2022年9月22日木曜日

〈藤原定家の時代126〉治承5/養和元(1181)年8月1日~25日 東大寺再建実動開始(重源) 頼朝の密奏「、、、古昔の如く源氏平氏相並んで召使はるべきなり。関東を源氏の進止となし、海西を平氏の任意となし、、、」(「玉葉」) 通盛(越前守)に義仲追討宣旨(北陸道追討宣旨) 藤原秀衡を陸奥守に、平長茂(助職)を越後守に任命       

 


治承5/養和元(1181)年

8月

・東大寺再建が実動開始。無名の僧俊乗房重源、東大寺大勧進職就任。

翌寿永元年(1182)、筑前博多から宋人鋳物仏師陳和卿を招聘。朝廷、東大寺再建の為に周防・備前を寄進。

重源;勧進聖として民衆を結集できる力をかわれる。重源は多くの勧進衆を率い再建の為の広範な勧進活動を展開、大仏鋳造費用は主に知識物(勧進による寄進物)による(「玉葉」養和2年2月20日)。創建の時から東大寺が有する知識寺的性格を再編・強化して再建活動を推進。大仏鋳造の鋳師は日宋混成(宋人は陳和卿・陳仏寿兄弟ら7人、日本人は草部是助以下14人)であるが、宋側がリード。寿永~建久の大仏修復は頭部・両手・背腰部で、純度の高い宋銭・金銅具などを溶解して鋳造用銅としたと推測できる。

・この頃、義仲の勢力が越中にまで伸びてくる。
越中礪波郡石黒荘広瀬郷(南砺市)の地頭職をめぐる地頭藤原氏と領家方預所の相論文書に、地頭の祖父貞直を広瀬村下司職に安堵した治承5年8月の越中国留守所と治承6年2月の木曾佐馬頭(義仲)の下文が存在する。

治承年号は治承5年7月に養和に改元しているが、頼朝や義仲はそれを無視して治承年号を使用している。"



8月1日

・頼朝の密奏、後白河院の許に到着。この日、このことを兼実は宗盛の側近兵部少輔藤原尹明(ただあき)から聞く。

源平両氏への軍事権の委任、東国・西国地域の両氏による分割支配を提案。提案は、法皇から平宗盛に示されるが、宗盛の徹底抗戦主張の中で失敗。宗盛は亡父清盛の遺言が「我が子孫、一人と雖も、生き残る者は骸(むくろ)を頼朝の前に曝すべし」(『玉葉』)であったと後白河院に披露し、提案を拒絶。

もともと頼朝は、朝廷や寺社勢力のすべてを敵にまわして、全国支配を完成させるという考えはもっていなかった。彼は自ら組織した武力によって、東国を支配し、そこに纂奪者としての政権をうち立てたが、その際に支配の正当性を主張する拠りどころの一つを「以仁王の令旨」に求めていた。頼朝は平氏政権を否定したが、朝廷そのものを否定したわけではない。頼朝が、すでに実現している東国支配を、さらに全国に拡げようとするとき、朝廷ないしは後白河院政権といかにかかわっていくかの方策が必要となる。彼はここで京都政権の出方を打診することをも含めて、まず法皇との接触をはかった。

これは、平家と和平してもよいという提案であり、謀叛人であるという政治的位置を国家の守護者へと急転させ、古に返って源平の併用(平家は西海、源氏は関東)とあたかも歴史に基づくように見せかけ、実際にはなかった武家による広域軍事支配を提案し、併せて源氏平家の優劣を判定させ、しかも各国の行政権(国司の任命権)は「上(かみ、王家や朝廷」の側に確保させるという権益保証まで付けた、考えぬかれた巧妙な提案である。

この頼朝の政治宣伝により、反乱は源平の競い合いであるかのように粉飾し始める。

平家の反応も頼朝の想定内であっただろう。

いずれにしても、後白河院の歓心を買い、京都政界に登場する橋頭堡は築かれた。

後白河法皇は、義和元年(1181)7月頃、頼朝の密奏をうけていた。その日時は定かでないが、『玉葉』8月1日条に伝聞としてそのことが記されているので、おそらくは7月中旬・下旬のことであろう。

「去比(さいつころ)、頼朝密々院に奏して云ふ、全く謀反の心無く、偏に君の御敵を伐たんがためなり。而れども若しなほ平家を滅亡せらるべからざれば、古昔の如く源氏平氏相並んで召使はるべきなり。関東を源氏の進止となし、海西を平氏の任意となし、共に国宰においては上より補せらるべし。ただ東西の乱を鎮めんがため、両氏に仰せつけられて、暫くお試しあるべきなり。且つは両氏いずれか王化を守り、誰(いずれ)か君命を恐(かしこ)まんか、尤も両人の翔(ふるまい)を御覧あるべきなりと云々。」(「玉葉」同日条)。

