シリーズ「南京戦」を昭和13年2月末の記述で終えました。
続きは、「昭和13年記」「昭和14年記」・・・という具合に続けて行こうかというのが、現在の気持です。
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昭和13年記の第一回は、3月からの「年表」入る前に、いわゆる「黙れ」事件について書きます。
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昭和13年3月3日、国家総動員法委員会審議の場で、陸軍省軍務局課員佐藤了賢中佐が、説明員にも拘らず法の精神や自分の確信を説き、30分に亘り討議。これに対し、制止するようヤジがとび、宮脇長吉議員に対し、「黙れ」と怒鳴る。翌4日、杉山陸相の陳謝、本人処分はなしで決着を見る。
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今回は、昭和13年3月からの「年表」入る前に、この「黙れ」事件について。
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●国家総動員法のこれまでの経緯
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昭和12年6月4日に第1次近衛内閣が成立。
1ヶ月後には盧溝橋で戦端が開かれ、現地軍の独走により戦線は拡大。
昭和12年9月の臨時議会に対し、陸軍の要望に応え国家総動員法提出の動きがあるが、近衛は、軍需工業動員法発動と3つの戦時統制法だけに抑える。
その後、近衛は陸軍の要望を抑えることができなくなり、12年11月9日、国家総動員法立案着手の内閣訓令を発す。
「いよいよ国民精神を昂揚して、国力発揮の源泉を振作するとともに、生産力の拡充、需給の調節、配給の適正、国際収支の均衡をはかり、依ってもって総合国力の拡充運用に違算なきを期するため、政府は企画院をして国家総動員の中枢たらしめ、当面の事変に対処するとともに、事変後における国力の飛躍的増進に備えんとするものである。当務者は政府の意を体し、それぞれ努力すべし」
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こうして、企画院(総裁滝正雄、次長青木一男を)は、陸軍の圧力の下に、秘密のうちに立案を進め、1月下旬、成案。
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概要は、戦時事変に際し国防目的達成のために、国の全力を最も有効に発揮せしめるよう、人的及び物的資源を統制運用せんとするもの。
統制の及ぶ総動員物資には、兵器、艦艇、弾薬その他直接軍用物資、被服食糧、飲料、医薬品、医療機械器具、その他の衛生用物資、船舶、航空機、車両、馬その他の輸送用物資、一切の通信用物資、土木建築用及び照明用物資、燃料及び電力が含まれ、更にこれらの物資の生産、修理、配給、保存に必要な一切の物資、その他勅令をもって指定する総動員必要物資にわたる。
また統制をうける総動員業務には、上記の総動員物資の生産、修理、配給、輸出入保管についての業務をはじめ、総動員に必要な運輸、通信、金融、衛生、救護、教育、訓練、試験、研究、情報、啓発宣伝、警備、及び勅令をもって指定する一切の業務に及び、その上、国民徴用、労働及び労働条件、労働争議の統制、輸出入統制、会社設立及び経営の一切についての統制、さらに新聞紙その他出版物の統制、集会の禁止、教育研究の統制に及び、これに違反する者には罰則をもってのぞむというもの。
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第2次近衛内閣の企画院総裁星野直樹は、総動員法を評して
「統制法規として世界に類例のない徹底したものだ、この法律で何と何が統制できるかと考えるよりも、この法律で統制できないものがあるなら、それをさがした方がはるかに早いだろう」という。
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また、元老西園寺公望は、原田熊男に対し、「この法案が憲法無視の悪法であることは明らかである、こんなものは通過しない方がよい」と厳しく語る。
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●この頃の政党の状況。
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①政友会:
前総裁鈴木喜三郎没後、後任を決められず、代行委員4人(鳩山一郎、前田米蔵、中島知久平、島田俊雄)が運営。
前田・中島は、早くから親軍的傾向を示し、民政党の永井柳太郎らと呼応して親軍新党工作を進めている。これに久原房之助、秋田清、内田信也、山崎達之輔ら領袖が加担し、更に政友会解党論を唱える東北長老組の東武、山村竹治らもこれと気脈を通じている。
わずかに自由主義の立場から陸軍に反省を試みようとするのは、鳩山一郎らのグループのみ。
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②民政党:
