2025年1月9日木曜日

大杉栄とその時代年表(370) 1901(明治34)年10月15日 「兆民居士の『一年有半』といふ書物世に出候よし新聞の評にて材料も大方分り申候 居士は咽喉に穴一ツあき候由われらは腹背中臀ともいわず蜂の巣の如く穴あき申し候 一年有半の期限も大概は似より候ことと存候 しかしながら居士はまだ美といふ事少しも分らずそれだけわれらに劣り可申すべく候 理が分ればあきらめつき申すべく美が分れば楽み出来申すべく候 杏を買うて来て細君と共に食ふは楽みに相違なけれどもどこかに一点の理がひそみ居り候」(子規『仰臥漫録』10月15日)

 

中江兆民『一年有半』

大杉栄とその時代年表(369) 1901(明治34)年10月13日~15日 「『続一年有半』は、無神無霊魂論から始まり、「自省の能」重視に到達した。思うに、「自省の能」は、一方において、人間の本来的自由、精神の自立を強調し、他方において、物質的存在としての人間の有限性を自覚する兆民の、”自由”と”物質的学説”とを結合する核として位置づけられるものであった。」 (松永昌三『中江兆民評伝』) より続く

1901(明治34)年

10月15日

この日付け子規「仰臥漫録」。中江兆民『一年有半』について書いたあと、自分の葬儀について書く。


「精神やや復した十月十五日、中江兆民『一年有半』と自分の墓について書いた。

中江兆民は、明治三十三年十一月からとまらぬ咳に苦しむようになっていた。明治三十四年に入ると咳に加えて喉にひどい痛みを覚えたので、四月に診察を受けた。喉頭癌であった。あとどれくらい生きられるかという兆民の問いに、医者は「一年半くらい」と答えた。書名『一年有半』の由来である。

「一年半、(・・・)若し短(たん)と曰(い)はんと欲せば、十年も短なり、五十年も短なり」「鴫呼所謂一年半も無なり、五十年百年も無なり、即ち我儕(わがせい)は是れ、虚無海上一虚舟」(『一年有半』)

明治三十四年五月に喉の切開手術を受けたあとは寝たきりとなり、豆腐しか喉を通らなくなった。枕を抱いたうつぶせの姿勢で兆民は原稿を書きつぎ、九月に『一年有半』を、ついで十月に『続一年有半』を刊行した。どちらもベストセラーとなったが、子規はまだこの段階では読んでいなかった。新聞広告と新聞の書評で知ったのみであった。

子規は書いた。

「(兆民)居士は咽喉に穴一つあき候由。吾等は腹背中臀ともいはず、蜂の巣の如く穴あき申候。一年有半の期限も、大概は似より候ことと存候。乍併(しかしながら)居士は、まだ美といふ事少しも分らず、それだけ吾等に劣り可申候」

『一年有半』は六、七万部も売れた。子規はそれに羨望したものか、今度はいちおう読んでから、「罵倒する程の書物」ではなく「真面目になってほめる程のものでもない」、「評は一言で尽きる。平凡浅薄」としるした原稿「命のあまり」を、十一月二十日付の「日本」に掲げた。

だが、子規にも死は切実なものとなりつつある。『仰臥漫録』十月十五日の項には、兆民批判とならべて自分の葬式についてしるしている。

葬式の広告は無用、何派の葬式でもいいが柩の前の弔辞無用、戒名無用、と書いたあと、こうつづけた。

「自然石の石碑はいやな事に候」

「柩の前に空涙(そらなみだ)は無用に候。談笑平生の如くあるべく候」」(関川夏央、前掲書)


「中江篤介(兆民)著『一年有半』(博文館)は、明治三十四年九月二日に出版されている。・・・・・

子規がはじめて兆民の『一年有半』に言及したのは、非公開の日記的随筆『仰臥漫録』においてである。明治三十四年十月十五日の条に左のごとく見える。この時、兆民は、まだ存命中。


兆民居士の一年有半といふ書物、世に出候よし、新聞の評にて材料も大方分り申候。居士は咽喉に穴一ツあき候由、吾等は腹背中臀(しり)ともいはず蜂の巣の如く穴あき申候。一年有半の期限も大概は似より候ことと存候。乍併(しかしながら)、居士はまだ美といふ事少しも分らず、それだけ吾等に劣り可申(もうすべく)候。理が分ればあきらめつき可申、美が分れば楽み出来可申候。杏(あんず)を買ふて来て細君と共に食ふは楽みに相違なけれども、どこかに一点の理がひそみ居(おり)候。


この記述によって、子規と兆民の接点と相違点が灰見えてくる(あくまでも子規の側からのものであるが)。子規は、先に示した『病牀六尺』の明治三十五年七月二十六日の条で(この時、兆民はすでに没している)。


病気の境涯に処しては、病気を楽むといふことにならなければ生きて居ても何の面白味もない。


と述べていた。ここに病子規の意地と矜持の二つながらを見て取ってよいであろう。兆民が『一年有半』の中で「一年半てふ、死刑の宣告を受けて以来、余の日々楽とする所は何事ぞ」と述べているが、子規の側からの争点は、ここである。旦夕(たんせき)に迫った有限の時間をいかに「楽む」か、ということである。子規は、有限の時間(命)への「あきらめ」は、「理」によって獲得し得るが、「楽み」は、「美」を解することによってのみ手中に収め得るというのである。」(複本一郎『子規とその時代』(三省堂))


