2023年12月11日月曜日

〈100年前の世界151〉大正12(1923)年 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺(Ⅷ) 佐野眞一「甘粕正彦 乱心の曠野」(新潮社)より 10月8日 第1回軍法会議(青山の第1師団司令部)

 


〈100年前の世界150〉大正12(1923)年 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺(Ⅶ) 佐野眞一「甘粕正彦 乱心の曠野」(新潮社)より 9月25日 遺体引取り 世論の動向(甘粕減刑嘆願、甘粕非難の声) より続く


大正12(1923)年 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺(Ⅷ) 

佐野眞一「甘粕正彦 乱心の曠野」(新潮社)より 

10月8日

第1回軍法会議(青山の第1師団司令部)

午前8時30分、開廷。

被告席に軍服姿の甘粕と、共犯とされた東京憲兵隊本部附曹長・森慶治郎が着席。

法務官のうしろの特別傍聴席には、第1師団長石光真臣中将と幕僚、一般傍聴席には、甘粕兄弟や陸士24期の同期生たちが並ぶ。

判士長岩倉正雄(陸軍歩兵大佐)が最初に甘粕を呼ぶ。

原籍、住所、氏名、年齢、叙勲、賞罰など型通りの人定質問、検察官山田喬三郎(陸軍法務官)による公訴事実の朗読、続いて判士小川關治郎(陸軍法務官)の実質審理に移る。

軍法会議の公判記録は散逸しているが、この裁判を傍聴しその様子を細大漏らさず書き留めた記録『問題の人甘粕正彦』(山根倬三・小西書店、大正13年出版)された記録がある。

この軍法会議ではは、甘粕は、大杉一家虐殺は自分一己の考えから出たことであり、上からの命令は一切なかったという点で首尾一貫している。

しかし、昭和51(1976)年に発見された大杉一家の「死因鑑定書」は、この甘粕の供述をことごとく覆す結果となった。

この軍法会議で最も見るべきは、殉教者意識の虜になったとしか思えない甘粕の”名演技”ぶりである。


■判士(陸軍法務官)小川關治郎に社会主義者に対する一般的感想を尋ねられた甘粕の回答

「思想問題については、以前ちょっと研究したことがあります。この頃は特別研究しておりませんが、今日の思想界がほとんど混乱状態に陥り、刻一刻と危機に瀕していることはいまさら申しあげるまでなきことで、国家のため憂慮にたえません。かかる危機的状況を何とかして一日も早く救い、ひいては社会の改善をはかりたい希望をもっておりました。

特にわが帝国は天祐とでも申しましょうか、西洋各国が五、六百年の間に繰り返し繰り返しやっと文明をかたちづくったのに対し、わずか五、六十年の間に建設することができました。この光輝ある帝国に不純なる思想を芽生えさせようとするのは、天と倶に許さざるところであります。

社会主義の根本は、人間が肉体を離れて霊にならなければできないことですが、よしその根本は間違っていても聞くべきものもあります。しかし、無政府主義にいたっては、国家に対し、国体を蠧毒(とどく)し、大和民族の帰結を害うことの甚だしきものであります。

かかる危険思想は、国家を憂える者が決然と起って排斥すると同時に、建国の大本を無視する獅子身中の虫は、天に代わって制裁を加えなければなりません」

■判士と甘粕の応酬

- 震災後の社会主義者の言動について、何か不穏という確証でも得たのか。

「震災後、放火犯人を逮捕して調べたところ、その背後に社会主義者がいて、朝鮮人と連絡をとり、ことを起こそうとしていることを知りました。伊藤野枝が爆弾を懐に、ひそかに活動しているということも聞きました」


- それらの者に対して、いかなる方法をとろうと思っていたのか。

「震災後、人心は非常に動揺しました。私は万一のことを考えて、寝食を忘れてその警戒にあたりました。それというのも、国家が一部人心の動揺のため、危殆に瀕しはしないかと痛感したからであります。しかるに警視庁は、社会主義者の末端は片っ端から検束しているのに、大杉栄のごとき巨頭はそのまま放任していた。これは非常に遺憾なことだと思いました」


- 大杉栄の行動に関して何か確証でも握ったのか。

「一日以来、野枝と一緒に行動していると聞きました」


- 放火犯人や朝鮮人を使嗾した主義者は誰だということだったか。

「ハッキリとはわかりませんが、大杉もむろんその一人だと思いました。特に大杉は検束されていませんでしたから、かかる運動をしているのは大杉らよりほかにないだろうと思ったのです」


ー 大杉の所在を捜索しようと思ったのはいつ頃か。

「九月上旬のことです」


- 所在を知ってどうしようと思ったか。

「捕らえたら殺してやろうと最初から考えていました」

(満員の傍聴席から驚きの声があがった。)


