2023年12月7日木曜日

〈100年前の世界147〉大正12(1923)年9月16日 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺(Ⅳ) 佐野眞一「甘粕正彦 乱心の曠野」(新潮社)より 陸軍法務官山田喬三郎による検察官調書 甘粕の供述(1)   

 


〈100年前の世界145〉大正12(1923)年9月16日 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺(Ⅱ) 内田魯庵『最後の大杉』(青空文庫) 「その日の朝刊の第一面の大活字を見た時は何ともいい知れない悸(おのの)きが身体中を走るような心地がした。殊に軍憲から発表された大杉外二名の一人がマダ可憐な小児であると思うと、三族を誅(ちゅう)する時代の軍記物語か小説かでなければ見られない余りの残虐に胸が潰れた。」 より続く


大正12(1923)年9月16日 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺(Ⅳ) 

佐野眞一「甘粕正彦 乱心の曠野」(新潮社)より


9月19日

検察官取り調べ

(甘粕の態度ー「名演技」(佐野眞一)はのちの軍法会議と同じ)

陸軍法務官山田喬三郎による検察官調書

〈・被告人 陸軍憲兵大尉 甘粕正彦(当年三十三歳 本籍 山形県米沢市門東町上ノ町六九五番地 住所 東京府豊多摩郡渋谷町憲兵分隊長官舎)

・罪名 殺人

・起訴理由 被告人は平素社会主義者の主張に嫌厭たらざるものあり。就中大杉栄は無政府主義者の巨頭なるを以て震災の為め混乱せる場合に軍隊撤退後如何なる不逞行為に出つるやも知れざれば、此際に於て殺害するを国家の為め有利なりと思惟し、麹町憲兵分隊長を兼務せるを幸として其居所を内偵し居りたる所、大正十二年九月十五日府下柏木に居住せること判明したるに依り、翌十六日、同地より大杉栄、伊藤野枝、及当年七才位の男児一名を麹町憲兵分隊に同行し、同日午後八時三十分頃より同九時三十分頃迄での間に同分隊構内建物空室に於て右栄、野枝及男児を順次に絞殺したるものなり。

右は予審に附するを相当なりと思料候也〉

甘粕の供述(22項目)

1.私は本年八月、陸軍の人事大異動以来、渋谷憲兵分隊に勤務しておりましたが、九月一日、同分隊の仕事に携わっているとき震災が起こり、同日から麹町憲兵分隊長として昨日十八日まで勤務しておりました。

(事実は、甘粕が千葉県市川の憲兵分隊長から渋谷憲兵分隊長に栄転したのは大正11年1月。翌大正12年8月6日の陸軍大異動で渋谷憲兵分隊長の身分のまま麹町憲兵分隊長代理との兼務を命じられ、9月1日に正式に渋谷憲兵分隊長兼麹町憲兵分隊長となった)


2.震災後、警視庁始め各警察署に於いて社会主義者の検束につとめており、麹町憲兵分隊に於いても検束に従事していました。しかし、主義者の巨頭の大杉栄は警視庁管内でも検束を受けていません。軍隊の警備中は主義者は何らの行動も起こしませんが、軍隊の撤退後はいかなる行動を起こすかわかりません。とりわけ、大杉栄を検束しないのは遺憾に思い、今月十日頃より捜索をしておりました。しかし、大杉は淀橋方面にいるというだけで、住所をつきとめることができずにいました。

十五日になって、淀橋警察署の特別高等係が案内してくれて、柏木三百八十何番地かに伊藤野枝と一緒に暮らしていることがわかりました。

(大杉夫婦が住んでいたのは柏木三七一番地。

ここでは、警察が大杉のアジトを突きとめる手引きをしていたことが注目される。大杉一家殺害には警察が関与していたのか、軍の単独犯行だったのか。この問題は軍法会議でも取りあげられた。真相究明までにはいたらなかったが、あとあとまで尾を引いた。そもそも大杉事件が露呈するきっかけは、軍と警察の反目にあった。そしてその背景には、内務省と陸軍省のドロドロした暗闘劇が絡んでいた。)

3.淀橋署の特別高等係に大杉の居所を案内してもらったのは、麹町憲兵分隊と同じ建物にある東京憲兵隊本部附憲兵曹長の森慶治郎が、大杉栄の居所を捜索するため十五日の午前中に淀橋署に行き、松元という同署の特別係長から大杉についてこんな相談をされたからです。

その相談というのは、森曹長の話では、淀橋署では大杉の居所はわかっているが、警察ではヤッツケることができないので、憲兵の方でヤッツケてくれないかという話だったそうです。

淀橋署の署長も公然とは言えないが、ヤッツケてもらいたい意思であると話していたとのことでした。

帰隊した森曹長からそれを聞いた私は、森曹長と鴨志田安五郎、本多重雄の両憲兵上等兵を連れて麹町憲兵分隊を出て、午後六時頃、淀橋署に行きました。そして、私と森曹長が淀橋署の案内で大杉栄の家に行きました。いま申し上げたヤッツケてくれというのは、殺してくれという意味です。

(鴨志田、本多の両憲兵上等兵は、森曹長と同じ東京憲兵隊本部に所属し、後述する東京憲兵隊本部の平井利一伍長と前後して第1回軍法会議の終了後自首したため、甘粕、森とともに大杉事件の被告となった。)

4.私と森曹長は淀橋署の案内で大杉栄の居所付近まで行きましたが、そのときは大杉栄を尾行している淀橋署の巡査が見当たらなかったため、大杉栄の所在を確認することはできませんでした。その日は、鴨志田上等兵をその場に残して帰りました。分隊に帰ると、大杉の居所まで案内してくれた淀橋署の者から、電報で大杉を浦和あたりまで連れだし、ヤッツケたらどうかと言ってきましたが、それは難しかろうと思ってやめ、翌十六日あらためて大杉栄の居所に行く約束をしました。


5.翌日は午後二時半頃、森曹長、本多上等兵、平井伍長と一緒に淀橋署に行きました。昨日案内してくれた者と私服の巡査が、私らを大杉の居所まで連れて行ってくれましたが、大杉は不在でした。隣の酒屋で聞くと、南の方に行ったとのことなので、大杉の居所から約二丁離れた二つの街道に手分けして張り込んでおりました。

淀橋署の者に調べてもらうと、大杉は鶴見方面に出かけ、午後五時半頃には帰宅するはずだとのことでした。また、淀橋署の話で、大杉栄が白の背広を着用して中折帽をかぶり、伊藤野枝も洋装だということがわかりました。


6.張り込んでいたところ、午後五時半頃、淀橋署の方面から大杉栄、伊藤野枝が七、八歳の男児を連れて帰ってきました。野枝は私が張り込んでいた家の前の果物屋に入り、梨を買っていました。大杉と子どもは店の外で待っていました。

野枝が買い物を終わって店の外に出てきたとき、森曹長が憲兵隊に同行せよといいました。大杉は一度帰宅させてくれといいましたが、私と森曹長がすぐに来てくれといって、淀橋署まで連行し、同署から自動車に乗せ、三人とも麹町憲兵分隊に連れて帰りました。午後六時半頃のことでした。

(この男児は、大杉の妹あやめの長男の橘宗一。この日、大杉と野枝は、鶴見に避難している大杉の弟の勇のところに震災見舞いに行った。そこに預けられていたのが宗一で、宗一は東京の火事の焼け跡が見たいというので、一緒に連れて帰宅した。)


つづく

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