2010年1月9日土曜日

京都 祇園の街角 花見小路 一力亭

年末年始、東山山麓散歩と初詣の途中に、祇園花見小路辺りを歩いた。
下は、有名な一力(イチリキ)。
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四条花見小路の角、一力の前には下のような名のお店が。
コバンザメ商法ですな。
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以下は、四条花見小路を右折、南下したこの辺りの風景。
この通りを直進すると京都五山「建仁寺」があります(後ほどご紹介します)。
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「★京都インデックス」をご参照下さい。
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2010年1月7日木曜日

北の丸公園 こぶしが春を待っている

昨日の江戸城の梅とは日付けが前後しますが、今週5日、今やワタクシの庭と自分勝手に見做している北の丸公園をざっと一周した。
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遠目では冬の枯れ木に見えるが、近づくとこぶしの蕾が。
開花は3月ということなので、しばらくはこの様な状態のまま続くんだろうか。
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下は、昨年にもご紹介した平川門前のせんだん(・・・だと思う)。
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吉田茂像近くの桜も長いこと咲いているが、さすがに疎らになってきた。
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雑木林はこんな感じです。
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千鳥が淵
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反対側の牛ガ淵
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公園内の池
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池のあたりに咲く花。名は知らない。
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お正月の催しの武道館
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2010年1月6日水曜日

江戸城(8) 梅、咲き始める

本日(6日)昼休み、江戸城東御苑へ。
梅林坂の梅が咲き始めていた。
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とは言え、全体は下の写真の様子です。
これからが楽しみです。
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ついでに、先に紅葉を観賞した際に見付けた桜の状況を見に行くと・・・。
まだまだ元気に咲いていました。
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二の丸庭園。
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いつも素っ気ない天守閣跡。
明暦の大火で焼失して以来そのままとか。
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北桔門橋左側。
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右側の平川濠。
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2010年1月3日日曜日

京都 法観寺 八坂の塔

京都の東山山麓、六道珍皇寺のやや「おどろおどろ」の世界から抜け出て、東を見ると東大路通りを越した向こうに八坂の塔が見える。
高さ約46mあるという。
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東大路通りと八坂通りの交差点。
左(西)へ行けば六道珍皇寺、右(東)へ行けば八坂の塔。
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八坂の塔に向う
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坂の途中で振り返ると・・・。
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坂の途中で、「おいでやす」と。
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法観寺の八坂の塔
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清水寺方向(山手)から見た八坂の塔
(電柱、電線がウザイ)
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京都暮色
(高台寺前の駐車場から眺める八坂の塔)
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法観寺。
草創は、聖徳太子が如意輪観音の夢告によって五重塔を建てたことに始まるといい、古くから八坂郷を支配していた渡来系の八坂造(ヤサカノミヤツコ)が創建に関わったとされる。
往時は「延喜式」七ヶ寺の一つとされ隆盛を極めたが、今は五重塔、太子堂、薬師堂を残すのみ。
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地震や落雷のため、五重塔や伽藍は焼亡と再建をくり返したという。
治承3年(1179)、清水寺と八坂神社の争いによって類焼、この時は頼朝が再建。
永享8年(1436)にも炎上し、永享12年(1440)に足利義政が再建。
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「★京都インデックス」
「★寺社巡りインデックス」
をご参照下さい。
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明治17(1884)年11月3日(3) 栄助後退 宮川寅五郎捕縛 大宮郷、自衛を始める 天長節祝賀会、鹿鳴館夜会

