2023年12月8日金曜日

〈100年前の世界148〉大正12(1923)年9月16日 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺(Ⅴ) 佐野眞一「甘粕正彦 乱心の曠野」(新潮社)より 陸軍法務官山田喬三郎による検察官調書 甘粕の供述(2終)

 

遺体が見つかった古井戸。犯行を隠すため埋められている

〈100年前の世界147〉大正12(1923)年9月16日 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺(Ⅳ) 佐野眞一「甘粕正彦 乱心の曠野」(新潮社)より 陸軍法務官山田喬三郎による検察官調書 甘粕の供述(1) より続く


大正12(1923)年9月16日 

大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺(Ⅴ) 

佐野眞一「甘粕正彦 乱心の曠野」(新潮社)より 

陸軍法務官山田喬三郎による検察官調書 甘粕の供述(2終)


7.7番目の供述は、大杉、野枝の本人確認に関するもので、省略。

8.麹町憲兵分隊に連れて帰り、使用していなかった階上の東京憲兵隊本部隊長室に三人を入れて夕食をとらせました。そして午後八時頃、やはり使っていなかった憲兵司令部の応接室に、森曹長が大杉栄だけを連れて行きました。その部屋で森曹長が大杉を取り調べているとき、私が大杉の腰かけている後方から部屋に入り、すぐに右手腕を大杉の咽喉にあて、左手首を右手掌に握らせて後ろに引き倒しました。

大杉は椅子ごと後方に倒れましたので、右膝頭を大杉の背骨にあて、柔道の絞め手で絞殺いたしました。大杉は両手をあげて非常に苦しみ、約十分間くらいで絶命いたしました。そのあと、携えていた細引きを首に巻いてその場に倒しておきました。大杉は如何なるわけか、絞殺するとき、少しも声をあげませんでした。


9.森曹長には同人が調べているときに私が絞殺するということを示してありました。森曹長は、私が絞殺をしはじめるときにはボンヤリして椅子に腰かけていましたが、ほとんど絶命するようになって足をバタバタバタバタいわせていましたので、私が命じてその足を捕えさせたと思います。


10.それから午後九時十五分頃、隊長室に行きますと、伊藤野枝が机に右肘を乗せ、入口の方を背にして椅子に腰かけておりました。私は室内を歩きながら、戒厳令などという馬鹿なことをやったと思っているだろう、と聞いたところ、笑って答えませんでした。兵隊などというものは馬鹿に見えるだろう、と重ねて尋ねますと、この頃は兵隊さんでなければならぬようにいうではありませんか、という答えが返ってきました。

そこで私は、自分らは兵隊で警察官だから、君たちから見れば一番イヤなものだろう、君たちは混乱がさらに続くことを望んでいるのだろう、と尋ねました。すると彼女は、あなたたちとは考え方が違うから仕方がありませんね、と笑いながら答えました。

それを聞いて私は、どうせ君はこんな状況を原稿の材料にするのだろうというと、もう本屋から二、三注文がきている、と笑いながら答えました。そんな会話をしているうち、私は彼女の右横に廻り、大杉に対して行ったのと同じ方法で絞殺いたしました。

伊藤野枝の場合、位置が悪かったため大杉より一層困難で、野枝は二、三回ウーウーという声を出し、私の左手首のところを掻きむしりましたが、同人も約十分くらいで絶命しました。そして携えていた細引きを首に巻き、その場に倒しておきました。


11.私が伊藤野枝と会話しているとき森曹長も部屋に来ており、一、二伊藤野枝と会話していたように記憶しています。私が伊藤野枝を絞殺したときにも森曹長は傍らにいましたが、何も手伝いはさせませんでした。


12.子どもは淀橋警察署から自動車で麹町憲兵分隊に来る途中から、私になつき、分隊に来てからも、付きまとっていました。分隊で誰か引き取って養育してやる者はいないか、と冗談のように言ったほどです。子どもは伊藤野枝を絞殺する前に私のところに来ましたから、隊長室の隣の部屋に入れて戸を閉めておきました。

