昭和13年(1938)3月13日 ドイツ、オーストリアを併合
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この日、オーストリア新首相アルトゥール・ザイス・インクボルト(ナチス)がドイツとの合邦宣言。
オーストリアのユダヤ人と反ナチス勢力への迫害始まる。
財閥当主ルイス・ロスチャイルド、ナチスによるユダヤ人狩りで捕われる。
4月10日の国民投票、投票者の99.75%がドイツとの併合に賛成表明。
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1月6日にはジークムント・フロイトは、イギリスに亡命(1939年9月23日、没)。
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■ヒトラーによるオーストリア強奪の道のり:
1936年7月、ヒトラーはドイツ参謀本部に対しオーストリア占領の為の軍事計画立案(「ケース・オットー」)を命令。
更に、1937年11月5日、ヒトラーは彼の将来計画を3軍司令官に打ち明ける。東ヨーロッパ(ポーランド、白ロシア、ウクライナ)に「生活圏」を持つこと、その為には大きな戦争を覚悟せねばならない、またその為にこれらの地域の住民を絶滅することになるだろうという。
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一方、ナチ党オーストリア支部によるドルフュス首相暗殺以来、ナチ党によるオーストリア政府破壊工作は継続されている。
オーストリア政府と親密な関係を維持し、オーストリアのナチ党を合法的団体として政府に公認させるよう訓令を受けている駐オーストリア大使パーペンはオーストリアの政治機構内部で工作を続け、多数のオーストリアの著名人は、彼の圧力と陰謀に屈している。
ウィーンの観光事業は情勢不安によって妨げられ、テロリストの暗躍と爆弾による暴力行為がオーストリアの生命を脅かしている。
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ヒトラーは、この年1月~2月、ドイツ外務省・国防軍首脳で大幅な人事異動を敢行。戦争政策の反対者の多くが失脚。
ついで、1月末、自身の結婚問題(元街娼と結婚)で将校団の支持を失った陸相ブロンベルクを退け、次に1938年2月4日、陸軍司令官フリッチュを罷免し、自ら軍の最高指揮権を掌握。但し、フリッチュへの陰謀により国防軍内に反ヒトラーグループが結成される。
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そして、2月12日、ヒトラーはオーストリア首相フォン・シュンュニクをベルヒテスガーデンに呼びつけ脅迫。外相グイド・シュミットを伴ったシュシュニクはヒトラーに屈する。
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この日午前11時、ヒトラーはオーストリアの国境防備問題を取り上げ、戦争か平和かの選択を脅迫。
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ヒトラー
「私はただ命令を下せばいいのだ。そして、一夜にして国境を守る笑うべき案山子どもは、すべて消え去るであろう。貴下は半時間も私を支え得るとは、本気で思ってはいまい。・・・一夜明ければ恐らく私は突然ウィーンにはいっているだろう。・・・そうなって貴下は、はじめて事態の重大さを経験するだろう。私はオーストリアをそんな目に会わせたくない。そうなればそれは多数の犠牲者を出すだろう。軍隊の後から突撃隊が、そしてさらに軍隊がつづくだろう!・・・貴下はオーストリアを第二のスペインにしたいのですか?・・・」
シュシュニク
「私は必要な調査をして、ドイツ国境に沿う一切の防備施設の構築を停止させましょう。貴下がオーストリアに進入できることを、もちろん私は知っています。しかし総統閣下、われわれが望むと否とにかかわらず、それは流血につながるものとなるでしょう。われわれは世界で孤立しているのではないのです。それは恐らく戦争を意味するものです」
ヒトラー
「・・・この背後にあるものは、苦痛と流血だけです。貴下はそれに対する責任を負いますか、シュシュニクさん?世界じゅうでだれか私の決心を妨げる者がいるなどと考えてはいけませんよ!・・・」。
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その後、形式的な昼食の後、リッペントロップとパーペンから最後通牒を示される。
条件は、①オーストリア・ナチ党のザイスインクワルトをオーストリア政府治安相に任命すること、
②拘禁中の全オーストリア.ナチ党員の大赦、
③政府の作った祖国戦線の中に、オーストリア・ナチ党を正式に編入することなど。
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その後、ヒトラーはオーストリア首相と会見。
ヒトラーは、「繰り返して言うが、これは本当に最後のチャンスである。三日以内にこの協定が実行されることを期待する」と述べる。
午後11時、シュシュニクは「議定書」に署名。
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2月18日、オーストリアの内閣改造。シュシュニク首相、ザイス・インクボルト(オーストリア・ナチス指導者)を内相兼警察長官に任命。
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2月19日、拘留中のナチス党員が釈放される。ヒトラー、ナチスの活動の自由拡大を認めさせる。
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2月24日、シュシュニクの議会演説。ドイツとの協定を歓迎する一方で、オーストリアの独立を強調し特別の条件以上には絶対に踏み出ないと述べる。
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3月3日、シュシュニクはローマ駐在オーストリア陸軍武官を通じムッソリーニに対し、国内での政治的地位強化のため国民投票を行なう意志があると秘密裡に通知する。
