2023年12月5日火曜日

〈100年前の世界145〉大正12(1923)年9月16日 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺(Ⅱ) 内田魯庵『最後の大杉』(青空文庫) 「その日の朝刊の第一面の大活字を見た時は何ともいい知れない悸(おのの)きが身体中を走るような心地がした。殊に軍憲から発表された大杉外二名の一人がマダ可憐な小児であると思うと、三族を誅(ちゅう)する時代の軍記物語か小説かでなければ見られない余りの残虐に胸が潰れた。」   

 


〈100年前の世界144〉大正12(1923)年9月14日~16日 大杉栄・伊藤野枝・甥橘宗一ら虐殺 憲兵大尉甘粕正彦懲役10年、3年で仮出獄 より続く

大正12(1923)年

9月16日 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺(Ⅱ)

内田魯庵『最後の大杉』(青空文庫)

(内田魯庵「新編 思い出す人々」岩波文庫 所収)


大杉が初めて魯庵の家を訪れたのは赤旗事件での監房生活から出獄して間もなくだった。その後、魯庵が淀橋へ移転すると、家が近くなったので頻繁に訪れるようになった。二人の話題は、多くは文壇や世間の噂ばなしだった。

その後、百人町を移転してからは家が遠くなったので大杉の足は遠のいた。大杉から神近や野枝との自由恋愛のことを聞かされ、魯庵がそれには同感しなかったのを大杉が気拙(きまず)く思ったという理由もあったようだ。

日蔭茶屋事件の際、見舞の手紙を送ると直ぐ自筆の返事を遣したが、会うことはなかった。しばらくして、大杉と野枝が銀座をブラブラしている処に偶然出会って15分ばかり立話しをした事があったが、それ以来最近の数年間はただ新聞で噂を聞くだけであった。

大杉がフランスから追返され、神戸に着いて出迎えの家族と一緒に一等寝台車で東上した記事が写真入りで新聞を賑にぎわしてから間もなく、突然大杉が家族を連れて訪れて来た。子供(ルイゼ)を抱いて大きなお腹の野枝と新聞の写真で馴染なじみの魔子がついて来た。大杉は、「これが魔子で、これがルイゼで、この外にマダ二人、近日お腹を飛出すのもマダある」といって笑った。

以前から見ると面差が穏やかになって、子供に物をいう時はものやさしく、親子夫婦並んだ処は少しも危険人物らしくも革命家らしくもなかった。「イイお父さんになったネ、」と言うと、大杉は、野枝と顔を見合わしてアハハハと笑った。

一家は、昨日、同じ番地へひっこして来たという

魔子は臆面のない無邪気な子で、来ると早々魯庵の子と一緒に遊び出した。野枝の膝に抱かれたルイゼはまだあんよの出来ない可愛いい子で、何をいっても合点々々ばかりしていた。アッチもコッチもとお菓子を慾張って喰べこぼすのを野枝が一々拾って世話する処はやはり世間並なみのお母さんであった。

大杉が児供を見る眼はイツモ柔和な微笑を帯びて、一見して誰にでも児煩悩であるのがうなずかれた。

野枝は児供を伴れて先きへ帰ったが、大杉は久しぶりでユックリと腰を落付けた。ありあわせの昼食を一緒に済まして3時頃まで話し込んだ。

仏蘭西人は一般に日本人よりも無知で、仏蘭西の巡査が人格も知識も日本の巡査よりも低劣で、言語からして野卑で、教養ある仏語が全く通じない事や、仏蘭西の監獄が不整頓で不潔で、囚人の食事が粗悪で分量が少く、どの点から見ても日本の監獄以下であるという事など、仏蘭西をくさした話ばかりした。

「ただ仏蘭西の監獄で便利なのは差入れの自由です。日本同様監獄の前に差入物屋があって、銭さえ出せばどんなウマイものでも、酒でも煙草でも買う事が出来ます。僕は余り酒を喫らんが、書物は格別持たず、面会に来るものはないし、退屈で堪たまらんから白葡萄酒を買ってゴロゴロしながらチビチビ飲む。三日で一本明けたが、終日陶然としてイイ心持でした。銭さえあれば仏蘭西の監獄はさほど苦しくない。当てがいの食物が足りなくても不味まずくても差入物屋から取りさえすれば相当な贅沢が出来ます。気楽に読書でもしていようてには仏蘭西の監獄は贅沢が出来て気が散らんから持って来いですよ。」そんな話をして半日を何年ぶりで語り過ごした。

