2009年12月12日土曜日

昭和13年(1938)3月 スペインのフランコ軍、アラゴンへ大攻勢、共和国側の戦線崩壊 イタリア空軍のバルセロナ再度爆撃 

1936年7月のフランコ叛乱軍蜂起以来19ヶ月、共和国側は危機に直面している。
ドイツ、イタリアは空軍部隊などを投入。イギリス、フランスは不干渉政策を維持。
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昭和13年(1938)3月9日
アラゴンに対するフランコ軍の大攻撃「電撃作戦」。共和国側の戦線崩壊。

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攻撃軍の指揮はダビラ、ビゴンが副指揮官。ソルチャーガ、モスカルド、ヤグエ、アランダ、ベルティ(イタリアの将軍)が各軍団を指揮、ガルシア・エスカメスとガルシア・バリーニョ率いる各師団が予備軍を構成。
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9日、一斉砲爆撃の後、攻撃が開始される。共和国の最精鋭部隊も、テルエル以後は疲労し、物資は使い果され、兵の半分がライフル銃さえ持たずに戦場に赴く有様。
初日に、アラゴン戦線は数地点を突破される。ヤグエは、エプロ河右岸沿いに下流へ進撃。
10日、ソルチャーガのナバーラ部隊がベルチーテを征服。
第15国際旅団は、死の町ベルチーテから最後に脱出。この時、アメリカ人メリマン少佐と旅団付人民委員ドーランが戦死。英国人マルカム・ダンパーがメリマンの、ジョニイ・ゲイツ(24、鉄鋼労働組合指導者)がドーランの後を継ぐ。ミルトン・ウォルフ(ブルックリンの美学専攻の学生)はリンカン大隊の指揮を受け継ぐ。
英国人大隊の人民委員ウォーリイ・タブセル(共産党批判者)も、ベルチーテ周辺で殺されるが、彼は背中を撃たれたと云われる。
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ベルティ塵下のイタリア兵は、ルディーリャで抵抗に遭遇するものの、黒矢部隊を先頭に戦線を突破。ロホは防御の中心をカスベに決め、そこに国際義勇軍旅団の全部が集結。しかしこの間にも、イタリア軍が隣のアルカニュイスに接近。共和国部隊の敗走は決定的なものに思われる。
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同じく9日、ファランへ党の労働憲章が発布。
労働時間と労働条件が規制され、最低賃金が保証され、これに社会保険、家族手当、有給休暇が増加される。農業労働者の貸金は引上げられ、農民の各家族には、基本的な必要を満たすに十分な一定区画の土地が与えられる。小作農民は、立ち退き強制に対し保護を受ける。
しかし、これらの殆どは単なる抱負にとどまる。
憲章で完全に適用された唯一の項目は、私有財産の尊重を規定したものと、生産を撹乱する行為を叛逆罪と見做すという脅し。
国内の経済生活は、「垂直的」シンディケートという組織によって統制され、その役員は全てファランへ党員とされる。そして彼らが、各地域の地方共同団体、農業、船舶、商工業、公共国民施設、文化の5つの全国的会議所へ、そして最終的には、1つの組合国家会議へ上ってゆくハイラーキイに指図を与えることになる。
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更に、4月、新聞法が発布され、国家が新聞の全機構の支配権を掌握。
登録された新聞と雑誌だけが発行を許され、登録したジャーナリストだけが、この仕事に従事することを許可される。
既に迎合的になっていた新聞記者は、さまざまな等級のジャーナリストに分けられた正規の最低俸給表を見ても抗議もなくこの法律を受け入れる。
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3月14日
・フランス、第2次ブルム内閣の新外相ポール・ボンクール(穏健派)、チェコ駐パリ大使を呼びフランスはチェコとの同盟条約から生じる諸義務を履行する言質を与える。
又、ピレネー山脈越しにスペイン共和国への兵器密輸を黙認
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この頃、パリではドイツとの戦争は不可避と思われている。
マシグリ外務省政治局長も対スペイン不干渉は茶番と公言し、コメール外務省情報局長は、「我々はオーストリアのうらみをスペインではらすだろう」とも発言。