明治17(1884)年11月3日(3)
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・憲兵隊に随行した兵事課長2等属村田譲吉、巨魁は大宮郷田代栄助らであるなど概略を報告。
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「三日、隈元少尉ノ隊ニ尾行シ、糧食ヲ連送シテ本野上ニ至り、警察分署ニ就キ賊ノ景況ヲ問ハントスルニ、空署ニシテ一人モ在ルヲ見ズ、夫ヨリ戸長役場二至り
・・・偶秩父郡大宮郷ノ隣村大野原村聯合戸長富田左平治、役場ノ書類ヲ携へ乱ヲ避ケ来ルニ会ス 同人ハ昨二日賊ノ一群小鹿野峠(小鹿坂峠)ヨリ大宮郷ニ進入スルヲ目撃セシ由、其他賊魁田代栄助等ノ挙動ヲ詳ニスルヲ得タリ(「兵事課長二等属村田譲吉出張経歴書」)。
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・午後3時、田代栄助後退。
栄助は、持病の胸痛を発し、常次郎・熊吉ら数名と大野原に戻り民家で静養。
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栄助は、後退する際も、兵の配備に気を使う。
「栄助ハ自分外十二名程ヲ連レ、秩父郡黒谷村ノ橋ニ至リ、ソコヲ防戦ノ地卜定メ、甲隊(乙隊の誤リカ)破ルレバ此地ヲ防グ事トナシ、栄助ノ子分姓名知レザル横瀬村辺ノ者ガ人夫八名ヲ引連レ、花火筒ヲ卓ニ乗せ挽キ来り、橋ノ真向ヒニ備へタリ、此破烈丸十一程持来りタリト云ヘリ、
茲ニ於テ同村ノ者及ビ皆野・黒谷辺ノモノガ集り来り、総勢二百名程ニナリタリ、夫ヨリ三ヶ所ニ見張リヲ十人程ヅゝ出シ、自分ヲ其場ニ残シ、栄助ハ夫ヨリ壱丁程大宮ノ方寄リノ人家ニ至リ休息セリ(「小柏常次郎訊問調書」)。
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また、山田村の撃剣家が指揮する140名が助力に駈けつけて来る。
「自分一人ニテ栄助ノ所ニ至り、手配ノ模様等噺シ居ルトキ、大宮郷ノ方ヨリ鯨波ヲ揚ゲ釆ルモノアリ、
茲ニ於テ栄助ガ自分ニ云フニ、アレハ味方デアロウカラ、御前ガ行ツテ皆野ニヤラズ、茲ニ留メテ夕飯デモ与へ呉レロトノ頼ミニ付、自分往来ニ出向キタルニ、秩父郡山田村撃剣家加藤某ガ先生トナリ、両三人帯刀、跡ハ残ラズ竹槍ヲ持チ、総勢六十三名、引続キ八十五名ガ来リシ故、加藤ニ面会シ、夕飯ヲ与へ、一同ハ近傍ノ民家へ宿泊セシメタリ、此時己ニ一番鶏(四日朝)トナリタリ(「小柏常次郎訊問調書」 改行を施す)。
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栄助後退後も、参謀長菊池貫平、小隊長高岸善吉、大隊長落合寅市らの指揮により、活溌な動きは継続。
皆野本隊の数百人は荒川を越えて大淵村に押し出し、金穀を奪って皆野に運び、また、児玉口警備のため数百人を下日野沢村に配備。
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・午後5時、小笠原憲兵大尉は内田憲兵中尉指揮の1個小隊とともに上尾停車場で下車し、その夜のうちに川越町に進出。
午後6時10分、影山憲兵少尉指揮の1個小隊、熊谷停車場で下車、右半隊は松山町に向い、左半隊は停車場前の小松屋旅館を営所として待機。
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熊谷に待機の隊は児玉方面進出を予定していたが、この日午後、親鼻の銃撃戦で憲兵第1陣が敗退した為、吉田県令は急拠寄居に進出させることにし、午後9時この旨を伝える。
午後11時、午前零時すぎ、午前2時の3回に分乗で熊谷を出発し、午前4時40分までに全員寄居に進出。同時に、松山の右半隊も寄居に移動。
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・午後7時、宮川寅五郎捕縛。
寅五郎は、前日襲った上田野村高利貸三上重左衛門より証書類を取上げるべく向う。大宮郷からの伝令で本陣の皆野移動と帰還命令が届くや、周囲が寅五郎に背き、戸長三上薗次らに捕縛。14日の横瀬村豪農襲撃の罪で極刑15年判決、北海道樺戸監獄の送致。明治31年大赦出獄(53)。身元引受人なく数ヶ月監獄に滞留。
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○宮川寅五郎(40):
「静岡県遠江国浜松出生/平民 日稼業 当時無籍」。
「被告ハ明治十七年九月以降、埼玉県武蔵国秩父郡上吉田村石間村ニ流寓中、明治十七年十月下旬田代栄助、加藤織平、高岸善吉等ガ世間高利貸ノ無情ニシテ窮民ノ困難ニ陥ルヲ救ハントテ秩父郡ニ於テ暴動ヲ企チタルコトヲ聞知シ大ニ感慨ヲ惹起シ、且ツハ織平等ノ勧メニ依リ共二事ヲ為サンコトヲ決シ・・・」。
蜂起の際は「軍用金徴収方」。
小鹿野町襲撃後、高岸善吉・犬木寿作等と三山村に行き、ここで隊を2分し、寅五郎は犬木寿作と共に、薄村戸長役場に押しかけ「村吏ヲ斬殺ス」と脅かして村民募集と炊きだしを迫る。
2日朝小森村に進み、109円70銭を強奪、続いて同村戸長役場に押かけ、ここでも村民募集を迫り、ついで贄川村に進み、磯田忠君を脅して刀4本・小銃2挺を奪い、上田野村戸長役場に対しても村民募集を迫り、午後5時頃大宮郷に引揚げる。掠奪した金員のうち80円を田代栄助に、5円を犬木寿作に渡す。
