2011年5月8日日曜日

東京 夏目坂 夏目漱石生誕地 漱石山房跡(漱石終焉地跡)

夏目漱石は、慶応3年(1867)正月5日、代々馬場下横町周辺の町名主を勤める家柄の夏目小兵衛直克(なおかつ)の五男として、この夏目坂に誕生。
父母は既に高齢であった為に、漱石は誕生後すぐにある古道具屋に里子に出されます。
その後一旦は実家に戻されますが、再び養子に出されます。
今度は、夏目家と同様に江戸時代は町名主を勤めた塩原家(直克の友人)です。
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その間、明治2年には町名主が廃止され、父の直克は二六組の中年寄に任命されます。
同時に、町名変更もなされ、馬場下横町が喜久井町となります。
夏目家の定紋が井桁(いげた)に菊なので、それにちなんで父直克が喜久井(菊に井戸)と名付けとといい、夏目坂も同じ時期に同じように直克が名付けたそうです(漱石「硝子戸の中」)
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明治9年には、養子先の塩原夫妻が離婚したため、養子縁組を解消して、漱石は実家に戻ることになります。
(実際には、その間に、養父母が不和になり、養母が引き取ったり、養父とその愛人が引き取ったりして、漱石の生活環境は複雑だったようです)
これらの幼児期の体験は、漱石自身に様々な影響を与え、その作品にも影を落としています。
代表的なのは「道草」でしょうか。
多くの評論家が色んな詮索をしてます。
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▼漱石生誕地の碑
地下鉄「早稲田」駅の二番出口を出てすぐ。
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▼四つ角に小倉屋さんという酒屋がありその右隣が漱石の生家跡ということで、碑があります。
この酒屋さんは、中山(堀部)安兵衛が決闘に向う前に一杯やったというお店だそうで、その時の升も現存しているとか(但し非公開)

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▼漱石山房への道
早稲田通りに正法寺というお寺があり、これを右折して直進すると山房跡があります。
正法寺の脇には下のような道標があり、この脇を直進します。
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▼漱石山房
漱石は、千駄木の「猫の家」から西片に移り、朝日新聞に入社後の時期に、生家に近いこの地に移ります。
全て借家です。
いわゆる文士の羽振りが良くなるのは、昭和初期の「円本ブーム」以降のようです。
「猫の家」は、現在は明治村の保存されていますが、この山房は空襲で焼けたそうです。
ただ、蔵書類は予め疎開させていて無事だったとのこと。

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▼猫塚
「吾輩は猫である」の主人公「吾輩」も、千駄木~西片~早稲田へと漱石一家とともに移動し、漱石同様にここで終焉を迎えたとのことで、庭に石を組んでお墓を建てたそうです。
もちろん、空襲でやられてますので、これも復元したものです。
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▼無料パンフレット「漱石山房の思い出」
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「★東京インデックス」 をご参照下さい。
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2011年5月7日土曜日

「自民 原発推進派はや始動」の報道。 「地元が要請、雇用に貢献」「低線量放射線、体にいい」と加納氏。

色んな事が起って5月5日付けの新聞記事も所謂「古新聞」かも知れないが、同日付け「朝日新聞」朝刊の記事でどうしても気になることが。
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見出し「自民 原発推進派はや始動 「原子力守る」政策会議発足」というもの。
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言い出したらキリがなく面倒なんで、一つだけ。
同じ記事で自民党内の推進派と非推進派のインタビュー記事があった。
非推進派は河野太郎氏。
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推進派は加納時男氏。
このヒトの主張は、
大見出しは、「原子力の選択肢を放棄するな
小見出しは、①「地元が要請、雇用に貢献」と、
②「低線量放射線、体にいい
というもの。
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気になるのはこの②「低線量放射線、体にいい」という個所。
今まで①はよく聞いていましたが、②まで出てきました
以下、こんなふうに主張してます。