ツイ眼と鼻との間におりながらそれぎり大杉は来もしなかったが、始終乳母車へ児供を乗せて近所を運動していたから、よく表で出会っては十分十五分の立話しをした。魔子は毎日遊びに来たからうちじゅうが馴染になり、姿を見せない日は殆ほとんどなかったから、大杉や野枝とは余り顔を合わせないでも一家の親しみは前よりは深かった。

9月1日の地震のあと、近所隣りと一つにかたまって門外で避難していると、大杉はルイゼを抱いて魔子を伴れてやって来た。

壁が少し落ちた程度で、大した被害はないとのことで、改造社とアルスから近刊する著書の校正や書足かきたしの原稿に忙殺されていたそうだ。

9月の上半は恐怖時代だった。流言蜚語は間断なく飛んで物情恟々、何をするにも落付かれないで仕事が手に付かなかった。大杉も引籠って落付いて仕事をしていられないと見えて、日に何度となく乳母車を押しては近所を運動していた。よく裏木戸からヒョッコリ児供を抱いてノッソリ入って来ては縁端へ腰を掛けて話し込んだ。

大杉は、実際毎晩ステッキを持って、自宅の曲り角へ夜警に出ていた。

鮮人襲来の流言蜚語が八方に飛ぶと共に、鮮人の背後に社会主義者があるという声がイツとなく高くなって、鮮人狩が主義者狩となり、主義者の身辺が段々危うくなった。この騒ぎを余所よそに大杉は相変らず従容(しょうよう)として児供の乳母車を推して運動していた。

「用心しなけりゃイカンぜ」と或時邂逅(であ)った時にいうと、

「用心したって仕方がない。捕(つか)まる時は捕まる」と笑っていた。後に聞くと、大杉に注意したものは何人もあったが、事実この頃の大杉は社会運動からは全く離れて子守ばかりしていたから、危険が身に迫ってるとは夢にも思ってないらしかった。

 或る夕方、夜警に出ていると、警官が四、五人足早に通り過ぎながら、今二人伴(つれ)て来るから殴(ぶ)っちゃア不可(いかん)ぞと呼ばわった。その頃の自警団は気が立っていて、警吏が検挙して来たものにさえ暴行を加えて憚(はば)からなかったからだ。

 誰か挙げられるナ、主義者だろうと、誰いうとなく予覚して胸を躍らしていると、やがて七、八人の警吏が各々めいめい弓張(ゆみはり)を照らしつつ中背(ちゅうぜい)の浴衣掛けの尻端折(しりはしおり)の男と、浴衣に引掛(ひっかけ)帯の女の前後左右を囲んで行く跡から四、五十人の自警団が各々提灯(ちょうちん)を持ってゾロゾロ従ついて行った。

警吏と自警団に護送されて行く男女は、後で聞くと、直ぐ近所の近頃検挙された或る社会主義者の家の留守番をしている某雑誌記者で、女は偶然居合わした主義にも何にも関係のないものだった。男は沖縄人で相貌が内地人らしくないので以前から狙われていたという。

 その頃から大杉に対する界隈の物騒な噂が度々耳に入った。大杉は外国の無政府党から資金を持って来て革命を起そうとしているとか、大杉は毎晩子分を十五、六人も集めて隠謀を密議しているとか、「あんな危険人物が町内にいては安心が出来ないからヤッつけてやれ」とか、或る近所の自警団では大杉を目茶苦茶に殴ってやれという密々の相談があるとか、嘘か実(まこと)か知らぬがそういう不穏の沙汰を度々耳にした。随分相当分別のある人までがそういう虚聞を信じて、私と大杉とが交際あるのを知らないで、「アナタのお宅の裏には大変な危険人物がいて、毎晩多勢おおぜい集って隠謀を企たくらんでるそうです、」と告げたものもあった。同じ近所の或る口利きの男は、これも大杉と私と友人関係であるのを知らないで、「柏木(かしわぎ)には危険人物がある、大杉一味の主義者を往来へ列ならべて置いて、片端からピストルでストンストン打ったら小気味が宜よかろう」とパルチザン然たる気焔を吐いてイイ気持になってるものもあった。

 こういう危険な空気が一部に醸されてるのを知ってるのか知らないのか、大杉は一向平気で相変らず毎日乳母車を押していた。近所に住む大杉の或る友達がそれとなく警戒したが、迫害に馴なれてる大杉は平気な顔をして笑っていたそうだ。ただ笑ってるばかりならイイが、「俺を捕まえようてには一師団の兵が要る」ナドト大言していた。大杉にはこういう児供げた見得を切って空言を吐く癖があったので、この見得を切るのが大杉を花やかな役者にもしたが、同時に奇禍を買う原因の一つともなった。"