ここで寅五郎は栄助から4円40銃を貰い、この夜、土地事情に明るい堀口幸助の案内で再び荒川上流に向い、上田野村の高利貸三上重左衛門方に押しかけ、抜刀で脅かして貸金証書・軍用金の差し出しを迫る。重左衛門は「手元ニ所持セズ、家族ノ出先ヨリ持参スペシ」と言うので、組合の者3名を重左衛門に随行させ、4名を人質とするが、同人は戻らず。
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寅五郎は「上田野村三上重右衛門宅ニ於テ調整シタル自由党屯所宮川寅五郎卜書シタル旗ヲ建テ大宮郷ニ立帰ル・・・」。
翌3日も重左衛門から証書類を取りあげるべく、3度上方に上るが、大宮郷から使がきて「田代栄助等皆野村ニ進発シ、指揮スル者無之、速ニ来会セヨ」と伝えると、周囲の者は態度を一変し寅五郎に反き、午後7時頃、戸長三上薗次らに捕縛(「宮川寅五郎裁判言渡書」)。
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・午後7時頃、親鼻の渡しの銃撃戦の負傷者が大宮郷に後送されるが、医師は治療を拒む。
この頃、大宮郷では火災と暴徒の掠奪を防ぐため槍・竹槍・鉄砲・刀剣を持った者が、相詞を用いて市中巡回を始める。矢尾商店でも数名が竹槍や刀剣を持って、自衛のため警戒を始める。
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・夜、山県・柱野警部指揮の巡査隊、城峯峠を守備するが、柱野警部は部下数名を率い石間村に潜行する。
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・夜、大宮郷では困民党は秩父神社境内に20名程度となり、町内の火の番を強化し、「自衛団」結成の動きを示す。
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・山県内務卿の川越方面への注意喚起に応じて、川越警察は士族53名を募り夜のうちに秩父へ向わせる。
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・午後11時頃、甲隊(織平・周三郎)、昼に襲った下吉田の高利貸須藤弥平を再度襲う。
「東京憲兵七十四名が矢納迄出張セリ」の報告が入り、大隊長新井周三郎は500名程で別動隊2隊を編成。1隊は「千鹿谷の大将」島崎嘉四郎が指揮して日野沢村より、他の1隊(新井悌次郎指揮)は石間村より進撃させて、矢納村から来る憲兵の挟撃作戦をとる
(その後、日野沢村に進んだ隊は矢納村で、石間村に向った隊は半納の横道耕地で、群馬県警の偵察隊と遭遇して激闘を展開する。また、嘉四郎はこの地方でゲリラ的に大活躍する)。
3日夜、甲隊本隊は大淵村~野巻村の中産以上の民家に分宿、大淵村の長楽寺を本営とし、新井周三郎・加藤織平ら幹部はここに泊る。東京憲兵隊70余が矢納入りとの情報で、新井周三郎は島崎嘉四郎と新井悌次郎に夫々250を与え、日野沢と石間から矢納挟撃をさせる。嘉四郎はこの地方でゲリラ的に大活躍する。
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・この日、上日野沢村小隊長村竹茂市、新井周三郎より指揮権を剥奪され後任を柴岡熊吉とされる。しかし、4日周三郎が重傷に陥ると、そこに駆けつけ本営まで護送。その後、信州転戦組に加わり12月9日の軍壊滅まで従軍。
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・秩父困民党の衝撃波。
この日、横浜本署、八王子警察署(署長平田東馬警部)に警官40を急派。また、豆州・駿州・遠州・上州・信州へ広がる。
上州・信州の一部は秩父に加わり、飯田の愛国正理社・田原自由党は戦闘準備。11月下旬、豆州君沢郡・田方郡、駿州駿東郡東部など蜂起前夜の様相。
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・この日は天長節。東京では祝賀式のあと、日比谷の鹿鳴館で政府高官による華やかな夜会。
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(見出し)「紅の幕は切って落されたり 天長の佳節 鹿鳴館の夜会」 
(記事)「井上伯には、其北方と共に主人となりて、夜会の盛宴を鹿鳴館に張られたり、
・・・庭上の音楽は園外の烟火と相応じ、満堂の燭光は晝よりも明らかに、週廓の球燈は球を貫ぬくかと疑われたり、挿花の風流なる、粧師の閑雅なる、實に宏麗と清逸とを併せ、中々の見物なりき。取分きて勝れて見えたるは、御息所を始めとし参らせ、北の方奥方娘君たちの御出立と云ひ、御振舞の優にやさしくあり、自ら気高くもありて、能く内外の交際に慣れ玉ひたる様の迥(ハル)かに去年に勝れて、實にも斯る會場の光を増すことの、外国の貴婦人にも劣り玉はざるぞ貴かりけれ。
主人の井上伯御夫妻は、平素ながら内外の来賓に遣る方なくもてなし、・・・舞踏と立食とに何れも歓を盡し、楽を極めて夜の深行くも知らず、十二時頃に至りて散ぜられたり。尤も横濱の来賓の為とて、別仕立の汽車を用意せられてありぬ」(11月5日「東京日々新聞」 改行を施す)
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「★秩父蜂起インデックス」をご参照下さい
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鹿鳴館跡の碑
(現、日比谷公園南側 大和生命ビル前)