「低線量の放射線は『むしろ健康にいい』と主張する研究者もいる。説得力があると思う。私の同僚もも低線量の放射線治療で治った。過剰反応になっているのでは。むしろ低線量は体にいい、ということすら世の中では言えない。これだけ申し上げたくて取材に応じた。」
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低線量の放射線が健康によく体に良かったとしても、それじゃ原発をどんどん作りましょう、ということには直接的にも間接的にも繋がらない。
これは、土俵外で勝負しようという論点「すり替え」である。
これは、小見出し①「地元が要請、雇用に貢献」も同じであるが。
①②が原発推進の理屈になるのか、「福島」以降、よく吟味しなければならない。
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もっともこの方、河野太郎氏に対して、
「社民党に推薦しますよ。福島瑞穂党首は私の大学の後輩だから。」と、
もうムチャクチャなことも言っている。
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「原子力のことを知らない素人がとやかく言うな」、というこれまでの原発推進派の高圧的、強権的態度はまだまだ健在である。
こほヒト(たち)には、反省とか謝罪などとんでもない論外なのである。
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同日同紙夕刊「素粒子」は、さすがに、
この際、そんなに原発が必要なら東京に建設するかどうか議論しようよ、
と原発推進派を挑発している。
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カン氏が、浜岡の「一時停止」を中電に要請した。
発表の際のカン氏、どこか自信なさげだった。
財界の皆さん、こんなこと言ってゴメンナサイのように見えた。
津波対策をすればOK、心配なのは東海地震(南海地震は対象外)、という条件付きなのにネ。
浜岡については、私の知る限りでは、地元自治体の首長もその安全性に大きな危惧を持っているようだし、もっと自信を持っても言いと思う。
それに、上に書いた自民党と、民主党との差も際立つのに。
もっと堂々としていれば、「仮免」から「本免」に切り替え出来たのに、残念。
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ついでに、5月3日付け「朝日新聞」朝刊。
見出し「保安院予測も未公表 放射能拡散 『パニックを懸念』」 という記事。
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細野というカン氏の補佐官は、
「1日まで、データの存在は知らなかったといい、公開せずにいた理由を『国民がパニックになることを懸念した。きちんと開示すべきだった』と説明した。」
という。
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「懸念」したのが保安院なのか細野なのか、記事だけでは不明であるが、「知らなかった」はアヤシイし、オカシイ。
もし「知らなかった」のなら、職責を全うしていなかったということなので、少なくとも言い訳か謝罪が必要。
そもそも保安院は、自主的に、誰にも知らせずにこっそりと、予測をしたのだろうか。
「パニックになることが懸念される」くらいヒドイ状況だったら尚のことである。
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昭和16年(1941)5月8日 「戦争此のかた若き女の他處へ移住することを禁ぜられたり。」(永井荷風「断腸亭日乗」) 

昭和16年(1941)5月前半部分の永井荷風「断腸亭日乗」です。
改行を施しています。
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荷風さんの季節の感じかた、陋巷歩き、物資不足・統制と軍人特権への怒り、などが見えます。
5月8日条の「肉なし日」の設定は知ってましたが、標題にした「若い女性の移住禁止」は知りませんでした。農業生産力確保のためでしょうか?
日頃よく知る玉の井の女性の顔型、言葉から出身地を言い当てるのはさすがです。

昭和16年(1941)5月1日
・五月初一 舊四月六日 終日家に在り。一鳳の傳奇作書を讀む。
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5月2日
五月初二。 晴れて風烈し。午後房陽山人来話 金百圓用立 薄暮銀座に飰し淺草を歩す。
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5月3日
五月初三。 牛後淺草に至り三社権現祠後の石碑を見る。並木五瓶の碑面の書は抱一の筆なりと云ふを聞きたればなり。京傳机塚の碑も今猶在り。
池の藤さき初めたり驟雨をオペラ館に避く。
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5月4日
・五月初四 日曜日 晴。哺下曳舟請地あたりの陋巷を歩す。日のくれてより半月あきらかなり。
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5月5日
五月初五。晴。午後銀座教文館にてアンクルトムの家を購はむとせしが無し。土州橋より淺草に至り踊子と共に夕餉を中西に喫してかへる。
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5月6日
五月初六。晴。貪眠半日。燈刻七時過出でゝ銀座に飰す。
数日來市中いづこの煙草屋にも巻煙草なし。或店にてきくに毎日配給あれど早朝一二時間にて賣切となると云。
日本酒の配給は一家族に一個月一合の割當なり。これは飲食店へ配給せし残りの酒なるぺし。理研とやらにて化学的に調合せし酒なれば一種の臭氣ありて口にし難し。土方の飲む惡酒なりと言ふものもあり。
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5月8日
五月初八。晴。市兵衛町大掃除なり電話にて近處の派出婦會より女を雇ふに、年二十二三圓顔の女もんぺをはきて來る。その顔と言葉使玉の井にて知る家の出方そつくりなれば、故郷は山形縣ならむと問ふにさうです、と言へり。
戦争此のかた若き女の他處へ移住することを禁ぜられたり。汽車の中にても捕へらるゝ時は直に送還せらるゝなり。親類にて東京に居住するものあれば前以て打合せをなし理由をつけて東京に旅出つなりと云ふ。江戸時代のはなしを聞く心地す。
夜淺草に行く。菅原氏夫妻に逢ふ。
今月より八の日は肉食禁止となりし由にて銀座淺草とも飲食店過半店をしめたり。
〔欄外朱書〕毎月八ノ日牛豚鶏肉ヲ賣ル 及料理店ニテ肉類ヲ出ス ヲ禁ズ
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5月9日
五月初九。くもりて風冷なり。庭の躑躅の花早や既に散盡したり。夜ふけて雨聾頻なり
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5月10日
五月十日。午後雨霽れて俄に暑し。夜淺草に飰してオペラ館楽屋を訪ふ。踊子大部屋に左の如き紙片落ちてあり。滑稽なればこゝに轉写して笑を後世に傳るよすがとなす。