 九月の十六日の朝九時頃、大杉は野枝さんと二人連れで、二人とも洋装で出掛けるのを家人は裏庭の垣根越しにチラと見た。・・・

 その日の午後魔子は来て「パパとママは鶴見つるみの叔父おじさん許とこへ行ったの。今夜はお泊りかも知れないのよ」といった。

(略)

 二、三日経つと大杉が検挙されたという風説が立った。その前にも地方から来た或る男が、大杉は拘留されて留置檻(かん)へ入れられたまま火事で焼死(やけし)んだそうだネというから、大杉は直ぐこの近所にいて、毎日乳母車を押して運動しているといって無根の風説を笑った事があるので、復(ま)た例の風説かと一笑に附していた。

 するとその翌る晩、十一時過ぎに安成が来て、「大杉が行方不明ふめいとなりました、」と痛ひどく昂奮して、「十六日鶴見へ行ったぎりで帰って来ません。家でも心配して八方捜しているがサッパリ踪跡ゆくえが解りません。検挙されたなら検挙されたでドコかの警察にいそうなもんですが、ドコの警察にもいません。警察では検挙したものを検挙しないと秘かくす事は絶対にないので、全く警察にはいないようです、」と満面不安の色を湛たたえて昂奮して話した。

(略)

 安成は、その日あたかも戒厳軍司令官を初め二、三の陸軍の重職が交迭し、一大尉一特務曹長が軍法会議に廻されたという明日発表される軍憲の移動を話して、こういう重職の交迭は決して尋常事(ただごと)ではない。よほどの重大な原因がなければならない。当局者の言明に由れば数日前に突発した事件に関聯するというが、その突発事故というのは何だか、マダ発表を許されないと堅く緘黙(かんもく)している。が、ウッカリ当局者が滑すべらした口吻くちぶりに由ると不法殺人であって、殺されたものは支那人や朝鮮人でないのは明言するというのだ。

「どうもそれが大杉らしいのです、」と安成は痛く昂奮していた。

(略)

 が、その翌る日も、そのまた翌る日も魔子は相変らず遊びに来た。・・・・・或時魔子がイツモの通り遊びに来ていると家から迎えが来て帰った。暫らくすると復(ま)た来て、新聞社の人が来て写真を撮ったのよといった。新聞社が児供の写真を撮りに来たというは尋常ではないので、恐ろしい悲痛な現実に面する時が刻々迫って来たような感じがした。

 その翌日である、大杉の非業の最期が公表されたのは。恐ろしい予感が刻々迫って来て、こういう悲惨を聞く日があるのを予期しない事はなかったが、その日の朝刊の第一面の大活字を見た時は何ともいい知れない悸(おのの)きが身体中を走るような心地がした。殊に軍憲から発表された大杉外二名の一人がマダ可憐な小児であると思うと、三族を誅(ちゅう)する時代の軍記物語か小説かでなければ見られない余りの残虐に胸が潰れた。

 朝の食卓は大杉夫婦を知る家族の沈痛な沈黙の中に終った。今日も魔子は遊びに来るかも知れないが、「魔子ちゃんが来ても魔子ちゃんのパパさんの咄はなしをしてはイケナイよ、」と小さい児供を戒めた。何にも解らない小さい児供たちも何事か恐ろしい事があったのだという顔をして、黙って点頭うなずいていた。

 暫らくすると魔子は果して平生いつもの通り裏口から入って来た。家人を見ると直ぐ「パパもママも死んじゃったの。伯父さんとお祖父(じい)さんがパパとママのお迎えに行ったから今日は自動車で帰って来るの、」といった。お祖父さんというのは東京より地方へ先きに広がった大杉の変事を遠い郷里の九州で聞いて倉皇(そうこう)上京した野枝さんの伯父さんである。

(略)

 私は児供たちに「魔子ちゃんのお父さんの咄をしてはイケナイよ、」と固く封じて不便な魔子の小さな心を少しでも傷(いた)めまいとしたが、怜悧(れいり)な魔子は何も彼も承知していた。・・・・・

 その日は大杉の遺骸(いがい)が帰るというので、留守番だけの大杉の家へ二度も三度も容子を聴きに行った。この晩は大杉に親しいものだけが遺骸の前で通夜つやするという予定だったので、午後からは待受けしてボツボツ集まるものがあった。自働車の音の響く度毎(たんび)に耳を傾けたが、イツまで待っても帰って来なかった。その中に遺骸は直ちに自宅へ引取るはずだったが、余り腐爛しているので余儀なく直ちに火葬場へ送棺したと知らせて来た。