親軍派永井柳太郎が党内勢力を持たず、動揺は政友会ほど深刻ではない。
俵孫一、富田幸次郎らを中心とする常盤会メンバーの政民合同論が有力で、この間にあって、総裁町田忠治は軍部との妥協と政友会との提携をのぞむという日和見主義に終始。
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③無産政党を自称する社会大衆党:
昭和12年5月31日の林内閣による解散に伴う総選挙で36議席を獲得し、その年11月15日の第6回全国大会ではファシズムへの指向を示す新綱領を採択。
社会大衆党は総動員法成立に向けて陸軍に協力する姿勢を示す。
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法案提出に際し、政府は慎重に、予め両院各派に原案を提示し、滝企画院総裁に説明させ、一方、近衛は、内閣参議として閣内にある町田忠治、前田米蔵の両党首脳に両党との斡旋を依頼。
しかし、2月の衆議院委員会では、支那事変に適用しないのなら今にわかに提案する必要がない、委任命令が多いのは憲法に抵触するのではないか、など重要な疑義が提起され、ことに集会禁止、新聞発行停止に関する条項には最も反対が強く、更に本法の発動・適用を官僚に一任するのは危険との非難が起る。
このような状況下、近衛は町田、前田両参議の忠告により、企画院総裁滝正雄、内閣書記官長風見章、法制局長官船田中に法案再検討を命じ、その結果、集会禁止、新聞紙発行停止に関する条項とその罰則を削除し、更に発動適用については両院議員をふくむ総動員審議会という諮問機関の意見を聞くという修正を施し、2月24日、ようやく本会議に上程。
本会議上程にあたっては近衛が提案理由を説明する予定であったが、21日夜から風邪のため発熱したので、外相広田弘毅が代ってこれにあたる。
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●新聞界の反応:
1月26日「読売」が第2夕刊で総動員法の内容をスクープ。第1面の3/4に「国家総動員法要綱、物心両面一切に亘り高度統制原則確立」(7段見出し)と大々的に報じる。
2月8日、新聞の親睦団体「二十一日会」は、帝国ホテルに末次信正内相、富田健治警保局長ら内務省幹部を呼び、国家総動員法の新聞関係について質す。「朝日」は緒方竹虎・野村秀雄、「東京日日」は阿部賢一・高田元三郎、「読売」は柴田勝衛らが出席、他に「国民」「報知」「中外」「同盟」も出席。
「二十一日会」側は、
一、国家総動員法から、新聞、出版関係条項を削除する。
二、これが不可能な場合は根本的な修正を加え、少なくとも二回以上の発禁で発行停止などという非常識な条項を削除する。
などを要求したが、話し合いはもの別れに終わる。
「二十一日会」は、各社2人の実行委員を決め、9日に近衛首相、10日に企画院を訪れて申し入れる。
しかし、先に述べたように正式の提出法案には、「発売、頒布禁止の行政処分を二回以上受けた新聞や出版物は発行停止処分にする」との項目は削除されており、新聞界は胸をなでおろす。
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質問第一陣の斎藤隆夫は、憲法の大精神に違反すると大上段から反撃。
滝や船田が答弁に立つが政党はこれを拒否し、国務大臣の答弁を要求。議場は大混乱となり、議長小山松寿はやむなく休憩を宣言。
政府は院内で閣議を開き、対策を協議し、町田や議長小山らの申し入れもあり、憲法問題については司法大臣塩野季彦が内閣を代表して答弁することになり、議事は再開。
第二陣の牧野良三も、委任勅令違憲論、非常大権干犯論で攻撃、塩野ら国務大臣の答弁はしどろもどろの有様。
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第2日は質問者を制限して本会議を切り抜けるが、2月28日からは45名の委員会の審議に付され形勢は険悪となる。
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3月2日、近衛は病気をおして登院。
この日の質問者は民政党の桜井兵五郎で憲法論によって近衛に迫る。
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桜井:本案は、憲法が最も戒めている立法事項を、極めて広汎にわたって勅令に委任している、これは憲法の大精神に背くものである、このように考えると、どうもその裏に何らかの意図が含まれているのではないかと推測できる。
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近衛:この法案は、憲法上その他の角度から見て、極めて問題の多い法案であり、できるだけの論議をつくされることを希望する。総動員は国民の協力を必要とするものであり、真に国民がこの総動員を理解しなければ、完全な運用はできないので、真剣に論議することは、この法案に対し国民の真の理解認識を深めしめる上に有効と考える。