拝啓各位愈々御清祥の程賀奉ります。さて時局の進展は益藝能文化によつて戦時國民生活を側衛するの急なるを感じます。
吾等はこゝに時局認識をお互に徹底し職域奉公の誠を效す目的を以て今回文部省社会教育局長及聖戦遂行に日夜砕心せらるゝ陸海軍当局要路の方々より御講話拝聴の會を左記次第にて開催致す事と相成りましたから是非御來聴下さる様御通知申上げます。
藝能文化聯盟会長
伯爵 酒井忠正
東京興行者協會技藝者各團體會員各位
藝能翼賛講演会次第
日時 四月九日水 開場午前十一時半開會午後零時半
場所 日比谷公會堂
挨拶 藝能文化聯盟会長 伯爵 酒井忠正
講演 文部省社會教育局長 纐纈彌三殿
陸軍大佐      馬淵逸雄殿
海軍大佐      平出英夫殿
映画 陸軍省特別提供日本陸軍の威容四巻
海軍省特別提供空の少年兵四巻
主催 藝能文化聯盟
後援文部省 情報局 大政翼賛會
尚御來場の節は御面倒乍ら本状を御持参願ひます
〔欄外朱書)側衛トハ見馴レヌ語ナリ何人ノ作リシモノニヤ
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5月11日
・五月十一日。日曜日 晴。薫風颯々たり。
夜銀座に飰す。頃日耳にしたる市中の風聞左の如し。

一 角力取の家にはいづこも精米無盡蔵なり。南京米など食ふものは一人もなし。精白米は軍人の贔負客より貰ふなりと云。

一 五月八日戦死兵士遺族九段招魂社に招待せられし時偕行社にて出したる料理は西洋食にて肉多かりし由。
市中は八日の禁肉當日なるにこゝのみは酒池肉林の荘観を呈したり。
又歌舞伎座へ遺族を招待せし時、食堂の掃除人折詰弁當の空きたる箱折また紙包の類をかき集め一時に之を料理場のストーブに押込み燃やせしに、煙突より火焰吹き出でたり。附近の消防暑にては火事と思ひポンプを急送する中、煙突の火焰は消え失せたり。
市中の夕刊新聞この事を記載せんとせしに、招魂社招待の饗宴當日の事は其場所を問はず一切報道する事を禁ずる由軍部より差止めになりたりと云ふ。

一 築地邊の待合料理店は引きつゞき軍人のお客にて繁昌一方ならず。公然輸出入禁止品を使用するのみならず暴利を貪りて賣るものあり。
待合のかみさんも此頃は軍人の陋劣なるには呆れ返つてゐる由なり。

一 俳優尾上菊五郎其伜菊之助徴兵検査の際内々贔負筋をたより不合格になるやう力を盡せしかひありて一時は入営せしがその翌日除隊となりたり。
菊五郎はもう大丈夫と見て取るや杏や、伜の除隊を痛歎し世間へ顔向けが出來ぬと言ひて誠しやかに聲を出して泣きしのみならず聯隊長の家に至り不忠の詫言をなしたり。
聯隊長は何事も知らざれば菊五郎は役者に似ず誠忠なる男なりと、これ亦嘘か誠か知らねど男泣きに泣きしと云ふ。