子どもは隣室で騒いでおりました。私は伊藤野枝を絞殺すると、すぐ隣室に行き、手で咽喉をしめ、その後細引きを首に巻きつけておきました。子どもは絞殺するとき声をあげませんでした。

(この供述には、伊藤野枝との会話のようなリアリティーがほとんど感じられない。宗一の殺害に関しては軍法会議でも大きな争点になった。)


13.大杉栄、伊藤野枝を私が絞殺したときには森曹長が傍らにおり、大杉のときは私の命令で一時足を捕まえさせましたが、部屋には森曹長以外には誰もおりませんでした。


14.大杉栄、伊藤野枝及び子どもの三死体は、午後十時半頃、森曹長、鴨志田、本多、平井の三上等兵に手伝わせて、憲兵隊の火薬庫のそばにある井戸の中に菰に包み、麻縄で縛って投げ込みました。

私は死体を外に運び、わからぬように処置しようと思いましたが、森曹長以下が死体を運び出すことを嫌っていたのと、後日発覚のおそれがあると思い、構内の井戸に投入することにしたのです。

15.死休を投げ込んだ古井戸は全然使用したことがないもので、震災で倒壊した火薬庫の煉瓦で蓋がされていましたので、それを取り除いて投入しました。その上から煉瓦を多数投入して埋めました。翌日人夫が来ていましたので、その人夫に命じて、馬糞や塵芥を投げ入れて井戸を完全に埋めてしまいました。


16.三つの死体とも裸で菰にくるみました。これは、最初外に運び出そうと思っていたからです。


17.三名がそれぞれ身につけていたオペラバッグや帽子、靴下、下駄などは、翌十七日の夕方、築地方面に自動車で巡視に行った際、逓信省の焼け跡の石炭の燃えているなかに投入して焼却しました。


18.大杉栄の捜査検束は憲兵隊長にもまったく報告せず、絞殺することも私一己の考えでやりました。


20.大杉栄を殺害することは、淀橋署が大杉の居所案内に協力してくれたことから考えて、同署も内々で同意しているものだと思っておりました。

しかし、大杉らを殺害した翌日の十七日、森曹長が大杉の捜査協力のお礼を兼ねて淀橋署に行き、大杉らは昨夜帰宅させたのでもはや尾行の必要はないだろうといったところ、同署では大杉の件についてはまだ警視庁に報告していない、二、三日したら行方不明として報告するつもりだ、と言ったとのことでした。

また同日、大杉の件につき隊長の命令で淀橋署に行った本部附の杉田中尉の話によれば、同人が大杉栄方付近を聞き回ったところ、淀橋署は巡査を派遣して大杉栄方に異常はなかったかと隣家に問い合わせていたそうですから、あるいは大杉らの検束について同署は全然関係がないように装ったものかも知れません。


21.大杉らを検束した後、淀橋署で私らの行動を内偵していたかどうかはわかりませんが、大杉らの検束及び殺害について最初に言い出したのは淀橋署だったと思います。なぜなら、森曹長が最初に淀橋署に立ち寄った際、名刺を差し出し、同署ではそれを警視庁に報告したようだからです。私は最初から氏名を告げませんでしたので、警視庁の方でも私がやったことは知らなかったようです。

(淀橋署は憲兵隊によって大杉らが検束されたことを知りながら、偽装工作までやってロをぬぐったらしい。淀橋署からその報告を受けた警視庁でも責任が及ぶことを恐れてそれを握りつぶしたらしい。甘粕はここで、そう疑っている。

ここでも警察の関与問題がむしかえされ、軍と警察の間に暗闘があったことがほのめかされている。

しかし、甘粕は最後に「これはあくまで私一己の考えでやったことであります」と、もう一度述べている。)


22.私が大杉栄を殺害しょうと思ったのは、憲兵分隊長としての職権でやろうとしたのではなく、一個人として国家のため殺害する必要があると信じたからであります。ゆえにその殺害は、私自身が責任を受けるべきものと覚悟いたしております。



つづく


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