2023年12月12日火曜日

〈100年前の世界152〉大正12(1923)年 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺(Ⅸ) 佐野眞一「甘粕正彦 乱心の曠野」(新潮社)より 10月8日 第1回軍法会議(つづき2)

 


〈100年前の世界151〉大正12(1923)年 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺(Ⅷ) 佐野眞一「甘粕正彦 乱心の曠野」(新潮社)より 10月8日 第1回軍法会議(青山の第1師団司令部) より続く


大正12(1923)年 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺(Ⅸ) 

佐野眞一「甘粕正彦 乱心の曠野」(新潮社)より 

10月8日  第1回軍法会議(つづき)


(30分の休憩)


- 大杉栄を殺害したのはどこか。


「憲兵司令部の階上応接室です。そこには私が命じて、森曹長が連れて行きました」


- 森に殺害のことを話したか。

「話したかどうかはよく記憶していませんが、森は私の殺意を推知していたと思います」

「しばらくしてその部屋に行くと、森は大杉と何事か話していました。私は一言も言葉を交わさず背後に回り、大杉の喉の部分に後ろから右手をまわし、その手で左手の手首を握って、締めつけました」

甘粕はそう言って両手をあげ、大杉を絞殺したときの仕種を再現して見せた。

「さらに締めつけると、大杉は少しもがき椅子を半回転ほどさせて右の方から落ちました。それから右脚を折り曲げて尻の下に敷き、左膝を立てた折敷(おりしき)の姿勢とは反対の姿勢をとり、右手を大杉の背にあてる柔道の絞め手で手をゆるめずにいると、大杉は十分くらいで絶命しました」

検察官調書では、甘粕は右膝頭を大杉の背骨にあて、柔道の絞め手で絞殺しました、と述べているが、ここでは右手を大杉の背にあて、と微妙に食い違っている。殺害した本人が、殺害方法を間違えて記憶しているとは常識的には考えられない。

- その後、麻縄で首を絞めたのか。

「そうです。別に麻縄で絞めなくともよかったのですが、万一息を吹き返すといけないと思ったので、念のため巻きつけたのです」


- 大杉を殺害するとき、森はどうしていたのか。

「ボンヤリ立っていましたが、私が命じて大杉のもがく足を押さえさせました。そのとき私は眼鏡を落としましたが、殺してしまってから自分でとりあげてかけました。殺したのは八時二十分頃で、連行してから一時間半くらい経っていたと思います」


ー 大杉を連行してから大杉と会話をかわさなかったのはなぜか。

「会話をかわしては工合いが悪くなるだろうと思ってかわしませんでした。森に命じて部屋に入れさせたのですが、私は別室にいた子どもがかわいそうになり、子どもにやる菓子をもっていってやったりしていました。大杉や野枝にも食事を運ばせ、私も事務室に戻って食事をすまし、それから事務をとりました。

大杉に対してほ渡仏後や震災後の活動状況を開こうと思っていましたが、仕事の都合で落ち着いて聞くことができませんでした。私の代わりに森に聞かせようと思いましたが、森ではわからないだろうと思い、大杉を入れた部屋に行き、何も聞かぬまま殺害に及んだようなわけです」

(午後1時15分、審理再開)


- 大杉を殺して野枝のいる部屋に行ったのはどれくらいしてからか。

「四、五十分くらい経ってからでした。私が部屋に入っていくと、野枝は子どもと何事か話していました。私は野枝に向かって、戒厳令を出すとは君らからすれば何と馬鹿なことをするのだろうと思うだろう、軍人の行動が馬鹿馬鹿しく見えるだろうと言いますと、野枝は、でも今日この頃では兵隊さんでなければならぬよう言うではありませんかと、机に頬杖をついて冷笑しながら答えました。

その態度がいかにも人を侮蔑したように見えましたので、私の殺意はここで一段と堅くなりました。私がつづけて、君らは今より一層混乱状態に陥るのを望んでいるのだろう、それを材料にして原稿を書けば、よく売れて結構だろうと申しますと、野枝は、すで二、三の本屋から注文がありました、とにかくあなたたちとはそもそも立場が違うのですからと、むしろ混乱がつづくことを望んでいるようなことを言いました。

これにはもう我慢ができず、子どもをちょっと隣室に連れて行って部屋に戻り、壁に近い椅子に腰かけていた野枝を、大杉とほとんど同様の方法で殺しました。大杉のときより多少骨は折れましたが、やはり十分くらいで絶命しました。野枝は二、三回ウーウーうめき声を発し、私の手をひっかいたように記憶しています」

- 野枝の活動に対する被告の考えはどうだったのか。

「別に深くは考えていませんでしたが、注意すべきだとは思っておりました。すでに検察官に述べた通り、野枝は震災当時、爆弾を所持し、大杉と共に活動する計画だと聞きました。といっても、それ以上の具休的なことについては調べませんでした」


- 野枝を殺害しようとは考えていなかったのか。

「殺害しようとは考えていませんでした。同行したときもまだ決めていませんでした。ただ一緒に来たらもっけの幸いだとは思いました」


- 幸いとは殺すのに幸いということか。

「場合によってはやってもいいと思っていました」


- 場合というのは、簡単に出来ればという意味か。

「単に簡単にできるという意味ではなく、いろいろな意味を含んでいます。野枝が大杉に共鳴した社会主義者であることは承知していますが、連れてくるまでは付和雷同的な女くらいの認識しかありませんでした。しかし、外国の歴史を見ましても、女が導火線になって革命を起こした例はたくさんあります。

大杉を殺害して野枝をそのまま放っておくと、さらに乱暴になりはしまいか。そうだとすれば、むしろ殺した方がよいのではないかと考えました。そして、大杉を殺してから野枝といろいろ話しているうちに殺害の決心を固めたのです」


ー 野枝を殺害するとき、子どもはどうしていた。

「隣室で騒いでいましたが、その部屋に入って無意識に殺しました。その方法は記憶していません。たぶん大杉と野枝をヤッツケたのと同じ方法でやったと思います」

それまで堂々として雄弁だった甘粕は、この質問には伏目がちとなり、声も小さく途切れがちになった。甘粕はひたすら「無意識でやりました」で押し通そうとした。


小川判士はこう質問した。

「その後分隊に帰って事務をとったということだが、無意識で子どもを殺した者が落ち着いて事務などとれるのか」

3人を1時間足らずのうちに殺害し、その後、自分の部屋でふだん通り仕事をしたという甘粕の供述は不自然

つづく


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