一 大谷竹次郎の伜龍造とやら云ふ者、これは父竹次郎その身分を利用し餘り諸方へ伜不合格になるやうに頼み廻りしため検査の時却て甲種合格となりたりと云。
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5月12日
五月十二日。晴又陰。市中の煙草店煙草いよいよ不足となれり。刻煙草も早朝賣切れとなる由。但し軍部に関係ある者また新橋の花柳界は不自由することなしと云。
余が机上には両三年前買置きたるリツチモンドの鑵も今は僅に一個を残すのみとなれり。
先夜新橋より乗りたる円タクの運轉手は四十ばかりなるがガスリンも米も煙草も皆不足なれど女ばかりは不足せず、米や酒は節約せよとの命令なれど夜中は淫行は別に節制のお觸れもなし。
松の實かにんにくでも食つて女房と乳くり合ふより外に楽しみはなき世の中になりましたと語れり。
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5月14日
五月十四日。くもりて風冷なり。富士山に雪降りしと云ふ。・・・
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「★永井荷風インデックス」 をご参照下さい。
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2011年5月6日金曜日

紫蘭が咲いた

一週間ほど前から、例年のように、我が家の庭に紫蘭が咲き始めました。
まだまだどんどん数は増えてくるので楽しみです。
一部は切り花にして玄関にも飾ってあります。



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「★四季のうつろいインデックス」 をご参照下さい。
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2011年5月5日木曜日

永井荷風年譜(9) 明治37年(1904)満25歳~明治38年(1905)満26歳 「如何なる点からしても戦争と云ふ事に幾分の趣味も有する事が出来ない」  娼婦イデスとの耽溺生活

永井荷風年譜(9) 
明治37年(1904)満25歳
ゴーチェ、アランポーなどの詩を読んで伝奇小説を書きたいと思い、一方では「平家物語」「栄華物語」なども読み返など多様な傾向の読書に励む。
ある種の思想混乱状態であった。
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2月9日
日露戦争開始。 
4月8日
自転車でサウスタコマに遊び、広い牧場に感動する。
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4月26日
この日付の生田葵山宛書簡でゾラからモーパッサンへの関心の推移を告白。
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5月初め
西洋人の家に移る。
バルザックを読み始める。
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6月1日
この日付け弟(貞二郎)宛て手紙 
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「余と雖も幼かりし昔を顧れば、楠(楠木)正成を神と思ひ足利尊氏を世界の最大悪人と思つて疑は無かつた無邪気な時代もあつたのだ。
教育の結果か、何か知らぬが、人間と云ふものは、変る時は恐しく変るもの、余は如何なる点からしても戦争と云ふ事に幾分の趣味も有する事が出来ない
又国家と云ふものを尊重する事が出来ない
諸行無常、栄枯盛衰が真理であるからには、好し、日本国が、露西亜見た様に大きな大帝国になった処で仕方がないぢや無いか。
羅馬帝国も矢張一度は亡びて了つたものです」
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荷風の戦争観、歴史観を示す。
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6月27日
日本からの便りで斉藤緑雨の不遇の死を知り、江戸狭斜の情趣が死んだと惜しむ。
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六月二十七日 故国より送来れる新聞雑誌は斉しく斎藤緑雨の訃を伝へたり。
余は其の伝を読みて誠に人事ならぬ悲しみを覚えたり。
緑雨が生涯の不幸は彼自らの性格のなせし処なりしと。
あゝ江戸狭斜の情趣を喜び味ひたるものは遂に二十世紀社会の生存競争には堪へ得ざるものなるけつ歟」
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斎藤緑雨は辛辣な批評で鳴らした明治の文学者であり、『油地獄』『かくれんぼ』といった小説も書いているが、荷風の言葉で表現すれば「明治が生んだ江戸追慕の詩人」(『深川の唄』)であった。江戸趣味の賛美者であった緑雨は文壇や社会における「新傾向」をことごとく皮肉たっぷりに攻撃したことで知られる。そんな緑雨に深い哀悼の意を表しているところに荷風の意外な「反動」意識が見て取れる。
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7月28日
この日付け後藤宙外(春陽堂「新小説」の主宰者)に絵葉書を送る。
「戦争の影響を受けざる『新小説』は毎号面白く拝見致し居り」と書く。
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9月
トルストイの自叙伝「幼年時代」「少年時代」を読む。 
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10月8日
セントルイス万国博覧会に行くためタコマを出発。ロッキー山脈を越えミシシッピー川を渡る。
13日夜、セントルイス着。「疲労甚しく殆ど倒れんとす」(『西遊日誌抄』)。
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10月24日
カークウッドの農家に移る。
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11月16日
ミシガン州カラマズ大学の聴講生として学ぶことを決心する。南の方が好きだという。
22日、カラマズに到着し下宿。
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11月28日
正式な入学許可を得てフランス語講座出席が決まる。
英文学とフランス語を主に聴講(フランス語初級の単位を取得)。
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12月28日
短篇小説「岡の上」を脱稿、木曜会に送付。翌明治38年6月1日「文藝倶楽部」に発表。
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明治38年(1905)満26歳
1月2日