「子規は、兆民の死への対峙の仕方に、「美」がない、「理」があるのみだと言うのである。

『仰臥漫録』は公開されていなかったが、子規は、新聞『日本』紙上に、十一月「命のあまり」と超して、三回に渡って『一年有半』論を公表する。その第一回目に「居士(兆民-引用者注)は学問があるだけに、理屈の上から死に対してあきらめをつけることが出来た。今少し生きて居られるなら「あきらめ」以上の域に達せられることが出来るであろう」と結んでいる。

この「「あきらめ」以上の域」を、日々書くことで実行していたのは自分であるという自負が子規にはあった。明治三十五年の『病牀六尺』(七月二十六日)で、改めて子規は兆民について書いている。」(ミネルヴァ日本評伝選『正岡子規-俳句あり則ち日本文学あり-』(井上泰至著))


「正岡子規の随筆『病牀六尺』は、明治三十五年(一九〇二)五月五日より九月十七日まで、百二十七回にわたって『日本新聞』に連載されたものである。高浜虚子の俳話集『俳諧馬の糞』(俳書堂、明治三十九年)の中に、虚子の「俳諧日記」なるものが収められているが、それを見ると『病牀六尺』が、折々、虚子によって「筆記」(口述筆記)されていたことが窺われる。・・・・・

(略)

明治三十五年七月二十六日の『日本新聞』には『病牀六尺』の第七十五回目が掲載されているが、その中に、左の一節が見える。


兆民居士(こじ)が一年有半を著した所などは死生の問題に就てはあきらめがついて居(お)つたやうに見えるが、あきらめがついた上で夫(か)の天命を楽(たのし)んでといふやうな楽むといふ域には至らなかつたかと思ふ。(中略)居士をして二三年も病気の境涯にあらしめたならば今少しは楽しみの境涯にはひる事が出来たかも知らぬ。病気の墳涯に処しては、病気を楽むといふことにならなければ生きて居ても何の面白味もない。


子規は、境涯が似ているということもあり、中江兆民、そしてその著作『一年有半』に大きな関心を示している。」(複本一郎『子規とその時代』(三省堂))


「子規がここでいう、「夫の天命を楽し」む境地とは、儒教の経典の一つ、『易経』の「天を楽しみ、命を知る、故に憂えず」の一節を意識したのであろう。さらに、言えばこうした儒学的「楽」の概念を、より一般に具体化して紹介した書物に儒学者貝原益軒の『楽訓』がある。江戸時代のベストセラ-であった益軒本の影響力は、明治半ばに至っても、まだ教護層には残っていたようで、子規の在籍する新聞『日本』とは提携関係にあり、子親も意識したはずの政教社の志賀重昂のベストセラー『日本風景論』(明治二十七年)の扉にも、『楽訓』の一節は引かれ、外なる欲望の刺激による楽しみでなく、内なる楽しみの好例として、風景を愛し、それを詩歌に詠む日本の伝統を賞揚していた。

子規は、こうした先賢の言を意識しながら、病を受け入れつつ、病の中でも楽しんで生きる境地を模索し、得ることができた、と言いたいのである。」(ミネルヴァ日本評伝選『正岡子規-俳句あり則ち日本文学あり-』(井上泰至著))

「「十月十五日 (……)

兆民居士の『一年有半』という書物世に出候よし新聞の評にて材料も大方分り申候 居士は喉咽に穴一ツあき候由(よし)われらは腹背中臀(はらせなかしり)ともいわず蜂の巣の如く穴あき申候」

兆民にむかって、穴一つで騒ぎ立てるなと言わんばかりに書いている。さらに、

「一年有半の期限も大概は似より候ことと存じ候」

と、余命も同じ位だとした上で、兆民の書物に痛烈な批判の刃を突きつけて、

「しかしながら居士はまだ美という事少しも分らず(…‥)」

と断じている。

この 〝美が分らない〞ということは、どういうことか。

つまり、兆民居士は、理ばかりで人生を組み立てていくので、死についての〝あきらめ〞をつけることはできても、〝人生の楽しみ〞を得ることはないと、子規は言っているのだ。

まさに - 平安の昔に背かれた〝遊びをせんとや生まれけむ〞(『梁塵秘抄』) の思いである。

子規さんは、理屈をこえた楽しみは、まことに日々の日常の中で感じよ、と日記に書いている。

「焼くが如き昼の暑さ去りて夕顔の花の白きに夕風そよぐ処(ところ)何の理窟か候べき」 - と。

この〝日常の楽しさ〞〝日常の美しさ〞こそ、子規さんがかかげて止まない俳句改革、俳句実践の目指す世界にちがいないのである。」(早坂暁「子規とその妹、正岡律 - 最強にして最良の看護人」)

ついで、子規は、死後の葬式などについて記す。

一、葬式の広告無用。

二、何派の葬式をするとも、柩の前で弔辞、伝記の類を読みあげ無用。

三、戒名というもの無用。

四、「自然石の石碑はいやな事に候」。

五、柩の前で通夜無用。

六、「通夜するとも代りあひて可致」。

七、「柩の前に空涙は無用に候。」。

八、「談笑平生の如くあるべく」。

「電話にて虚子を招く 来る 午後秀真(ほつま)来る

今夜はホトトギス事務所にて山会(やまかい)あるはずなれば夕刻電話にて「ヤマクワイコイ」と言いやる 碧梧桐一人来りしのみ」


つづく


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