1902(明治35)年
1月11日
啄木(16)、「麦羊子」の名で「『草わかば』を評す」(「岩手日報」11~12日)。
1月13日
独・清国、山東五処鉱務章程草約成立。
1月13日
清国、白蓮・八卦などの邪教厳禁布告。
1月14日
子規、肉体の苦痛いよいよつのる。
「強いものにかえてもらったばかりの麻痺剤(モルヒネ)が効かなくなった。痛みに耐えかねた子規は、「馬鹿野郎」「糞野郎」「コン畜生」などと、誰にいうでもない呪阻の語を発しつづけた。」(関川夏央、前掲書)
『子規全集』第8巻にある漢詩で、年代順に配された一番最後の作品。題が無く編者が「無題」とし、「病中子規」の署名がある。『子規遺墨集』に収められたもので、「明治三十四年、叫喚の間にできたもの」という説明があるが、脚注では、「アルス版全集・改造社版全集の漢詩の部の編輯後記では明治三十五年の偈とする」とある、という。諸説ある中で、明治35年1月14日頃の作、と考えられている。この作品は、次のようなものである。
馬鹿野郎糞野郎 馬鹿野郎 糞野郎
一棒打尽金剛王 一棒 打ち尽くす 金剛王
再過五台山下路 再び過ぐ 五台山下の路
野草花開風自涼 野草 花は開き 風自から涼し
「馬鹿野郎、糞野郎」
と叫んで、一本の棒で金剛王を打ちのめす。
また五台山の麓の道を歩くと、
野には草が茂り花が咲いて、風が涼しく吹いている。
1月15日
文部省、実業補習学校規程に関する件交付。実業教科を主とし、普通教育の補習を従とする。
1月15日
クウェート亡命のサウード家アブド・アル・アジズ(イブン・サウード)、ラシド家の支配からリャド急襲奪還。サウジアラビアの基礎を築く。
1月16日
広瀬武夫少佐、ペテルブルク出発。シベリア経由帰国へ。
1月17日
メキシコ市で地震、死者300人。
1月18日
アモイ・コロンス(鼓浪嶼)外国租界土地規則及び細則協定。
1月19日
島田三郎(49)、横浜・横浜会館での足尾鉱毒窮民救済演説会で田中正造らと共に演説。
1月19日
子規の終焉が近い事を誰もが感じ始める。
病状悪化し麻痺剤を連日使用。
虚子、左千夫、碧梧桐が「病牀日誌」をつけはじめる。
「一月十九日、子規の衰弱がはなはだしいと聞き、羯南がきた。碧梧桐夫妻がきた。容易ならぬ情勢と見た碧梧桐は、虚子に電話で連絡して来訪を促した。・・・・・
五百木飄亭もきたこの日、医師からより強い麻痺剤が届いた。それを服用し、羯南が例のごとく子規の手を握りながら額を撫してやると、いくらか苦しみがやわらいだ。
夕方、碧梧桐、飄亭、虚子が鰻丼や蕎麦を食する光景に接した子規もようやく食欲きざし、虚子持参の神田「薮」のザルを食べた。
しかし誰の目にも終焉の遠からぬことは明らかだったから、以後は交替で子規庵につめる必要を感じた。すでに前年の暮れから、左千夫、秀真、麓、赤木格堂、鼠骨、それに碧梧桐と虚子がかわるがわる侍して律の看護を手伝い、子規の話相手たろうと申し合わせてあった。これに歌人の森田義郎を加えて八人、歌人俳人半数ずつの態勢で臨むつもりでいた。
当直要員間の伝達を主目的とする「病牀日記」をつけることを碧梧桐と虚子とで決め、その日は姿を見せなかった左千夫にそのむね通知した。」(関川夏央、前掲書)
1月20日
英、ベルファストで操業中の紡績工場倒壊。女子工員12人死亡、20~30人負傷。
1月20日
ロンドンの漱石
「一月二十日(月)、鏡から手紙来る。前年九月二十二日(日)に出した手紙の返事である。「それやこれや」で、手紙を出せなかったという弁解に、ひどく憤慨する。川住義謙(推定)の死去を知る。」(荒正人、前掲書)
1月21日
この日の堺利彦の日記。待ちに待った自転車が届いたことが書かれている。堺は初めて会社から自宅まで自転車で帰り、約50分かかったが、「愉快でたまらぬ」と喜んでいる。
1月21日
独アナトリア鉄道会社、オスマン帝国のアブドゥル・ハミト2世によりコニヤ~バスラ間の延長承認。バグダード鉄道敷設権獲得。バグダード鉄道の最終的承認。
1月22日
オーストリア皇女エリーザベト(18)、皇位継承権・法的相続権放棄宣誓式
つづく
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