旅順港陥落の報。
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1月
父親がアメリカへ来るが荷風とは会えず。
父親の来たのはシアトルで、荷風はすでに3,000Km離れたカラマズにいる。
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3月中旬
シカゴに遊ぶ。「市俄古の二日」執筆。
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4月1日
この日付け西村恵次郎(渚山)宛て手紙
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「春画は何よりの好物、アリガタウアリガタウ! 
然し不思議ですね、一年半ばかり此の国に居て、日本の春画を見るのは君のと、その少し以前湖山が呉れたのとを見たのが初めてです。
所が少しの間に風俗と境遇が違つて居るので、日本の春画は可笑しいばかりで、少しも実感を起させない。
実感の点からと云ふと足踊りをやツて居る安芝居の広告画の方が遥に有力なのです。
今日春情実感を起させる一番有力なのは、女のペチコートの間から、ほの見える足の形一ツです。細い舞り靴をはいた女の足……此れが一番微妙な妄想を起させるです。
靴と靴足袋とを取つて了つた素足になると、最う駄目です。
裸体画かスタチューでも見る様で、実感は却て薄らぐ」
*西村恵次郎:
巌谷小波(博文館編集局の責任者)の門下生で同編集部員
荷風は、小波が主宰する文学サークル「木曜会」に参加しており、西村とは親しい間柄。
西村宛ての荷風の手紙には面白いことが多いという。
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5月5日
カラマズ大学の芸文学会で、"The Japanese Newest Play Of New Japan"と題して英語で講演し、尺八の独奏を披露。
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5月25日
この頃起稿した「春と秋」を浄写。明治40年10月1日「太陽」掲載。
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6月14日
カレッジの講座終了。ペンシルバニアの友人に会うため、カラマズを出て、16日、ナイアガラの滝近くのキングストンに到着。2週間滞在。
30日、ニューヨークに向う。
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7月8日
アメリカの生活が詩情を喜ばせる点に欠けているのを嘆じ、従弟の永井松三(号素川)にフランスに渡り文学を研究したいと相談する。
松三は荷風の意向に賛意を示し、まず旅費を捻出するために、ワシントンの日本公使館の臨時雇いを紹介してくれる。
19日、ワシントンに到着、公使館に居住し、20日より勤務を始める。
ワシントンの夏は炎熱極まりなし。
(「車中炎熱殆ど忍ぶ可からず」、温度計は華氏110度(摂氏43度)だったという。)
*
日露戦争終結に当たって公使館の業務が多くなり、人手を求めていた。
荷風の仕事は、「毎朝役人の出勤する前に事務室を掃除し郵便物を調べ電話の取次をなし新聞を取揃へる」くらいのことで、「夜間は読書の暇充分」。
したがって「日露談判結了の日までこゝに労働し其の給金と故国よりの送金とを合算して秋風と共に一躍大西洋を越えて仏蘭西に行かん」と『西遊日誌抄』に記している。
*
永井松三は、荷風の父の弟・永井松右衛門の長男で、荷風より2歳8ヶ月年長。
