2023年12月4日月曜日

〈100年前の世界144〉大正12(1923)年9月14日~16日 大杉栄・伊藤野枝・甥橘宗一ら虐殺 憲兵大尉甘粕正彦懲役10年、3年で仮出獄

 

大杉栄(中央)と伊藤野枝(左)。子どもは長女・魔子。

(同年7月訪欧から帰国後、東京駅で撮影)

〈100年前の世界143〉大正12(1923)年9月12日~13日 王希天(27)、軍隊に殺害される(政府はこれを隠蔽) ソ連の震災救援船「レーニン」号、横浜に入港しようとするが拒否され帰国 より続く


大正12(1923)年

9月14日

■安成二郎のメモ(安成二郎『無政府地獄ー大杉栄襍記(ざつき)』)

読売新聞社第五部長安成二郎が、震災翌年2月の会合で正力松太郎(当時、警視庁警務部長)が話した内容を書いたもの。正力は、この年12月の虎の門事件で引責辞任して読売新聞社社長に就任した。

安成のメモによれば、9月14日に陸軍が大杉栄と吉野作造と他の2人を殺す、と正力にいってきた。正力は、そんな馬鹿なことがあるかといったが、16日になって、淀橋署から大杉が憲兵隊に連れられて行ったという報告が来たので、殺したな、と思ったが黙っていた。

だが、18日には、大杉夫妻が子供と共に憲兵隊に連れて行かれた、という記事が新聞に出たので、これはいかん、子供も殺したのでほ必ずわかると思い、正力は湯浅総監(湯浅倉平)に話した。湯浅総監は後藤内相(後藤新平)にそれを報告し、後藤にいわれて首相の山本権兵衛にも伝えた。首相が陸相と戒厳司令官を呼んで聞くと、知らないという答えだったので、憲兵隊を捜査することになった、という。子供が一緒でなければ大杉事件はまったく知られずにすみ、吉野作造も一緒にやられたかもしれない。安成メモにはこうしたことが書かれている


・関東大震災のため、松竹蒲田の撮影所員が、京都下加茂に大挙移動。


9月15日

・米南部各州でクー・クラックス・クランの活動が激化。450万人を組織。南部黒人に対するテロは最高潮。オクラホマ州では戒厳令。


9月16日

・内務省、新聞・雑誌などの原稿を漏れなく検閲するよう命令。

大杉栄・伊藤野枝・甥橘宗一ら虐殺。憲兵大尉甘粕正彦懲役10年、3年で仮出獄。

9月16日朝9時過ぎ、野枝は麦わら帽を被り、オペラバッグを手に持ち、大杉は白のスカッとした背広に、中折れ帽を被って家を出た。2人が出かけるのを内田魯庵の家人が裏庭の垣根越しに目にした。

2人は、激震地だった横浜で被災して鶴見に避難していた栄の弟の勇を見舞いに行った。途中で大杉は静岡にいる妹の菊苑ての手紙を投函している。「あやめ〔大杉の末妹〕の一人息子、橘宗一も鶴見にいるので、自分たちの家は大丈夫だったから連れて帰ろう、〔中略〕とにかく心配〔後略〕」などとあった。

2人は弟家族の無事を確かめ、午後2時半過ぎに宗一を連れて馬車と徒歩で淀橋の自宅へ向かった。このとき宗一少年は着るものがなく「女の子の浴衣姿」だったという。

翌17日夜11時過ぎ、安成が魯庵宅に駆け込むようにやって来て、大杉らの行方不明を伝えた。

大杉と野枝と宗一少年は16日夕方5時半頃、野枝が八百屋で梨を買って自宅に帰り着くほんの少し手前で待ち伏せていた東京憲兵隊の甘粕正彦大尉らに検束され、午後7時ごろ大手町の憲兵隊本部に連行された。

大杉は午後8時半頃、野枝と宗一は9時半頃、それぞれ扼殺され、裸にされ、畳表で梱包、構内の古井戸に投げ込まれた。上からは瓦礫が埋められた。計画的、組織的で、残忍な犯行であった。新聞記者の安成が各警察署に訊き回っていたころには、もう凶行は終わっていた。