- いかなる方法で大杉をヤッツケようとしたのか。

「九月十五日の夕方、森曹長を従え私服で淀橋署に行きますと、大杉は子どもを連れて戸山ケ原を散歩していると聞きましたので、戸山ケ原に大杉がいたら、手で絞殺しよう、万一のときは射殺しようと思い、拳銃を持って行く覚悟を決めました。しかし、大杉は自宅にいることがわかり、その日は目的を果たさず、空しく帰りました」


■殺害にいたる経過についての尋問

 ・前日の状況 
「十五日に帰隊するため自動事に乗りこもうとしたとき、淀橋警察署の署員から、明日は大杉を絶対引っ張りだしてやると言われました。大杉を呼び出すには藤田某の名前を使った方がいい、藤田は大杉のフランスへの渡航費を出してやっている、大杉には現内閣の某大臣からも金が出ているとも言っていました」 

 *「藤田某」 
藤田勇。昭和7年の5・15事件、翌年の神兵隊事件、昭和11年の2・26事件などで黒幕といわれた男。昭和5年に桜会を結成して軍事クーデターを企てる急進派軍人の橋本欣五郎や大杉栄ともパイプをもっていた。 のち甘粕は、藤田から政治工作資金の提供を受けていた橋本欣五郎に接触して、満州の謀略工作に加担することになる。 

*「現内閣の某大臣」 
内務大臣後藤新平。大杉の『自我傳』によると、大杉は後藤に金の無心に行った時、大杉が「政府が僕らを困らせるんだから、政府に金を無心するのは当然」と言うと、後藤は「ようごわす。差しあげましょう」と答えたとある。金を無心にきた大杉に気前よく大枚をくれてやった話は、専門家筋の間では当時からよく知られていた。

「それで翌十六日、森曹長、本多上等兵、平井伍長を連れて、大杉の居所に出かけました。むろん大杉を殺すつもりで出かけたのです。淀橋署でも私らの目的はわかっていたようです。しかし大杉は朝出かけたようで、居所にはいませんでした。けれど大杉は近頃では自警団を非常に怖がっているので、夕方には必ず帰ってくるとのことでした」 

(大杉はこの日、鶴見に避難していた弟の勇の震災見舞いをするため、新宿から日比谷行きの乗合自動車に乗り、日比谷で乗り換えてまず品川まで行った。そこから京浜電車で川崎に行き、あとは徒歩で勇の避難先に向かった。そこに預けられていた宗一少年が、東京の火事の焼け跡が見たいというので連れて帰った) 

 - 大杉が帰宅するのをどうやって待っていたのか。 

「淀橋署で大杉の家を張り込んでいるのは困るといわれたものですから、彼の家から二丁ばかり行ったところで待っていました。そこへ井上とかいう尾行巡査がやってきて、大杉が帰ったことを知らせてきました。間もなく、七、八歳の子どもを連れた夫妻が姿を見せましたので、同行を求めたのです」 

 - どういう理由を言って同行を求めたのか。 
「何も理由は申しません。ただ同行してくれと言っただけです」 

 - 野枝と子どもはどういうつもりで同行させたのか。 

「別に大した理由はありません。ただ連れて行った方がよいだろうと思ったからです」 

 - 大杉だけを殺す目的なら、何も野枝や子どもまで同行させなくてもよかったのではないか。 

「ただいま申しあげた通り、全員連れて行った方がよいだろうと思ったからです。もっとも、場合によっては野枝も片づけるかもわからん、という考えはありました。けれど、そうはっきり決めていたわけではありません」

- 最初から殺さぬつもりで同行したものを場合によったら殺す考えだとは,何だかよく意味がわからない。そもそも子どもは誰の子と思っていたのか。 

 「むろん大杉の子だと思っていました」 

 甘粕は最初,淀橋署まで3人を連行し,淀橋署前に停めてあった自動車に乗せて運ぼうと思ったが,女子どもを淀橋署まで歩かせるのはかわいそうなので,野枝と宗一は淀橋署員と連携してそこまで尾行してきた東京憲兵隊上等兵の鴨志田安五郎の自動車に乗せ,大杉は淀橋署に徒歩で連行後,甘粕,森と一緒の車に乗せて大手町の憲兵隊本部に向かった。午後6時半頃のことだった。 

 - 三人を連行した憲兵隊ではいかなる方法で殺そうとしたのか。 

 「憲兵として殺すのではなく,私個人としてヤッツケるつもりでしたから,なるべくわからないようにやろうと思いました。銃器を使えば,銃声でわかってしまうので,手で絞め殺そうと思いました」 

 - 殺害後の覚悟はどうだったか。 

 「他日必ず知れると思っていましたから,当然罪を負う覚悟でした。私は単に大杉一個を殺すだけで足りるとは思っていませんでした。堺利彦や福田狂二らの危険分子は片っ端からヤッツケるつもりでした」


つづく


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