一高~東京帝大政治学科~外務省というエリートで、この時、入省3年目でニューヨークの日本領事館に勤務。
その後、天津、ニューヨーク、ワシントンに勤め、外務次官となり、昭和8年には特命全権大便としてドイツに赴く。
*
8月3日
モーパッサン「水の上」を原書で読み始める。
*
8月29日
父が荷風のフランス行きに反対すると言ってくる。
*
9月13日
酒場の娼婦イデスとの交情深まり耽溺生活に浸る。
* 
九月十三日 朝夕の風身にしむやうになりぬ。
美しき燈火の光の恋しさに夜下町の寄席に入るに訳もなき愚なる俗曲却て客愁を動す事深し。
一酒舗の卓子にカクテール傾くる折から不図わが傍なる女(これがイデスなり)の物云ひかくるがまゝに打連れてポトマック河上の公園を歩み遂に誘ほれて其の家に至る。」(「西遊日誌抄」)
*
九月廿三日 再び家書を得たり 仏国に遊ばんと企てたる事も予期せし如く父の同意を得ざりき。
今は読書も健康も何かはせん。
予は淫楽を欲して巳まず。淫楽の中に一身の破滅を冀ふのみ
先夜馴染みたる女の許に赴き盛にシャンパンを倒して快哉を呼ぶ」(「西遊日誌抄」)
*
淫楽を父が荷風のフランス行に反対した事への反抗のせいにする
*十月八日 二年前の今月今夜余は初めて舎路の港に着し夜泊の船上新世界の山影を月明の中に眺めたるなり。
二年の後今夜亦月明水の如し 感慨極りなく眠る能はず独り公使館の後庭に出でゝ厩のほとりの石に腰かくるに樹影参差として草の上にあり涼露蕭々雨の如くに衣を潤せり。
余はさまざま身の行く末を思ひやりて唯尽せぬ愁に打沈むのみ」
*10月16日
日露講和もなり、公使館の臨時雇いも今月限りとなる。
この日、イデスにニューヨークに戻ることを告げる。
「彼の女が化粧の香高く薫るさま何となく薔薇咲く春夜の庭に在るが如き思なり。
余は程なくこの都を後に紐育に去るべきよし語出でしに彼の女は暫く無言にて唯だ腹立たし気に細き靴の先にて散積る落葉を音高く蹴たりしが忽余が身を堅く抱きて声をもらせさらば今宵より毎夜わが家に来てたまはれかし、執根く跡は追ふまじければ別るゝ日まで一日に必ず一度来てたまはれかしとてひたとわが胸に其の顔押当てたり」
*
「鳴呼人の運命ほど測りがたきはなし。異郷の街の旅より旅にさまよひ歩みて、将に去らんとする時この得がたき恋に逢ふ。余は明日を待たで死するも更に憾みなし」(「西遊日誌抄」)
*
10月30日
この日をもって公使館を解雇される。
*
11月2日
ニューヨークに帰り、イースト・サイドの日本人経営のホテルに宿泊。
住込みの仕事を探したが適当なものがなく、11日、ふたたびカラマズに向けて出発。
*
11月24日
父の配慮で正金銀行ニューヨーク支店に勤務する手筈が整う。 
*
「十一月三十日 紐育出張店支配人より電報あり。兎に角来談すべしといふ。
余は突然華盛頓にて別れたるイデスの事を思ひ出し余若し紐育の銀行に勤務の身とならば両地の距離わづかに急行列車の半日に過ぎざれば再び相逢うて暖き接吻に酔ふ事を得べし。
かく思へは今は経済原論の一頁だも知らざる身を顧みるべき暇あらず、両三日中に当地を引払ひて馳せ赴くべき旨返電す」
*
12月4日
ミシガンのカラマズを去り、ニューヨークに着く。
*
12月7日
この日より出社。
銀行の仕事は死ぬほど嫌だと悩むが、荷風を実業家させたい父に反抗しながらも、その指示に従っている。
毎夜、酒屋に入り浸り娼婦と戯れ、オペラを見て慰める日々である。
*
(十二月七日)
「若し此度父の望める銀行に入らずば永久父と和するの機会あらざるべしと△△子(従兄松三)の忠告により流石に我儘も云兼ねたるなり。
美の夢より外には何物をも見ざりし多感の一青年は忽ち世界商業の中心点なるウォールストリイトの銀行員となる。・・・何等の滑稽ぞや」。
*
(十二月八日)
余の生命は文学なり