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翌3月4日、ムッソリーニは、情勢は好転するだろう、間もなくローマとロンドン間に緊張緩和が訪れ、これが現在の圧力を軽くすると保証するが、国民投票については、「それは間違っている。もし結果が満足であっても、国民はそれを正しいものだと言わないだろう。もし結果が悪ければ、政府は窮地に陥るだろう。そしてもし結果がどっちつかずであれば、全くむだなことである」と警告。
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しかし、3月9日、シュシュニクは13日(次の日曜日)に国民投票を行なうと公表。
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3月11日朝5時半、シュシュニクはウィーンの警察本部から、「ザルツブルクのドイツ国境は一時間前に閉鎖された。ドイツの税関吏は引き揚げた。鉄道の連絡は遮断された」との電話を受ける。
続いてミュンヘンの総領事から、同地のドイツ軍団の動員、想定目的地はオーストリアであると連絡が入る。
更に朝遅く、内相ザイス・インクワルト(オーストリア・ナチス指導者、2月18日内相就任)がやって来て、ゲーリング元帥から電話があり、1時間以内で国民投票を取り消すよう命令があり、その時間内に返事がなければ、ザイス・インクワルトが電話を妨害されたと見なし、相応の行動を起こすという、と伝える。
シュシュニクは、警察と軍隊は頼りにならぬと報告されていたので、ザイス・インクワルトに国民投票延期を伝える。
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その15分後、ザイス・インクワルトはゲーリングからの返事のメモをシュシュニクに渡す。
「事態は、首相が即時辞職し、二時間以内にザイス・インクワルト博士が首相に任命された場合にのみ救われる。もしこの時間内に何事もなされなければ、ドイツ軍のオーストリア侵入がつづくであろう」という。
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シュシュニクは辞表提出の為ミクラス大統領を訪ねると、この時、イタリア政府は何の助言もできないと通知が入る。内相アルトゥール・ザイス・インクボルトが首相に就任。
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3月11日、ヒトラーはオーストリア軍事占領命令を発令、「オットー」作戦が開始される。
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この日、オーストリアのミクラス大統領は、ザイス・インクワルトやオーストリア・ナチ指導者たちと終日戦う。
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ヒトラーとムッソリーニへの特使フィリップ・オブ・ヘッセ公との電話の内容(ニュールンベルク裁判の証拠資料)。
ヘッセ
「・・・ムッソリーニは、すべてを非常に好意的に受け入れました。・・・彼はオーストリアから情報を得ていました。フォン・シュシュニクが情報を知らせたのです。そのとき彼は、それ(イタリアの干渉)は全然不可能であり、それは虚勢であり、そのようなことはできるものではない、と言いました。そこで彼(シュシュニク)は、不幸にしてこのように取り極められたのだが、もうそれを変更することはできないと告げられました。それからムッソリーニほしオーストリアは自分には重要なものほないと言いました。」
ヒトラー
「それじゃ、どうかムッソリーニに、私はこのことについては決して彼を忘れないと伝えてくれ給え。」・・・
「断じて、断じて、断じて何事が撃しろうとも、私はまだ彼と全く別の協定を結ぶ用意がある。」・・・
「オーストリア問題が片づき次第、万難を排して彼と行動を共にするーーどんなことがあっても。」・・・
「・・・私はどんな協定でもする。・・・どうか彼に伝えてもらいたいーー私が彼に非常に感謝しているということを。・・・」・・・
「どんなことが起ころうとも、私は決して忘れない。もし彼が援助を必要とするか、あるいは危険に陥った場合でも、どんなことが万一起ころうとも、たとえ全世界が彼の敵になっても、私は絶対に彼から離れないと信じてよい。」
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3月12日(土曜)夜、ウィーンのナチ党は、ヒトラーを迎える炬火行列を計画するが、戦車の故障のためドイツ軍はリンツ付近で立ち往生し、この時点で一兵も到着できず。リンツ~ウィーン間は立往生の重装備車で塞がれてしまう。
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この夜、ウィーンだけでも6万4千人がナチスにより逮捕される。
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ヒトラー自身は自動車でリンツを通り、交通混雑を見て激怒。軽戦車だけは混乱から離脱して翌日曜朝早く、離れ離れでウィーンに辿り着き、装甲車と機械化重砲は貨物列車に積み込まれ入城式にやっと間に合う時間に到着。
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ヒトラーは、将軍たちを叱るが、将軍たちはヒトラーが罷免された総司令官フォン・フリッチュ将軍の言葉に耳を傾けなかったこと、ドイツは未だ大戦争を遂行する状態にないという将軍の警告を聞かなかったことを想起させる。
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3月13日(日曜日)、公式式典と閲兵式。この日、多数のドイツ部隊とオーストリア・ナチ党員がウィーンを占領し、ヒトラーはオーストリア共和国消滅とその領土のドイツ帝国への併合を宣言。
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3月18日、ソ連はドイツによって重大な脅威を受けた場合、国際連盟の枠内で仏・ソ条約を履行する方法と手段をの協議を求めるが、フランスやイギリスはこの提案に冷淡。
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