大杉栄とその時代年表(379) 〈足尾銅山鉱毒事件と女性運動― 鉱毒地救済婦人会を中心に― 山田知子〉メモ3 より続く
足尾銅山鉱毒事件と女性運動― 鉱毒地救済婦人会を中心に― 山田知子〉メモ4(おわり)
6.鉱毒地救済婦人会の政治運動への旋回
1902年1月17日、『毎日新聞』に、鉱毒地救済婦人会の名で、「与古河市兵衛」「貴衆両院議員諸君に檄す」を掲載、公開質問状を突きつけた。これは、鉱毒問題が女性運動によって全国的な政治運動の色彩をより濃くしていく布石となった。
「単なる女性による一夫一婦制や廃娼運動といった家族制度や女性問題に特化した運動ではなく、矯風会が鉱毒地救済婦人会を通して、政治問題に以前よりもっと接近し、運動として全国の人々に影響力をもつ実体あるものに旋回した瞬間だった。」(山田)
檄文中に「……起てよ我同胞姉妹君等にして若鉱毒の如何に激甚なるを知らず被害地の如何に惨状なるかを視ざる人あらば一度足を被害地に容れて其荒漠たる原野と変ぜしその名状すべからざる人民の惨状を実視せよ……」とある。
「一度足を被害地に容れよという現場主義は社会福祉(慈善事業、社会事業)の起点である。現場から立ち上げた社会問題を認識し、政治運動とつらなり一般の人に訴え社会を変えていくという、現代的解釈をすれば社会事業、社会改良への道筋を示すものだった。」(山田)
潮田と松本英子は、この檄文により京橋警察署から召喚を受け、さらに、政府系の男性ジャーナリストからの誹謗中傷を受けた。
松本は動揺し、1902(明治35)年渡米、結婚、その後帰国することはなかった。また、1903年7月、潮田の病没により活動は小規模化していった36)。
「富国強兵、殖産興業の体制のなかで足尾銅山を経営する古河は政治勢力と縁戚をむすびながらさらに巨大化し、基幹産業として成長、操業を停止することはなかった。足尾鉱毒問題は治水問題にすりかえられていき,次第に矯風会の女性たちも遠のいていった。」(山田)
7.小括
鉱毒問題における鉱毒地救済婦人会の果たした役割は大きく、それは矯風会メンバー、とりわけ潮田、矢島なくして成り立たなかった。
鉱毒問題における女性運動団体矯風会の意義についてまとめると、、、。
① 矯風会は、鉱毒地救済婦人会によって家制度や醜業婦の問題から一歩踏み出し、男性中心の社会運動と連帯した。
② 鉱毒地救済のいわば被災地支援として慈愛館と授産事業を展開したことは、単なる社会運動ではなく、慈善事業(福祉的実践)をともなう運動であった。
③ 鉱毒地の地域的貧困を東京と比較しながら、東京とは異なる地方の貧困問題、鉱毒問題(公害問題)として捉えていた。
④ 地域的貧困が女性の身売りを生み出していること、すなわち、貧困が性の搾取を生み出すことを認識し、解決の方策を講じようとした。
彼女らの社会改良の目は、貧困が女性を「醜業婦」へと向かわせ、それを是認し前提とする男性支配の社会システムへの批判へとつながっていた。打開のためには一夫一婦制の確立と廃娼、加えて、女性の経済的自立によって男性支配の社会システムを変化させることが必要であるという意識にめざめていたことを物語っている。
矯風会メンバー全員がこのジェンダーの視点をもっていたとはいえない。しかし、主要メンバーたち、とくに潮田 、矢島たちは、女性の地位向上は経済的自立によってもたらされ、それが性の自立をもたらし、平等な夫婦、男女関係を形成するものであることを深く理解していた。
彼女らは、問題の根本は鉱毒によってもたらされた地域的な貧困問題であり、その貧しさが女性を「転落」させていくことも強く認識していた。鉱毒地救済は地域的貧困の解決、女性の貧困化防止、地位向上に鮮烈につらなる運動であった。