1976年(53年後)に発見された死因鑑定書によれば、伊藤・大杉ともに肋骨が何本も骨折、死亡前の激しい暴行が発覚(甘粕らは軍法会議法廷で、被告らは被害者が「苦しまずに死んだ」と陳述)。その後の研究によれば、虐殺命令を憲兵隊上層部(憲兵司令官小泉六一)ないし陸軍上層部(戒厳司令官福田雅太郎大将)が出したと推認。甘粕事件の発覚は、橘宗一が米国国籍を持っていたため、アメリカ大使館の抗議を受けて狼狽した政府(首相山本権兵衛)の閣議(19日)で問題になったから。

19日朝、布施辰治、村木源次郎より大杉らの行方不明を聞き警視庁で湯浅倉兵総監を問詰める。24日、公表。

事件が公表されたのは24日、大杉以外の2人の名は伏せられたが、10月8日から始まった第一師団の軍法会議で野枝と宗一少年の名前が明らかにされた。

軍法会議は11月25日まで7回続行され、犯行に関わった5人の軍人に対して12月8日に判決があった。甘粕に懲役10年、東京憲兵隊特高課員の森慶治郎曹長に同3年、他の3人は無罪。軍部の関与を十分に想像させるいくつもの証言があったがず、判決は甘粕らの自己の信念に基づく個人的犯行として処理した。

11月22日の公判で証人調べが終わると、甘粕の弁護人から四谷区民の減刑嘆願の上申書が提出された。その数は5万名と1923年11月28日付『法律新聞』が報じる。当時、四谷区の人口は約7万5千人だった。東京府下だけでも65万とも伝えられる。遺族に対しても、免罪嘆願書を出すべきだという圧力が執拗にあったが、野枝の父の与吉と叔父の代準介がそれを拒否したという。

10年の刑だった甘粕は、3年足らずで千葉刑務所を仮出所する(1926年10月9日)。その後、彼は渡仏し、1929年に渡満、「満州」建国に暗躍、やがて満州映画協会理事長に収まる。

敗戦の1945年8月20日朝、甘粕は理事長室で青酸カリにより自殺する。

東京で火葬された野枝らの遺骨は分骨され、代準介らが4人の遺児(長女魔子(6)、3女エマ(2歳8ヶ月)、4女ルイズ(1歳8ヶ月)、長男ネストル(2ヶ月弱))らとともに今宿まで持ち帰った。遺児らが今宿へ帰着したのは10月5日で、16日午後2時から今宿海岸の松林の中で、3人の葬儀が営まれた。

過児四人は伊藤家の籍に入れられ、ネストルが栄にされたように魔子は真子に、エマは笑子に、ルイズは留意子に改名された。しかし栄は、1歳の誕生日前の1924年8月15日に肺炎で死去。

3人の骨が埋葬された松林の墓原に白木の墓標が建てられたが、何者かによって引き抜かれてしまった。翌年8月に松原に巨大な自然石の墓石が建立されたが、無銘だった。

虐殺から49年になる1972年9月、名古屋市千種区の覚王山日泰寺で、犬を散歩に連れていた女性が偶然、夏草に蔽われた橘宗一の基を見つけ『朝日新聞』の「ひととき」欄に投稿した。

宗一の父・惣三郎が1927年4月12日、我が子の誕生日に建立していた。碑の上部には「宗一(八才)ハ再渡日中東京大震災ノサイ大正十二年(一九二三)九月十六日ノ夜大杉栄野枝卜共ニ犬共ニ虐殺サル」とある。無念さと国家の非道を許さないという遺族の思いの凝縮されたことばである。

翌1973年9月16日、3人の遺骨が葬られている静岡市の沓谷霊園で虐殺から50年の墓前祭が行われ、3年後の76年9月に荒畑寒村の揮毫で墓誌が完成した。ここでは3人が虐殺された日の前後に、市民らによって毎年墓前祭が行なわれている。

(田中伸尚『飾らず、偽らず、欺かず - 管野須賀子と伊藤野枝』岩波書店 より)


つづく



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