家庭の事情止むを得ずして銀行に雇はるゝと雖余は能ふ限りの時間をその研究にゆだねざる可からず。
余は信ず他日必ずかの『夢の女』を書きたる当時の如き幸福なる日の再来すべきを。
余は絶望すべきにあらずと自ら諌め且つ励ましたり
然も余は一時文芸に遠ざからざる可からざる事を思ふ時は何等か罪悪を犯したるが如く又探き堕落の淵に沈みたるが如く感じて心中全く一点の光明なし」(「西遊日誌抄」)
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12月14日
夜、サラ・ベルナールの「サッホオー」を見て深く感銘し、以後、「フェードル」「妖姫(ソルシエール)」などを続けて鑑賞。
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12月25日
チャイナ・タウンの酒場でクリスマスを祝う。
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「★永井荷風インデックス」 をご参照下さい。
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2011年5月4日水曜日

横浜 氷取沢(ひとりざわ)市民の森に行ってきました

5月3日の憲法記念日
あいにくの曇り空でしたが、横浜市の氷取沢市民の森というところに行ってきました。
軽い山歩きでした。
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▼小山あり小川あり

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▼山の中腹のフジ
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▼一息ついたところでの遠望
多分、金沢八景あたりではないでしょうか
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▼山の周囲は農村風景が広がっています。
「さやえんどう」の花が咲いていました。
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▼近くに氷取沢ファミリー牧場というのがあり、アルパカの飼育していました。
時間を区切ってのアトラクションもあるようです。
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「★横浜インデックス」 をご参照下さい。
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2011年5月3日火曜日

東京 靖国神社 本殿裏の池の畔 武道館では清志郎の三回忌コンサート

GWのさ中の5月2日。
私は出勤。
当然ですが、JRも東京の地下鉄もいつもの混雑はなし。
職場も若い人はお休みが多かった。
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この日、江戸城東御苑は休園なので、昼休みに靖国神社へ。
桜も終り、余り見るべきものも無かったのですが、本殿裏の池の畔の緑がきれいでした。


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▼武道館では、忌野清志郎さんの三回忌のコンサート
昼間から駐車場待ちの車列ができていました。
清志郎といえば、福島の原発人災が世界の注目を集めているこの時期、彼の歌った「反原発」の歌を連想します。
果してこの日、この歌が流れるのか?、と気にしていましたが、やっぱり「やりました」ね。
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下記をご参照下さい。
「スポーツ報知」
「日刊スポーツ」
また、
歌の詳細はコチラがよくわかる


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▼グッズ売り場のディスプレイを撮りました。
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2011年5月1日日曜日

鎌倉散歩(2) 海蔵寺 寿福寺

▼化粧(けわい)坂を下りきって、左折すると「花の寺」海蔵寺
この辺りでいつも感心するのは、このお寺への道筋の民家に、殆どといっていいくらいにモミジが植わっていて、お寺へのアプローチの段階から統一された景観が観れることです。
穿った見方をすれば、この両側の民家の区域も、もとはこのお寺の寺域であったのかも・・・(失礼)。
端正な庭ですごく気持ちのいいお寺です。





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▼寿福寺
政子さんのお寺。
この日は、珍しく(・・・というか、初めてですが)、庭が解放されていました。
しかし、このお寺は参道が一番です。

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このあと、小町通りの混雑の中をひと回りして帰宅。
何とかというピロシキのお店には50人くらいの行列ができてました。
そのすぐ隣の、つい最近テレビで「石ちゃん」が紹介していたシラス入りたこ焼きのお店には行列なしでした。
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夏目漱石「吾輩は猫である」再読私的ノート(6の2) 「・・・考へると女は罪な者だよ。」

夏目漱石「吾輩は猫である」再読私的ノート(6の2)
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迷亭がようやく蕎麦を飲み込み終った時、そこへ寒月がやって来る。
寒月の博士論文のテーマは「蛙の眼球(めだま)の電動作用に対する紫外光線の影響」という。
また、その為に球を磨く実験を続けているらしい。

迷亭と老梅(後出)の失恋話から、「男と女」の話題に移って行く。
・・・考へると女は罪な者だよ」と迷亭が云ふ。

苦沙弥先生は、これを引き受けて
「本当にさうだ。先達てミュッセの脚本を読んだら其うちの人物が羅馬(ローマ)の詩人を引用してこんな事を云つて居た。 
--- 羽より軽い者は塵である。塵より軽いものは風である。風より軽い者は女である。女より軽いものは無である。 
--- よく穿(うが)つてるだらう。女なんか仕方がない」と妙な所で力味(りき)んで見せる。

之を承つた細君は承知しない。
「女の軽いのがいけないと仰しやるけれども、男の重いんだつて好い事はないでせう」
「重いた、どんな事だ」
「重いと云ふな重い事ですわ、あなたの様なのです」
「俺がなんで重い」
「重いぢやありませんか」
・・・と妙な議論が始まる。

面白そうに聞いていた迷亭が、
「さう赤くなって互に弁難攻撃をする所が夫婦の真相と云ふものかな。どうも昔の夫婦なんてものは丸で無意味なものだつたに違ひない」
と、ひやかすのだか賞めるのだか曖昧な事を言う。

「昔は亭主に口返答なんかした女は、一人もなかつたんだつて云ふが、夫(それ)なら唖(おし)を女房にして居ると同じ事で僕などは一向難有(ありがた)くない。
矢つ張り奥さんの様にあなたは重いぢやありませんかとか何とか云はれて見たいね。
同じ女房を持つ位なら、たまには喧嘩の一つ二つしなくつちや退屈で仕様がないからな。・・・」