 その夕方、遺骸を引取って火葬場まで送った近親同志が帰って来た。待受けた我々は官憲の口から語られたという大杉の殺害された顛末や、引渡された遺骸が腐爛して臭気が鼻を衝ついて近寄る事さえ出来なかったという咄を聞いた。大杉の思想の共鳴者でなくともその悲惨な運命には同情せずにはいられなかった。

 その翌々日の朝、大杉外二名の遺骨は小さな箱へ入れられて自宅に迎えられた。大杉は無宗教であったが、遺骨の箱の前に三人の写真を建て、祭壇を設けて好きな葡萄酒と果物を供えた。その晩は近親と同志とホンの少数の友人だけが祭壇の前に団居(まどい)して、生前を追懐しつつ香を手向たむけて形ばかりの告別式を営んだ。門前及び附近の要所々々は物々しく警官が見張って出入するものに一々眼を光らした。折悪おりあしく震災後の交通がマダ常態に復さないので、電車の通ずる宵よいの中うちに散会したが、罪の道伴みちづれとなった不運の宗一の可憐な写真や薄命の遺子の無邪気に遊び戯れるのを見ては誰しも涙ぐまずにはいられなかった。大杉の一生を花やかにした野枝さんとの恋愛の犠牲となった先妻の堀保子も、イヤで別れたのでない大杉に最後の訣別わかれを告げに来て慎ましやかに控えていたが、恋と生活とに痩(やつ)れた姿は淋しかった。(大杉と別れた後の堀保子は大杉は必ず再び自分の懐(ふところ)に戻ってくるものと固く確信して孤独の清い生涯を守っていたが、大杉が果敢(はか)なくなった後はその希望も絶えて、同棲時代からの宿痾が俄に重かさなって、去年の春終(つい)に大杉の跡を追って易簀(えきさく)した。大杉の生涯は革命家の生血(なまち)の滴したたる戦闘であったが、同時に二人の女に縺(もつ)れ合う恋の三みつ巴どもえの一代記でもあった。)

 告別式の済んだ跡の大杉の家は淋しかった。遺子を中心として野枝さんの伯父さん老夫妻と大杉の実弟と、大杉の異体同心たる数四の同志に守られていた。刑事の眼は門前に光って看慣(みなれ)ぬものは一々誰何(すいか)したから、誰もイイ気持がしないで尋ねるものが余りなかった。いよいよ明日は一と先ず郷里へ引上げるというその前夜、長い汽車の旅の児供の眠気ざましにもと些(いささ)かの餞(はなむけ)を持って私の妻が玄関まで尋ねた時も誰何され、何の用事かと訊問された。

 十月二日だった。五人の遺子は野枝の伯父さん老夫婦に伴われてこの恨の多い父の家を跡に郷里へと旅立った。親しい友や同志に送られて行ったが、魔子は先きへ立って元気よく「さよなら、さよなら!」といって駈かけて行った。パパもママも煙のように消えてしまった悲かなしみをも知らぬ顔の無邪気の後ろ姿が涙ぐましかった。

(終)


9月20日

「時事新報」は大杉が軍によって惨殺されたという事実をスクープして号外を出したが、すぐに発禁処分となったため、多くの人が大杉殺害を知るには至らなかった。

9月24日

事件の概要が軍の発表によってほぼ明らかになった。

「大杉栄氏外二名 甘粕大尉に殺さる 十六日夜某所に於て 怪事件昨日発表さる」という見出しを掲げた記事は、こう伝えている。


福田関東戒厳司令官を交(ママ)迭せしめ、小泉憲兵隊司令官及び小山東京憲兵隊長の停職を命ぜられたる、甘粕憲兵大尉に関する奇怪な事件は、昨日第一師団軍法会議に於て、予審決定と同時に、左の如く発表された。

陸軍憲兵大尉甘粕正彦に左の犯罪あることを聞知し捜査、予審を終り、本日公訴を提起したり。甘粕憲兵大尉は本月十六日夜、大杉栄外二名の者を某所に同行し之を死に致したり。

右犯行の動機は、甘粕大尉が平素より社会主義者の行動を国家に有害なりと思惟しありたる折柄、今回の大震災に際し無政府主義者の巨頭たる大杉栄等が、震災後秩序未だ整はざるに乗じ如何なる不逞行為に出づるやも計り難きを憂ひ、自ら国家の蠹毒(とどく)を艾除(がいじよ)せんとしたるに在るものゝ如し(後略)

(「時事新報」大正十二年九月二十五日)


つづく


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