2025年1月26日日曜日

大杉栄とその時代年表(387) 1902(明治35)年1月20日~24日 〈青森歩兵第5連隊と弘前歩兵第31連隊の雪中行軍①〉 青森第5連隊、天候悪化に遭遇し、第2露営地で多くの死傷者を出す 

 

遭難の3ヶ月程前に撮影された歩兵第5連隊の様子

大杉栄とその時代年表(386) 1902(明治35)年1月11日~22日 子規の苦痛いよいよつのる 「強いものにかえてもらったばかりの麻痺剤(モルヒネ)が効かなくなった。痛みに耐えかねた子規は、「馬鹿野郎」「糞野郎」「コン畜生」などと、誰にいうでもない呪阻の語を発しつづけた。」(関川夏央、前掲書) より続く

1902(明治35)年

1月20日

〈青森歩兵第5連隊と弘前歩兵第31連隊の雪中行軍①〉

(冬季)雪中行軍の目的

日清戦争で冬季寒冷地での戦いに苦戦した日本陸軍にとって、近くに予想される対ロシア戦(日露戦争、明治37年)に備えるための冬季訓練は重要な課題であった。

雪中行軍は、青森歩兵第5連隊210名と弘前歩兵第31連隊37名(他に新聞記者1名)が実行した。

青森歩兵第5連隊の行軍の目的は、冬のロシア軍の侵攻で青森の海岸沿いの列車が不通となった場合、物資の運搬を人力ソリで代替可能か調査すること。経路は、青森~田代~三本木~八戸間で、最大の難所である青森~田代温泉間の雪中行軍演習は片道約20km、1月23日より1泊2日の予定で計画された。

弘前歩兵第31連隊の計画は、「雪中行軍に関する服装、行軍方法等」の全般に亘る研究の最終段階に当たるもので、3年がかりで実施してきた演習の総決算であった。経路は弘前~十和田湖~三本木~田代~青森~浪岡~弘前間で総延長224km。日程は1月20日より11泊12日の予定。


弘前第31連隊は、出発の1ヵ月前の前年12月20日頃、行軍命令を通知。指揮は陸軍歩兵大尉福島泰蔵。隊は志願者37名の少数精鋭に東奥日報から従軍記者1名を加えた計38名で編成。出発に先立ち、同隊は沿線の村落や町役場に書簡で食糧・寝具・案内人の調達を依頼した。また、木こり、マタギ、農家から情報収集し、冬山での心得(汗をかかないように配慮する、足の凍傷予防のため靴下を3枚重ね履きし、その上から唐辛子をまぶし、さらに油紙を巻くなど)を実践していた。服装は絨衣袴・冬襦袢・冬袴下・外套を着て手套・水筒・雑嚢・背嚢を装着し藁沓を履き寒地着各一を付着し、行軍中は麻縄で隊員同士を1列に結んだ。


青森第5連隊第2大隊は、1月18日、行軍計画の立案者である陸軍歩兵大尉神成文吉の指揮で予行演習を行った。これは中隊規模(約140名、うちかんじき隊20名)の将兵とソリ1台で屯営~小峠間(片道約9km)を往復したもので、好天に恵まれて成功した。これを受け、大隊長・陸軍歩兵少佐山口鋠は屯営~田代間は1日で踏破可能と判断。

1月21日、山口は行軍命令を下し、23日に出発することを定めた。

行軍隊は大編成(210名)で、1日分の食糧(米、豆、餅、缶詰、漬物、清酒)、燃料(薪と木炭)、大釜と工具など計約1.2tをソリ14台で曳く計画。ソリの重量は1台約80kgあり、4人以上で曳く。加えて行李に詰めた昼食用の弁当1食分、道明寺粉1日分、餅2個(1個50匁=187.5g)の各自携行が命じられ、懐炉の使用が推奨された。

歩兵第5連隊は青森を衛戍地としていた。部隊の指揮を執っていた陸軍歩兵大尉神成文吉(第2大隊第5中隊長)は、羽後国秋田郡鷹巣村(秋田県北秋田郡鷹巣町を経て、現在は同県北秋田市の一部)出身で、陸軍士官学校ではなく陸軍教導団を経て陸軍歩兵二等軍曹に任官し、順次昇進して陸軍歩兵大尉となった人物で、平民の出身。5連隊の雪中行軍隊は、第2大隊を中心に第5中隊長の神成を中心に編成されたが、第1大隊や第3大隊からも長期伍長が一部選抜された。

行軍には大隊長で陸軍歩兵少佐の山口鋠が随行した。

1月20日

午前5時、第8師団第4旅団第31連隊(弘前)、第1大隊第2中隊長福島蓁蔵大尉ら38名(「東奥日報」記者を含む)、八甲田へ出発。

午後7時、小国部落着。民宿。

21日午前8時、小国部落発。

午後1時15分、切明温泉着。民宿。

1月20日

第8師団第4旅団第5連隊(青森)は雪中行軍計画決定。第5中隊長神成大尉作成。

21日、第2代隊長山口少佐、行軍下命。第2大隊1等軍医村上其一は、この日のような悪天の場合は行軍中止を具申。山口少佐・神成大尉とも受入れず。

1月22日

午前7時、第31連隊(弘前)福島隊、切明温泉発。

午後3時35分、十和田湖畔銀山部落着。民宿。

1月22日

第5連隊(青森)、行軍隊編成。指揮官神成大尉。第1小隊伊藤格明中尉、第2小隊鈴木守登少尉、第3小隊大橋信義少尉、第4小隊水野忠宣少尉、特別小隊中野弁二郎中尉、構成外:第2大隊長山口少佐ら総計210名。行軍は田代に1泊して引返す規模。米は1260合(210×6合/日)。