1902年6月25日発行の『婦人新報』(p.12)掲載された「慈愛館委員会報告」に次のような記述がある。「鉱毒被害地救済委員等が被害地巡回の際、その地方に15 歳以上の娘らはすでにその両親等のために売られて一人もいなくなっていて、残っているのは少女のみだったが彼らもまた(15歳になれば)同様の運命に遭遇すべき恐れがあるので慈愛館に托した」とある。
「地域的被災による生活破壊が地域的貧困を生み、それが娘の身売りを常習化させていること、鉱毒被災地救済は地域福祉実践であり、女性福祉のための実践にほかならなかった。」(山田)
矯風会は、政治社会問題に強い興味を示し実践的に運動を展開したが、下からの運動として農民や「醜業婦」にとことん接近することができたかというとそうではない、という批判もある37)。徹底した当事者に立つ運動にはなりえなかった。彼女らが夫の暴力や離別、死別女性として苦労していたとはえ、そして没落士族とはいえ、とにかく、高度な教育をうけ、都会的な生活スタイルを身に付けた女性たちであり、また、矯風会メンバーには、貴族の子女も多く含まれていて、当時の徹底的に異なる階層や地位にある農民や低所得層や「醜業婦」にならざるを得ない女性たちのおかれた状況を真に理解できたか、というと必ずしもそうではない。
その時代的限定性とともに慈善事業の限界について慈愛館と現地授産場の実態からさらに明らかにする必要があるだろう。女性運動が超えられなかった階層性について、さらに言及すべきであるが、紙面も尽きたので、これについては次号にゆずる。
註
36)竹見智恵子「時代を描き、時代を越えたルポルタージュ-「鉱毒地の惨状」解題にかえて」『田中正造の世界』1986年1月、谷中村出版社
37)雑録「慈愛館」『六合雑誌』250 号pp.61-64(明治34年10月発行)で、慈愛館取材記事が無記名の男性記者によって掲載されているが、慈愛館の職員の接遇について差別的であると批判的に書いている。
〈主な参考文献〉
鹿野正直編著『足尾鉱毒事件研究』三一書房、1974年
阿部玲子「足尾鉱毒問題と潮田千勢子」『歴史評論』No.347、1979年3月号
田村紀雄『渡良瀬の思想史―住民運動の原型と展開』風媒社、1977 年
『田中正造とその時代』青山館 vol.1-4 1981 年11月、1982年春、1982年秋、1983年夏
一番ヶ瀬康子「潮田千勢子」『社会事業に生きた女性たち』ドメス出版1980年
田村紀雄『明治両毛の山鳴り―民衆言論の社会史』百人社、1981年
東海林吉郎・菅井益郎『通史足尾鉱毒事件1877 -1984』新曜社、1984年
『田中正造の世界』谷中村出版社、1986年1月
日本キリスト教婦人矯風会編『日本キリスト教婦人矯風会百年史』ドメス出版1986年
日本キリスト教婦人矯風会『婦人新報』(復刻版)不二出版、1986年
田村紀雄編『私にとっての田中正造』総合労働研究所、1987年
婦女新聞社『婦女新聞』(復刻版)不二出版、1982年
木下尚江『木下尚江全集』第一巻 教文館 1990年
田村紀雄・志村章子共編『語りつぐ田中正造―先駆のエコロジスト』社会評論社 1991年
尾辻紀子『近代看護への道―大関和の生涯』新人物往来社 1996年
田村紀雄『田中正造をめぐる言論思想―足尾鉱毒問題の情報化プロセス』社会評論社、1998年
田村紀雄『川俣事件―足尾鉱毒をめぐる渡良瀬沿岸誌』社会評論社 2000年
飯島伸子編著『公害・労災・職業病年表( 新版)』すいれん舎 2007年
おわり
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