこの内親王に出仕。

「・・・次デ三条前斎院ニ参ズ(今日初参。仰セニ依ルナリ。薫物馨香芬馥タリ)。次デ中御門ニ参ズ。同ジク女房ニ謁シ奉ル。」(「明月記」同日条)。

(初めて、前斎院式子内親王の召しにより参向。その薫物の芳香に酪酎。俊成は、式子の歌の師であり、前斎院女別当・同斎院大納言は、定家の姉で、式子に仕えている。式子は、噂に聞く定家の歌才に興味をもったのであろうか。)。

1月4日

・東大寺・興福寺の荘園を没収、僧綱以下免職。

「伝聞、左衛門の尉知康(法皇、近日第一の近習者なり)並びに兵衛の尉公友等、禅門の許より捕取せられをはんぬ。知康に於いては、重ねて禁固せらると。今日、武士(今度は大将軍を遣わさず、ただ私の郎従宣下を持ち行き向かう所と)を遣わし、大和の国の庄を停廃す。並びに無罪の僧綱已下を安堵せしめ、有罪の凶徒党類を征伐すべしと。」(「玉葉」7日条)。

1月5日

・波多野小次郎忠綱・三郎義定、伊豆江四郎の子2人を討ち取る。

□「現代語訳吾妻鏡」。

「五日、壬子。関東の武士等が南海道を経て京都へ入るとの噂がたった。そこで平家は家人を所々の海浦に分けて配置した。そのなかで伊豆江四郎を派遣して志摩国を警備させた。ところが今日、熊野山の衆徒等が先を争って志摩国の菜切島へ次々と集まり、江四郎を襲い攻めたので、江四郎の郎従は多く疵をこうむり敗走した。江四郎は伊勢神宮の御鎮坐になる神道山を経て宇治岡に遁れ隠れたところ、波多野小次郎忠綱〔波多野義通次男〕・同三郎義定〔義通孫〕等の主従八騎がちょうどその場に行き会い、源家に忠節を尽くそうとして合戦を遂げ、江四郎の子息二人を討ち取ったという。忠綱・義定は、故波多野次郎義通の跡を継いで志摩国に住んでいた。右馬允(波多野)義経(義常)は不義があって相模国で討ち取られたのであるが、この二人は源氏との旧好を思って勲功に励んだのである。」。

○伊豆江四郎:

もともと志摩を本拠とする平氏家人。大江姓で伊豆に関係する武士。

○菜切島:

志摩国英虞(アゴ)郡。現、三重県志摩市波切付近の島か。

○宇治岡

現、三重県伊勢市の間山(アイノヤマ)。伊勢神宮の内宮と外宮との間にある台地。

○忠綱:

父は義通、母は宇都宮宗綱の娘。のち中務丞、和田合戦では北条方先陣として活躍。

○義通(1107嘉承2~69嘉応元):

相模国波多野郷を本拠とする武士。父は遠義、母は藤原師綱の娘。義朝の有力家人として保元の乱で活躍。一説には、義通の妹と義朝の間に生まれたのが朝長ともいう。

○義定:

父は義職。忠綱の甥。「吾妻鏡」の他の条の「宇治蔵人三郎義定」と同一人物か。

○義経(義常)(?~1180治承4):

父は義通、母は中河辺清兼の娘とされるが、下河辺の誤りか。頼朝挙兵時に敵対し、追っ手を受けて自領の相模国松田郷で自害。

1月5日

・源(久我)通親、従三位に進み公卿に列する。播磨権守に任ぜられる。

親平家公家:村上源氏嫡流に生まれる。後白河上皇院政初期の保元3年(1158年)に従五位下に任じられる。清盛の支援を受けた高倉天皇側近として平家と関係を築き、清盛弟の教盛の婿になる。治承3年(1179年)蔵人頭になり平家と朝廷のパイプ役となる。翌年、清盛による後白河法皇幽閉とその後の高官追放の影響を受けて参議に昇進、以仁王の乱追討・福原京遷都では平家と共に賛成を唱え、摂関家の九条兼実やその周辺(藤原定家ら)と対立。しかし、この頃、高倉上皇・平清盛の没後、通親は次第に平家との距離を取る様になる。

1月6日

・工藤景光、平井紀六(久重)を捕縛。

□「現代語訳吾妻鏡」。

「六日、突丑。工藤庄司景光が平井紀六(久重)を生け捕った。紀六は去年八月の早河での合戦の時、北条三郎主(宗時)を殺したものである。しかし武衛(頼朝)が鎌倉へお入りになった後、紀六は逐電して行方がわからなかったので、駿河・伊豆・相模等の武士に命じて捜し求めたところ、相模国蓑毛の辺りで景光が捕えたのである。景光は、まず北条殿(時政)のところへ紀六を連れて行った。時政は、すぐにこのことを頼朝に申し上げた。そこで紀六を(和田)義盛(侍所別当)にお預けになった。ただし、勝手に梟首してはならないと、御命令になった。紀六を糾問問したところ、宗時を殺したことについては認めたという。」。

1月7日

・後白河法皇の近習である鼓判官(つづみのほうがん)左衛門尉平知康(ともやす)、左兵衛尉大江公朝(きんとも)、平氏に従いながら富士川の合戦で敵対した甲斐源氏の左兵衛尉武田有義(ありよし)を解官。後白河院政復活に向けて危険な分子排除。


つづく

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