(迷亭の話はいつもの様にヘンな風にそれて行く)
・・・奥さん近頃は女学生が堕落したの何だのと八釜敷(やかましく)云ひますがね。なに昔はこれより烈しかつたんですよ」
「さうでせうか」と細君は真面目である。
「さうですとも、出鱈目ぢやない、ちやんと証拠があるから仕方がありませんや。
苦沙弥君、君も覚えて居るかも知れんが僕等の五六歳の時迄は女の子を唐茄子(たうなす)の様に籠へ入れて天秤棒で担いで売つてあるいたもんだ、ねえ君」
「僕はそんな事は覚えて居らん」
「君の国ぢやどうだか知らないが、静岡ぢや慥(たし)かにさうだった」
「まさか」と細君。

迷亭は更に続けて、
「・・・然し明治三十八年の今日こんな馬鹿な真似をして女の子を売ってあるくものもなし、・・・。
だから、僕の考では矢張泰西文明の御蔭で女の品行も余程進歩したものだらうと断定するのだが、どうだろう寒月君」と、寒月に向って言う。

寒月は、
「此頃の女は学校の行き帰りや、合奏会や、慈善会や、園遊会で、ちよいと買つて頂戴な、あらおいや?杯と自分で自分を売りにあるいて居ますから、そんな八百屋の御余りを雇って、女の子はよしか、なんて下品な依託販売をやる必要はないですよ。
人間に独立心が発達してくると自然こんな風になるものです。老人なんぞは入らぬ取越苦労をして何とか蚊とか云ひますが、実際を云ふと是が文明の趨勢(すうせい)ですから、私杯は大に喜ばしい現象だと、ひそかに慶賀の意を表して居るのです。
買ふ方だつて頭を敲(たた)いて品物は確かゝなんて聞く様な野暮は一人も居ないんですから其辺は安心なものでさあ。
又此複雑な世の中に、そんな手数をする日にあ、際限がありませんからね。五十になつたつて六十になつたつて亭主を持つ事も嫁に行く事も出来やしません」と大に当世流の考を開陳する。

これを受けて迷亭は、
「仰せり通り方今(ほうこん)の女生徒、令嬢抔は自尊自信の念から骨も肉も皮まで出来て居て、何でも男子には負けない所が敬服の至りだ
僕の近所の女学校の生徒抔と来たらえらいものだぜ。筒袖を穿いて鉄棒(かなぼう)へぶら下がるから感心だ。僕は二階の窓から彼等の体操を目撃するたんぴに古代希臘(ギリシヤ)の婦人を追懐するよ」
「又希臘か」と苦沙弥先生。

「どうも美な感じのするものは大抵希臘から源を発して居るから仕方がない。・・・」と、
古代ギリシャの婦人が婦人に禁じられていた産婆業を当局に認めさせた逸話を紹介する。
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その「六の三」に続く
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鎌倉散歩(1) 円覚寺 浄智寺 源氏山公園 化粧坂

GWの4月30日、久しぶりに鎌倉を散歩。
コースは、JR北鎌倉駅~源氏山~化粧坂経由~海蔵寺~寿福寺~小町通り~JR鎌倉駅です。
天候は晴れ、但し雲は多い。温度は20℃を少し超えた程度で歩くと丁度いいくらい。
ヒトは勿論多い。
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▼新緑に包まれた円覚寺
ここはパスしました。
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▼浄智寺
このお寺も、映画撮影で使われた参道までで、お寺の中まではパス
この脇から、山に入ります。
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▼これから入って行く山
新緑に包まれています
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▼葛原ヶ岡神社に白いアジサイが咲いていました
首を討たれた朝臣を祀る神社が、どうして縁結びの神様になるのか不思議?
神社は明治になってから建立されたもの
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▼源氏山公園
左にもみじ、右に桜(多分カンザン)、その後ろにイチョウという配置
すこしづつ季節が外れていますが、実物はもう少しキレイでした。
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▼化粧(けわい)坂を下る
鎌倉七口の一つ
鎌倉に侵攻した新田義貞も、ここは抜けなかったそうです。
険しい坂ですが、今はかなり短く、一時の険しさだけです。
多分一年中、陽が当たらないらしくじくじくした個所もあります。
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▼化粧坂の碑
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▼山中にさくフジ
化粧坂を下りきったところの、向いの山にフジがたくさん咲いていました。
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