夏目漱石「吾輩は猫である」再読私的ノート(6の2)
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迷亭がようやく蕎麦を飲み込み終った時、そこへ寒月がやって来る。
寒月の博士論文のテーマは「蛙の眼球(めだま)の電動作用に対する紫外光線の影響」という。
また、その為に球を磨く実験を続けているらしい。
迷亭と老梅(後出)の失恋話から、「男と女」の話題に移って行く。
・・・考へると女は罪な者だよ」と迷亭が云ふ。
苦沙弥先生は、これを引き受けて
「本当にさうだ。先達てミュッセの脚本を読んだら其うちの人物が羅馬(ローマ)の詩人を引用してこんな事を云つて居た。
--- 羽より軽い者は塵である。塵より軽いものは風である。風より軽い者は女である。女より軽いものは無である。
--- よく穿(うが)つてるだらう。女なんか仕方がない」と妙な所で力味(りき)んで見せる。
之を承つた細君は承知しない。
「女の軽いのがいけないと仰しやるけれども、男の重いんだつて好い事はないでせう」
「重いた、どんな事だ」
「重いと云ふな重い事ですわ、あなたの様なのです」
「俺がなんで重い」
「重いぢやありませんか」
・・・と妙な議論が始まる。
面白そうに聞いていた迷亭が、
「さう赤くなって互に弁難攻撃をする所が夫婦の真相と云ふものかな。どうも昔の夫婦なんてものは丸で無意味なものだつたに違ひない」
と、ひやかすのだか賞めるのだか曖昧な事を言う。
「昔は亭主に口返答なんかした女は、一人もなかつたんだつて云ふが、夫(それ)なら唖(おし)を女房にして居ると同じ事で僕などは一向難有(ありがた)くない。
矢つ張り奥さんの様にあなたは重いぢやありませんかとか何とか云はれて見たいね。
同じ女房を持つ位なら、たまには喧嘩の一つ二つしなくつちや退屈で仕様がないからな。・・・」
(迷亭の話はいつもの様にヘンな風にそれて行く)
・・・奥さん近頃は女学生が堕落したの何だのと八釜敷(やかましく)云ひますがね。なに昔はこれより烈しかつたんですよ」
「さうでせうか」と細君は真面目である。
「さうですとも、出鱈目ぢやない、ちやんと証拠があるから仕方がありませんや。
苦沙弥君、君も覚えて居るかも知れんが僕等の五六歳の時迄は女の子を唐茄子(たうなす)の様に籠へ入れて天秤棒で担いで売つてあるいたもんだ、ねえ君」
「僕はそんな事は覚えて居らん」
「君の国ぢやどうだか知らないが、静岡ぢや慥(たし)かにさうだった」
「まさか」と細君。
迷亭は更に続けて、
「・・・然し明治三十八年の今日こんな馬鹿な真似をして女の子を売ってあるくものもなし、・・・。
だから、僕の考では矢張泰西文明の御蔭で女の品行も余程進歩したものだらうと断定するのだが、どうだろう寒月君」と、寒月に向って言う。
寒月は、
「此頃の女は学校の行き帰りや、合奏会や、慈善会や、園遊会で、ちよいと買つて頂戴な、あらおいや?杯と自分で自分を売りにあるいて居ますから、そんな八百屋の御余りを雇って、女の子はよしか、なんて下品な依託販売をやる必要はないですよ。
人間に独立心が発達してくると自然こんな風になるものです。老人なんぞは入らぬ取越苦労をして何とか蚊とか云ひますが、実際を云ふと是が文明の趨勢(すうせい)ですから、私杯は大に喜ばしい現象だと、ひそかに慶賀の意を表して居るのです。
買ふ方だつて頭を敲(たた)いて品物は確かゝなんて聞く様な野暮は一人も居ないんですから其辺は安心なものでさあ。
又此複雑な世の中に、そんな手数をする日にあ、際限がありませんからね。五十になつたつて六十になつたつて亭主を持つ事も嫁に行く事も出来やしません」と大に当世流の考を開陳する。
これを受けて迷亭は、
「仰せり通り方今(ほうこん)の女生徒、令嬢抔は自尊自信の念から骨も肉も皮まで出来て居て、何でも男子には負けない所が敬服の至りだ。
僕の近所の女学校の生徒抔と来たらえらいものだぜ。筒袖を穿いて鉄棒(かなぼう)へぶら下がるから感心だ。僕は二階の窓から彼等の体操を目撃するたんぴに古代希臘(ギリシヤ)の婦人を追懐するよ」
「又希臘か」と苦沙弥先生。
「どうも美な感じのするものは大抵希臘から源を発して居るから仕方がない。・・・」と、
古代ギリシャの婦人が婦人に禁じられていた産婆業を当局に認めさせた逸話を紹介する。
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その「六の三」に続く
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