2023年12月10日日曜日

〈100年前の世界150〉大正12(1923)年 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺(Ⅶ) 佐野眞一「甘粕正彦 乱心の曠野」(新潮社)より 9月25日 遺体引取り 世論の動向(甘粕減刑嘆願、甘粕非難の声)   

 


〈100年前の世界149〉大正12(1923)年 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺(Ⅵ) 佐野眞一「甘粕正彦 乱心の曠野」(新潮社)より 9月19日~24日 検察官取り調べ~虐殺事件の概要公表 より続く

大正12(1923)年 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺(Ⅶ) 

佐野眞一「甘粕正彦 乱心の曠野」(新潮社)より

9月25日

大杉らの遺体引取り

この日も、いつものように大杉の近くに住む内田魯庵の家に大杉と野枝の間にできた最初の子、魔子が遊びに来た。魯庵は自分の子どもたちに「魔子ちゃんが来ても魔子ちゃんのパパさんのことをいってはいけないよ」と注意していたが、魔子の方から「パパもママも死んじゃったの。叔父さんとお祖父さんがパパとママのお迎えに行ったから今日は自動車で帰ってくるの」と無邪気にいった。魯庵はそのけなげさに不憫を感じ胸をしめつけられた。


3人の遺体は犯行が露見してから、20日、憲兵司令部(麹町区大手町1丁目1番地、現・千代田区丸の内1丁目1番地)裏手の井戸から引上げられる。三宅坂の陸軍病院に運ばれて、20日午後3時30分~21日午前11時26分、解剖が行われた。

25日の遺体引取りの様子は、時事新報社会部記者吉井顥存が「大杉殺し事件の曝露されるまで」(「婦人公論」大正12年11・12月合併号)のなかに書いている。


吉井は、野枝の叔父代準介や大杉の友人の安成二郎、村木源次郎、弁護士の山崎今朝弥らと、遺体が安置されている三宅坂の陸軍衛戍病院に行った。

代準介が村木源次郎らに語りかけた。

「死体はもう死後十何日かたって臭気が鼻につき、ほとんど男女の区別さえつかないほど腐敗しています。おまけに解剖したまま洗いもしなかったとみえ、防腐用の石灰が血にまみれて青黒くにじんでいました。まったくお話のほかです」


〈間もなく星光章を染出した陸軍用の幌の貨物自動車が何処からともなく差廻された。三個の棺は掛引のない貨物同様の扱ひを受けて、そのトラックに積上げられた。白布を蔽うたはよいが、その上に三つの位牌を立て並べられた光景は寂しかつた。同乗者は、村木、安成の両氏。他の人々はそこから柏木に引揚げることになった。〉


結局、この日は火葬ができず(地震により火葬能力が低く、一方で火葬要請が多いため)、9月27日荼毘に付し、28日通夜となる。(判決後)葬儀は12月16日。

●甘粕に対する減刑嘆願運動

早稲田の右翼学生グループの縦横倶楽部や各地の在郷軍人会を中心に全国に広がり、その署名請願者は65万人に達する。


●軍法会議が開かれ(10月8日~)凄惨な犯行が国民の目にさらけ出されるに従って、ジャーナリズム界では、大杉を悼む一方、甘粕を非難する声が高まる

雑誌「改造」(大正12年11月号)は特集号「大杉栄追想」、「婦人公論」(同年11月・12月合併号)は特集記事「『甘粕と云ふ人間』批判」を組んで、甘粕に非難の集中砲火を浴びせる。


三宅雪嶺「火事場人殺し」

甘粕が職を辞し、一私人として大杉を殺したならば、己の力の及ぶ限り国家の為めに尽さうとしたものと云ひ得ぬではない。憲兵大尉の職権を以て法律に依らず逮捕して極刑に処するに至つては、単に職権を濫用するのみでなく、憲兵の信用を損じ、併せて広く軍隊に及ぶを遺憾とせねばならぬ。

甘粕は初めから一身を投げ出して居るかどうか、独断専行した処、責任を負うてゐるにしても、死骸を知れぬやうに隠さうとしたのは何の為めか。知れなければ其のまゝ問題にならぬとしたのでないか。子供を殺したのも世間に漏れるのを怖れたのでないか。

その為す処、只管(ひたすら)秘密を保たうとするのであって、秘密結社の陰険手段の最も著しいものに属せぬか。フリーメーゾンに有害の人を Cause to disappear せしむるといふ文句がある。即ち或る手段で行方不明にする事を意味する。

甘粕の行為は、憲兵大尉として、秘密結社の事を敢てするに外ならぬ


宗教家の高島米峰は、三宅以上に手厳しく甘粕を断罪。

甘粕大尉の行為は明に、国家の大権を干犯し、陸軍の重法を無視したもので、無政府主義を恐れて居た甘粕大尉自身が、却て無政府主義を実行した事になるのである


つづく

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