★昭和13年記インデックス

★昭和13年記インデックス
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昭和13年(1938)3月3日 「黙れ」事件(1)
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昭和13年(1938)3月3日 「黙れ」事件(2) 佐藤賢了の戦後の言い訳
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昭和13年(1938)3月1日~7日 要注意執筆者リスト作成 石川達三「生きてゐる兵隊」頒布禁止 第3次モスクワ裁判 「黙れ」事件 第3次改正朝鮮教育令 華北平定作戦、ほぼ終了 
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昭和13年(1938)3月13日 ドイツ、オーストリアを併合
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昭和13年(1938)3月 スペインのフランコ軍、アラゴンへ大攻勢、共和国側の戦線崩壊 イタリア空軍のバルセロナ再度爆撃 
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昭和13年(1938)3月8日~15日 第2次ブルム内閣成立 北支那方面軍第2軍南進 ブハーリン処刑 
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昭和13年(1938)年3月16日 社会大衆党西尾末広、総動員法賛成演説「ヒトラーおごとく、ムッソリーニのごとく、あるいはスターリンのごとく、・・・」で除名処分 イタリア空軍のバルセロナ再度爆撃
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昭和13年(1938)3月17日~26日 スペイン戦線、アラゴンの村々陥落。 総動員法、貴族院通過。日本軍、台児荘で包囲される。 電力国家管理関係法成立。
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昭和12年(1937)11月~昭和13年2月は「★南京インデックス」をご参照下さい。
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昭和13年(1938)3月8日~15日 第2次ブルム内閣成立 北支那方面軍第2軍南進 ブハーリン処刑 