1月23日

第31連隊(弘前)福島隊、銀山部落発。十和田湖南東縁の宇樽部落に向う。

小休止の後午前9時58分、行軍再開。

午後4時27分、宇樽部落着。劣悪な条件での民宿。

1月23日

〔第5連隊第1日目〕

午前6時55分、第5連隊(青森)神成隊、営門出発。田茂木野村を出外れる頃、村民が明日は「山の神の日」で荒天なので田代行き中止を進言(明治22年1月22日幸畑村民11人遭難死、4年前にも田茂木野村民8名凍死)。

〔天候悪化〕

午前11時30分、神成大尉、小峠丘上着。大休止して昼食のうちに天候悪化。3等軍医永井源吾は神成大尉に帰還を具申、

11時55分、山口少佐が行軍再開号令。

午後4時10分頃、先頭の鈴木小隊、馬立場(732m)着。後方の遅れのためここで大休止。

午後5時、後方が追いつき、行軍再開。胸の高さの雪中を進む。先頭を進む藤本曹長が、円を描いた格好で山口少佐らの移動大隊本部に突き当たる。山口少佐は水野中尉ら3名に田代への道の探索を命じるが、午後8時5分、3人は戻り探索不能と報告。

〔第1露営地〕

午後8時15分、雪中での野営号令。田代まであと1.5kmの平沢の森が最初の露営地。

『遭難始末』によれば、幅2m、長さ5m、深さ2.5m、都合6畳ほどの雪壕を小隊毎に5つ掘り、1壕あたり40名が入った。覆いや敷き藁もなかったため保温性に乏しく、座ることもできなかった。

午後9時頃までには行李隊も全て露営地に到着し、各壕に餅と缶詰、および木炭約6貫匁(約22.5kg)ずつを分配。しかし40人分を賄うには乏しい量であり、炉火も各壕で1つずつしかおこせなかったため交代で暖を取ることとなったが、着火に1時間余りを要し、炊事用の壕を掘ろうとするも、8尺(約2.4m)掘っても地面に届かず、やむなく雪上にかまどと釜を据えて炊事作業を始めた。炊事用の水も火で雪を融かして得る必要があったが、まず火が容易に点かず、さらに火で床の雪が融けて釜が傾くなど問題が続発し、炊事作業は極めて難航

1月24日

第31連隊(弘前)福島隊、十和田湖南東岸の宇樽部~午後6時55分、戸来まで行軍。民宿。

1月24日

〔第5連隊第2日目〕

午前1時頃、ようやく1食分の生煮えの飯が支給された。将兵は壕の側壁に寄り掛かるなどして仮眠を取ったが、気温零下20℃以下に達しており、眠ると凍傷になるとして軍歌の斉唱や足踏が命じられた。従って長くても1時間半程度しか眠れなかった。多くの将兵が寒気を訴えた。

〔帰営決定〕

午前2時、第5連隊(青森)第2大隊長山口少佐、事態を重く見て将校たちと協議、行軍の目的は達成されたとして帰営を決定。隊は午前2時半に露営地を出発。

〔遭難〕

隊は馬立場を目指すが、午前3時30分頃、駒込川支流にぶつかり、西に進んでいる筈が北西であると気付く。一旦露営地に反転(この反転行で少なくとも9人が崖下に転落)。

午前5時頃、佐藤特務曹長が田代への道を知っていると申し出たため案内させる。しかし、実際は反対の方向に進む。

午前8時30分頃、駒込川本流にぶつかり、支流に沿って鳴沢に引返すことにする。視界10m・気温氷点下25度。

正午頃、倒れる者出始める。将校9人中7人が凍傷。

午後4時頃、第4小隊長水野中尉(華族、紀伊新宮藩藩主水野忠幹の長男)が倒れる。倉石大尉が500mを1時間かけて水野中尉のもとに到着した時には既に死亡。

〔第2露営地〕

この日の行軍は14時間半に及んだが、それでも前の露営地より直線距離にして約700m進むだけに留まり、夕方頃鳴沢付近にて見出した窪地を次の露営地と定めた。この時点で、落伍者42人。

しかし、隊の統制が取れぬ上に、雪濠を掘ろうにも道具を携行していた者は全員落伍して行方不明となっており、吹き曝しの露天に露営することとなった。食糧は各自携行していた糒(ほしいい)や餅の残りと缶詰があったが、凍結していてほとんど摂食不可能だった。隊は凍傷者を内側に囲むように固まり、軍歌の斉唱や足踏、互いに摩擦し合うなどして睡魔と空腹に耐えたが、猛吹雪と気温の低下で体感温度が零下50℃近く、前日からほとんど不眠不休で絶食状態ということもあり、多数の将兵が昏倒・凍死した。第2露営地はこの遭難で最も多くの死傷者を出した場所となった

午後9時、第6中隊長興津大尉ら昏倒。

午後10時頃、夜明けを待って山口少佐は青森への帰還を決定。

青森では、第5連隊長津下中佐が、川和田少尉より前日夜半まで田茂木野で待つが行軍隊戻らずとの報告受ける。新たに古閑中尉ら40人を幸畑に派出。遭難を想定するのではなく、食糧を準備して出迎えるため。


つづく

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