15日、フランス国防委員会の会合で、ブルム首相はフランコに対する最後通牒を提案。内容は、「二十四時間以内に貴下が外国部隊の支持を放棄しないならば、フランスは・・・フランスにとって有益だと思われる、あらゆる介入手段を用いる権利を留保するものである。」というもの。
しかし、国防軍参謀総長ガムラン将軍は、参謀本部はフランス南西部に対し別個の動員計画を持たないと指摘。
ダラディエは、スペインへの直接介入は世界戦争を惹起すると主張。外務省主任書記官レジェは、介入は必ずドイツ、イタリアの開戦理由となり、イギリスはフランスの政策から遊離するであろうと批評。
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3月15日
・バルセロナでネグリン首相に反対する閣僚追放要求。国防相ブリエトを攻撃。
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3月16日
イタリア空軍のバルセロナ再度爆撃
サラマンカ駐在ドイツ大使シュトーラーは、爆撃の効果は「恐るべきもの」で、「市内のあらゆる地域が影響をうけ、軍事目標をねらったという証拠は全くなかった」と述べる。
夜10時頃の第1回目空襲は、ハインケル水上飛行機6機が、上空400mを時速80マイルで横断。その後、18日午後3時まで、3時間間隔で17回の空襲があり、約1,300が死亡、2千人が負傷。
チアノは、空襲指令はムッソリーニから直接与えられ、「フランコはそれについて何も知っていない」という。
19日、フランコは、「海外での紛糾」を恐れ空襲停止を要求。しかし、ムッソリーニは、かつての彼の将軍ドウエットと同様、飛行機のもたらす恐怖によって戦争に勝てるとの考えを変えていない。
ロンドンでは、いくつか抗議集会が開かれ、ジョージ・パーカーは詩「スぺインのためのエレジー」を発表。コーデル・ハルは、「合衆国の全国民を代表して」嫌悪の念を表明。
しかし、共和国各都市に対する無差別爆撃は、戦争終結まで続く。
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3月17日
・フランコ軍がアラゴンのカスペを陥落。
16日、フランコ軍のバロン、ムニョス・グランデス、パウティスタ・サンチェス指揮の3個師団がカスぺを包囲。南部では、アランダが共和国戦線を突破し、モンタルパンを占領。17日、国際義勇軍各旅団が奮戦するもカスぺが陥落。英国人大隊指揮官サム・ワイルドらは、捕虜になるところを危うく逃がれる。
フランコ軍は、アラゴン進出8日間で東100kmに進み、エプロとグァダルーぺ河畔で再編成の為の休息をとる。攻勢再開は22日。
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3月22日
・フランコ軍がアラゴンへの攻勢を再開。サラゴーサ、ウエスカ、ビーナなど革命的な村々が陥落。
フランコ軍のソルチャーガとモスカルド両将軍は、ウェスカ~サラゴーサの150kmの戦線で5つの攻撃を開始、ウェスカ、タルディエンタ、アルクピエーレが陥落。翌日、ヤグニはエプロ河を渡河しピーナを占領。アラゴンの全ての村々が陥落。
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3月25日
・アラゴンを制圧したフランコ軍は、カタロニアへ侵攻するが難渋する。
しかし、南アラゴンではフランコ軍は地中海への進撃を準備(共和国を分断する作戦)。
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25日、フランコ軍のヤグエがフラーガを奪取し、カタロニアに侵攻するが、レリダでは共和国軍エル・カンぺシーノ師団が、1週間に亘り抵抗。北方では、モスカルドがパルバストロに入り、更に北ではソルチャーガの部隊が、ピレネー山脈の谷あいで共和国砲兵隊や飛行機のたやすい攻撃目標となり行動の自由を失う。
南方では、アランダ、ガルシア・エスカメス、ベルティ、ガルシア・バリーニョが、空軍力の援護のもとに南アラゴンの高原を突進し地中海への進撃を準備。ドイツは、歩兵掩護の為の戦闘機利用について多くを学ぶ。
バルセロナのネグリン政府では、国防相ブリエトとそれに影響をうけた外相ヒラールの敗北主義的言動が目立つようになる。
4月6日に内閣改造。
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1938年3月~7月のスペイン戦線
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