昭和13年(1938)
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この月の
スペイン戦線の状況についてはコチラ、
ドイツのオーストリア侵略過程はコチラ、
をご参照下さい。
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3月8日
・衆院、48億5千万円の臨時軍事費を可決。
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3月8日
・巨人球団、召集された沢村、三原を補うために川上哲治、千葉茂ら7人の入団を発表。
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3月9日
・スペイン、アラゴンに対するフランコ軍の大攻撃「電撃作戦」。共和国側の戦線崩壊。
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3月9日
・オーストリアのシューシュニク首相、3月13日にオーストリア独立維持の国民投票実施を企てるが、3月11日、ヒトラーはシュシュニック辞任を求める最後通牒を出す。
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3月10日
・北支那方面軍第1軍、各兵団を警備任務に移行させ、山西省内新占領地での掃蕩作戦を実施
(本稿末尾に方面軍編成を記載)
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3月10日
・フランス、第4次ショータン内閣総辞職。
社会・共産両党の支持を失い辞職。ルブラン大統領はブルムに組閣依頼。挙国一致内閣構想。
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3月10日
・スペイン、叛乱軍ソルチャーガ将軍のナバラ軍、ベルチーテ占領。第15国際旅団は辛くも脱出。
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3月11日
・中華民国臨時政府、旧通貨整理弁法・取締擾乱金融弁法を公布。連銀発行貨幣を国弊とする金融体制確立を目指す。
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3月11日
・「公立中等学校は何れも有閑階級の子弟や金持の指定に独占されることになって、貧乏人には何等の恩恵にはならぬことになる」(鈴木庫三「日記」)。
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3月11日
・オーストリア、ドイツより人民投票延期の最後通諜を受けシュシュニック首相辞職。アルトゥール・ザイス・インクボルト(ナチス)がオーストリア首相就任。独政府に秩序回復のため軍の派遣要請。
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3月11日
・オーストリア軍事占領命令、ドイツ軍に発せられる。
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3月12日
・日本銀行、政府保証興業債券を抵当とする貸付利子及びこれを保証とする手形割引歩合を最低日歩9厘5毛に、満州国国債を保証とする手形割引歩合を最低日歩1銭に優遇。
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3月12日
・ドイツ軍、対オーストリア侵入開始。機械化部隊はリンツ付近で立ち往生、入城式に辛くも間に合う。ヒトラー、オープンカーでオーストリア入り。夜、ウィーンだけでも6万4千人がナチスにより逮捕。
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3月12日
・フランス、第2次ブルム内閣(社会党・急進社会党)成立。社会党11、急進党9入閣。1ヶ月足らずで上院の反対に直面し総辞職。
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・社会党全国協議会、ブルムの挙国一致内閣構想支持。6575対1684。共産党中央委員会も支持。
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・午後、ブルムは、野党議員を集め挙国一致内閣構想を説明。152対5で否決
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3月13日
・北支那方面軍第2軍司令官西尾寿造中将、第10師団瀬谷支隊(瀬谷啓少将)と第5師団坂本支隊(坂本順少将)に南進命令
(第10師団に「大運河以北の中国軍撃滅」を、第5師団に「沂州攻略後 嶧県付近で第10師団の作戦に協力」を下命)。
しかし、中国軍の攻撃を受け苦戦。18日、瀬谷支隊、謄県を攻略するが、第5戦区軍は激しく抵抗。24日、瀬谷支隊、台児荘攻略失敗。27日、瀬谷支隊(歩兵6個大隊、野砲兵3個大隊)は台児荘に再度突入、29日、沂州を攻撃中の坂本支隊も台児荘に増援、
しかし戦況は進展せず。4月6日、瀬谷支隊が、7日、坂本支隊が、優勢な中国軍に包囲され台児荘を撤退。
中国側は「台児荘の勝利」を宣伝。
瀬谷啓少将(22期)は予備役に退く。徐州周辺に中国軍約40万が集結している事が判明し、4月7日、徐州作戦下命。
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この年(昭和13年)初頭、陸軍中央は、占領地を確保して持久策をとる不拡大方針を固め、2月中旬、日本軍はその方針に沿って平定作戦を実施。