「私(頼朝)には、院(後白河)への謀叛の心はございません。すべて君の御敵を伐つための挙兵でした。もし平家を滅ぼさないのなら、昔の如く源平両氏を相並び召仕うべきでありましょぅ。関東は源氏の支配とし、西国は平氏の意となし、しかも東・西ともに国司は朝廷より任命するのがよろしかろう。国司に反する者は源平両氏に仰せつけられたい。源平両氏いずれが王化を助け、君命に忠実であるかを御覧になっていただきたい」

頼朝の行動の理由。

①義仲の動きへの牽制。院との連絡により源氏内での主導権を確保するため。

②墨俣川での敗戦の影響。平氏討伐が遠のいた情勢の中で、東国での基盤強化のための兵士との妥協。

③「謀反人」「反乱軍」からの脱却。東国支配の容認は、自らの政治的立場の国家公権による保障。

8月6日

・兼実のところに蔵人頭左中弁吉田経房が後白河院の使いとしてやってきて、諮問事項を伝える。奥州の藤原秀衡を陸奥守に、越後の城助職を越後守に任じ、彼らを関東の逆徒、信濃・上野の木曾らにあたらせるという計略で宗盛の申請によるものだった。

後白河は、陸奥は秀衡が実際に支配しているので認めても問題ないだろう、城氏のほうは一旦は敵に撃退されたのに熟国(五穀豊熟の国)を恩賞として与えるのは理窟が立たない、与えるとしたら京官がいいのではないか、判断つきかねるので宜しく計らって奏請せよという。

兼実は、秀衡の件は問題ないが、助職の件は宗盛と相談していただきたい、京官に任じるのであれば左右衛門府の尉(じょう、三等官)はいかがだろう、と答えた。

8月7日

・経房は、助職の件はもう一度宗盛と相談されるよう後白河院に奏上。院は、佐渡守ではどうかと対案を出したが、結局宗盛のゴリ押しが通る。

8月12日

・頼朝が安田義定を討つとの風聞、京都に伝わる。

8月14日

・平通盛(越前守)に源義仲追討の宣旨(北陸道追討宣旨)。

8月15日

・第1次追討軍。北陸道追討使平経正・通盛ら、進発。15日若狭へ国守経正が、翌16日越前に通盛が出発。

8月15日

・後白河法皇、藤原秀衡を陸奥守に、平長茂(助職)を越後守に任命し、諸国の源氏(頼朝、義仲)追討を命じる。平親房(通盛の弟)を越前守に任命。後白河法皇、平氏と政治的妥協(平家と和睦して、一大勢力となりつつある源氏を封じておく)。

これは、平宗盛の奏上によるもので、城助職を推挙した理由は、「宣旨により信濃国に向かう、勢少なきにより敗るるは、全く過怠(かたい)にあらず、志の及ぶところ、已に身命を惜しまず、忠節の至り、すこぶる恩賞あるべきか」というもの。横田河原の敗報を知る者は、奏上の内容が事実と反することを知っていたが、朝廷の側にたってまだ抵抗を続けている助職を支援しようという宗盛の意図は理解された。第二次佐竹合戦の報告も京都に届いていて(『玉葉』・『平家物語』)、藤原秀衡が佐竹氏を支援して頼朝と緊張状態にあることは知られていた。越後守城助職は木曽義仲に対する牽制、陸奥守藤原秀衡は源頼朝に対する牽制である。

「去る夜、除目有り。・・・天下の恥、何事かこれに如かずや。悲しむべし。」(「玉葉」同日記)。

「秀衡・助職の事人以て嗟歎す。今朝、北陸道追討使但馬の守経正朝臣進発す。郎従五百騎ばかりを率すと。」(「吉記」同日記)。

8月20日

・この日付けの松尾社の訴え。 
「関東反逆の後」神領がことごとく押領され、わずかに丹波国天田郡雀部荘(ささいべのしよう、福知山市)一所で毎日の供菜(ぐさい)を献上していた。同荘では荘内を流れる天田川(由良川)の川筋、上は雀部荘堺より下は丹後国堺の間は「私の魚釣(ぎよちよう)」を禁止し、鮭・鮎などの鮮魚を松尾社に備え進めていた。それが、甲乙の輩(一般庶民)が「自由に任せ魚簗を打ち鱗介(りんかい)を漁」って、すでに足りなくなったと主張する(「平安遺文」4005号)。"   

8月23日

・北陸道追討。平通盛(大将)、越前国府へ入る。

隣国加賀在地武士の抵抗・乱入で苦戦。越前住人稲津新介実澄・林氏(加賀住人)・冨樫氏(木曽方、加賀住人)と合戦。平泉寺長吏の斎明らの反逆。平経正(副将軍)は、若狭より進めず。

8月25日

・藤原秀衡、従五位上に叙任。


つづく



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