国民の権利自由に関する事柄を、広汎にわたって勅令に委任するのは、憲法の精神に反するという指摘について・・・。
「これにつきましては、過日来当局よりしばしばご説明申上げたと存じますが、要するに今後の戦争がどういう形をとって現れるか、また相手の国がどういう国であるかというようなことは、今日より予測することは困難でありまして、これに対してはその時々の事情に応じまして、迅速適切なる処置をとらなくてはならぬと思うのであります。
そういう意味から申しましても、この戦局の千変万化する局面の変化に応ずるがためには、具体的に法律の上にあらかじめこれを規定しておくことは、おそらく不可能ではないか、またあらかじめこれを法律に規定しておくということは、一面から見ますと総動員の計画を外国に知らしめるという結果となります故、かくの如き広汎なる勅令委任の形となったことは、やむをえないのではないかと考えます。
この法律を立案するにあたって、背後に何か恐るべき一種の思想が存在しているかの如きで心配があるように考えます。議会を否認するとか、憲法を無視するとかいう思想が、よこたわっているが如くで心配があるかのようであります。
しかし現代戦争の特質とも申すべき国力と国力の戦い、一国の人的物的資源を動員しましての最大能力を、発揮せしめるということが、ヨーロッパ戦争の当時から各国でみとめられ、我国におきましても総動員法の制定ということは、十数年前から資源局におきまして立案に取りかかっておったのであります。
今日卒然として、一種のファッショ・イデオロギーと申しますか、そういう風潮にのって、突然生まれてきたのではないのであります。
かつこの法律は主として戦争にのみ適用されるので、先日のナチス・ドイツの授権法等をご引例になりまして、色々ご説があったようでありますが、戦時のみ適用されるこの法律は、平時に通用されるナチスの法律とは本質において異なるものであると考えております。
要するに一朝有事の際に、或は緊急勅令とか、或は非常大権の発動によりまして総動員の実施を行うというよりは、あらかじめ大綱だけでも議会の協賛をえて、法律として制定しておくという方が、むしろ立憲の精神にかなうのではないかという風に考えております。
申すまでもなく我国の政治の衝にあたり、この国政の運用を致して参る根本の精神は、どこまでも憲法の条規によって議会を尊重し、あくまでも憲法の範囲内において行って参らなければならぬことは、申すまでもないのであります。」
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近衛の病気をおしての答弁に政友会・民政党側に好感を与え、反対の空気は緩和される。
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「筆者はたまたまこの委員会を傍聴していたので、当時の雰囲気といきさつをいまもなまなましく記憶しているが、あれは決して偶発的な失言などではなく、倣慢無礼な佐藤の一言は、陸軍の政治上の態度を端的に表現したものであり、委員会の空気は当時における軍部ファシズムと、政党内部に残存した自由主義との対立相剋の集中的表現であった。
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委員長は民政党の財政通小川郷太郎であったが、陸軍と政党の対立の間に立って、その立場の苦しさをそのまま表現するような議事さばきであった。
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質問に立っていたのは大阪選出の政友会代議士板野友造であった。この気骨ある自由主義者は政府委員のアイマイな答弁にごまかされず、しっように食いさがった。
板野に代って立ったのは同じ政友会の宮脇長吉であった。宮脇は元蔵相三土忠造の実弟で、海軍将校の出身であるが、その追及は気魄にみちみちたものであった。宮脇の質問に対して答弁に立った佐藤は一説明員であるのに、この態度は倣慢不遜、政党などあたまからなめてかかったような口吻、あたかもものわかりのわるい生徒に小学校の先生が頭ごなしにいいきかせるようなものであった。
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果然、質問者宮脇や板野らの間から、「そんなことはわかっとる、われわれは君の法案説明をききにきたのではない、やめろ、やめろ」という妨害が入った。それでも佐藤は強引にその独善的な説明をつづけた。委員会はますます騒然とし、宮脇は立ちあがって説明を阻止するよう委員長の小川に要求した。こうしてついに佐藤は「だまれ」と叫んで委員会は蜂の巣をついたような混乱におち、蒼白となった佐藤はいつのまにか退席した。
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この間の委員長小川の態度は不見識をきわめ、佐藤や陸相の陳謝をもとめることもなくウヤムヤのうちに散会となってしまった。」(元国民新聞記者・北陸新聞編集局長木道茂久「国家総動員法の製作者」(「人物往来」昭和31年2月))。
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