しかし、第一線の中国軍はその後も増強され、第5戦区軍約20万が展開する山東方面は「連夜襲撃ヲ受ケ第一線ハ漸ク奔命ニ疲ルルノ徴ヲ認ム」状況であり、参謀本部は第2軍の「眼前の敵を追ひ払ふ」南進作戦を認可。
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3月13日
・近衛首相が、総動員法は「支那事変に直接これを用いるものではない」と言明し、政友会、民政党は同意する方向に傾く。
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3月13日
・ドイツ、オーストリアを併合。
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3月14日
・仏、新外相ポール・ボンクール(穏健派)、チェコ駐パリ大使を呼びフランスはチェコとの同盟条約から生じる諸義務を履行する言質を与える。又、ピレネー山脈越しにスペイン共和国への兵器密輸黙認。
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この頃、パリではドイツとの戦争は不可避と思われている。
マシグリ外務省政治局長も対スペイン不干渉は茶番と公言し、コメール外務省情報局長は、「我々はオーストリアのうらみをスペインではらすだろう」とも発言。
15日、フランス国防委員会の会合で、ブルム首相はフランコに対する最後通牒を提案。
内容は、「二十四時間以内に貴下が外国部隊の支持を放棄しないならば、フランスは・・・フランスにとって有益だと思われる、あらゆる介入手段を用いる権利を留保するものである。」というもの。
しかし、国防軍参謀総長ガムラン将軍は、参謀本部はフランス南西部に対し別個の動員計画を持たないと指摘。
ダラディエは、スペインへの直接介入は世界戦争を惹起すると主張。
外務省主任書記官レジェは、介入は必ずドイツ、イタリアの開戦理由となり、イギリスはフランスの政策から遊離するであろうと批評。
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3月15日
・ソ連、ブハーリン処刑。
元中央委員ニコライ・ブハーリン(50)、アレクセイ・ルイコフ(57)らが死刑判決。即日処刑。
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3月15日
・バルセロナで大衆20万デモ。ネグリンに反対する閣僚追放要求、国防相ブリエトを攻撃
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3月15日
・ウィーン、ヒトラー、ホーフブルク宮バルコニーから演説。
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■北支那方面軍編成
(軍司令官寺内寿一大将、参謀長岡部直三郎)。
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●方面軍直轄兵団:
第114師団(末松茂治中将、参謀長磯田三郎大佐(宇都宮))、
歩兵第127旅団(秋山光三郎少将)、
歩兵第128旅団(奥保夫少将)。
支那駐屯兵団(山下奉文少将、3月12日支那駐屯混成兵団を改編)
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●第1軍
(司令官香月清司中将、参謀長飯田祥次郎少将)。
・第14師団(3月30日編入、司令官土肥原賢二中将、参謀長佐野忠義大佐(宇都宮))、歩兵第27旅団(豊嶋房太郎少将)、歩兵第28旅団(酒井隆少将)。
・第20師団(川岸文三郎中将、参謀長杵村彦蔵大佐(龍山))、歩兵第39旅団(関原六少将)、歩兵第40旅団(上月良夫少将)。
・第108師団(下元熊彌中将、参謀長鈴木敏行大佐(弘前、5月15日まで))、歩兵第25旅団(中野直三少将)、歩兵第104旅団(苫米地四楼少将)。
・第109師団(山岡重厚中将、参謀長落合甚九朗大佐(金沢))、歩兵第118旅団(本川省三少将)、第31旅団(谷藤長英少将)。
・第16師団(4月12日より第2軍へ転属、中島今朝吾中将、参謀長中沢三夫大佐(京都))、歩兵第19旅団(草場辰巳少将)、第30旅団(篠原次郎少将)。
・配属部隊:野戦重砲兵第2旅団(平田健吉少将)。独立混成第3旅団(佐々木到一中将)。独立混成第4旅団(河村薫少将)。
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●第2軍
(司令官西尾寿造中将、参謀長鈴木率道少将)
・第5師団(板垣征四郎中将、参謀長桜田武大佐(広島))、歩兵第9旅団(国崎登少将)、歩兵第21旅団(坂本順少将)。
・第10師団(磯崎廉介中将、参謀長梅村篤郎大佐(姫路))、歩兵第38旅団(田崎栄次郎少将、3月1日瀬谷啓少将と交代)、歩兵第8旅団(長瀬武平少将)。
・独立混成第5旅団(秦雅尚中将)。混成第3旅団(田村元一少将)。混成第13旅団(吉沢忠勇少将)。
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●航空兵団
(徳川好敏中将)
・第1飛行団(儀峨徹二少将、3月9日寺倉省三少将と交代)。
・第3飛行団(値賀忠治少将)。
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「★昭和13年記インデックス」  「★南京戦インデックス」をご参照下さい
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