2011年5月7日土曜日

昭和16年(1941)5月8日 「戦争此のかた若き女の他處へ移住することを禁ぜられたり。」(永井荷風「断腸亭日乗」) 

昭和16年(1941)5月前半部分の永井荷風「断腸亭日乗」です。
改行を施しています。
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荷風さんの季節の感じかた、陋巷歩き、物資不足・統制と軍人特権への怒り、などが見えます。
5月8日条の「肉なし日」の設定は知ってましたが、標題にした「若い女性の移住禁止」は知りませんでした。農業生産力確保のためでしょうか?
日頃よく知る玉の井の女性の顔型、言葉から出身地を言い当てるのはさすがです。

昭和16年(1941)5月1日
・五月初一 舊四月六日 終日家に在り。一鳳の傳奇作書を讀む。
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5月2日
五月初二。 晴れて風烈し。午後房陽山人来話 金百圓用立 薄暮銀座に飰し淺草を歩す。
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5月3日
五月初三。 牛後淺草に至り三社権現祠後の石碑を見る。並木五瓶の碑面の書は抱一の筆なりと云ふを聞きたればなり。京傳机塚の碑も今猶在り。
池の藤さき初めたり驟雨をオペラ館に避く。
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5月4日
・五月初四 日曜日 晴。哺下曳舟請地あたりの陋巷を歩す。日のくれてより半月あきらかなり。
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5月5日
五月初五。晴。午後銀座教文館にてアンクルトムの家を購はむとせしが無し。土州橋より淺草に至り踊子と共に夕餉を中西に喫してかへる。
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5月6日
五月初六。晴。貪眠半日。燈刻七時過出でゝ銀座に飰す。
数日來市中いづこの煙草屋にも巻煙草なし。或店にてきくに毎日配給あれど早朝一二時間にて賣切となると云。
日本酒の配給は一家族に一個月一合の割當なり。これは飲食店へ配給せし残りの酒なるぺし。理研とやらにて化学的に調合せし酒なれば一種の臭氣ありて口にし難し。土方の飲む惡酒なりと言ふものもあり。
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5月8日
五月初八。晴。市兵衛町大掃除なり電話にて近處の派出婦會より女を雇ふに、年二十二三圓顔の女もんぺをはきて來る。その顔と言葉使玉の井にて知る家の出方そつくりなれば、故郷は山形縣ならむと問ふにさうです、と言へり。
戦争此のかた若き女の他處へ移住することを禁ぜられたり。汽車の中にても捕へらるゝ時は直に送還せらるゝなり。親類にて東京に居住するものあれば前以て打合せをなし理由をつけて東京に旅出つなりと云ふ。江戸時代のはなしを聞く心地す。
夜淺草に行く。菅原氏夫妻に逢ふ。
今月より八の日は肉食禁止となりし由にて銀座淺草とも飲食店過半店をしめたり。
〔欄外朱書〕毎月八ノ日牛豚鶏肉ヲ賣ル 及料理店ニテ肉類ヲ出ス ヲ禁ズ
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5月9日
五月初九。くもりて風冷なり。庭の躑躅の花早や既に散盡したり。夜ふけて雨聾頻なり
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5月10日
五月十日。午後雨霽れて俄に暑し。夜淺草に飰してオペラ館楽屋を訪ふ。踊子大部屋に左の如き紙片落ちてあり。滑稽なればこゝに轉写して笑を後世に傳るよすがとなす。

拝啓各位愈々御清祥の程賀奉ります。さて時局の進展は益藝能文化によつて戦時國民生活を側衛するの急なるを感じます。
吾等はこゝに時局認識をお互に徹底し職域奉公の誠を效す目的を以て今回文部省社会教育局長及聖戦遂行に日夜砕心せらるゝ陸海軍当局要路の方々より御講話拝聴の會を左記次第にて開催致す事と相成りましたから是非御來聴下さる様御通知申上げます。
藝能文化聯盟会長
伯爵 酒井忠正
東京興行者協會技藝者各團體會員各位
藝能翼賛講演会次第
日時 四月九日水 開場午前十一時半開會午後零時半
場所 日比谷公會堂
挨拶 藝能文化聯盟会長 伯爵 酒井忠正
講演 文部省社會教育局長 纐纈彌三殿
陸軍大佐      馬淵逸雄殿
海軍大佐      平出英夫殿
映画 陸軍省特別提供日本陸軍の威容四巻
海軍省特別提供空の少年兵四巻
主催 藝能文化聯盟
後援文部省 情報局 大政翼賛會
尚御來場の節は御面倒乍ら本状を御持参願ひます
〔欄外朱書)側衛トハ見馴レヌ語ナリ何人ノ作リシモノニヤ
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5月11日
・五月十一日。日曜日 晴。薫風颯々たり。
夜銀座に飰す。頃日耳にしたる市中の風聞左の如し。

一 角力取の家にはいづこも精米無盡蔵なり。南京米など食ふものは一人もなし。精白米は軍人の贔負客より貰ふなりと云。

一 五月八日戦死兵士遺族九段招魂社に招待せられし時偕行社にて出したる料理は西洋食にて肉多かりし由。
市中は八日の禁肉當日なるにこゝのみは酒池肉林の荘観を呈したり。
又歌舞伎座へ遺族を招待せし時、食堂の掃除人折詰弁當の空きたる箱折また紙包の類をかき集め一時に之を料理場のストーブに押込み燃やせしに、煙突より火焰吹き出でたり。附近の消防暑にては火事と思ひポンプを急送する中、煙突の火焰は消え失せたり。
市中の夕刊新聞この事を記載せんとせしに、招魂社招待の饗宴當日の事は其場所を問はず一切報道する事を禁ずる由軍部より差止めになりたりと云ふ。

一 築地邊の待合料理店は引きつゞき軍人のお客にて繁昌一方ならず。公然輸出入禁止品を使用するのみならず暴利を貪りて賣るものあり。
待合のかみさんも此頃は軍人の陋劣なるには呆れ返つてゐる由なり。

一 俳優尾上菊五郎其伜菊之助徴兵検査の際内々贔負筋をたより不合格になるやう力を盡せしかひありて一時は入営せしがその翌日除隊となりたり。
菊五郎はもう大丈夫と見て取るや杏や、伜の除隊を痛歎し世間へ顔向けが出來ぬと言ひて誠しやかに聲を出して泣きしのみならず聯隊長の家に至り不忠の詫言をなしたり。
聯隊長は何事も知らざれば菊五郎は役者に似ず誠忠なる男なりと、これ亦嘘か誠か知らねど男泣きに泣きしと云ふ。

一 大谷竹次郎の伜龍造とやら云ふ者、これは父竹次郎その身分を利用し餘り諸方へ伜不合格になるやうに頼み廻りしため検査の時却て甲種合格となりたりと云。
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5月12日
五月十二日。晴又陰。市中の煙草店煙草いよいよ不足となれり。刻煙草も早朝賣切れとなる由。但し軍部に関係ある者また新橋の花柳界は不自由することなしと云。
余が机上には両三年前買置きたるリツチモンドの鑵も今は僅に一個を残すのみとなれり。
先夜新橋より乗りたる円タクの運轉手は四十ばかりなるがガスリンも米も煙草も皆不足なれど女ばかりは不足せず、米や酒は節約せよとの命令なれど夜中は淫行は別に節制のお觸れもなし。
松の實かにんにくでも食つて女房と乳くり合ふより外に楽しみはなき世の中になりましたと語れり。
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5月14日
五月十四日。くもりて風冷なり。富士山に雪降りしと云ふ。・・・
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「★永井荷風インデックス」 をご参照下さい。
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