夏目漱石は、慶応3年(1867)正月5日、代々馬場下横町周辺の町名主を勤める家柄の夏目小兵衛直克(なおかつ)の五男として、この夏目坂に誕生。
父母は既に高齢であった為に、漱石は誕生後すぐにある古道具屋に里子に出されます。
その後一旦は実家に戻されますが、再び養子に出されます。
今度は、夏目家と同様に江戸時代は町名主を勤めた塩原家(直克の友人)です。
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その間、明治2年には町名主が廃止され、父の直克は二六組の中年寄に任命されます。
同時に、町名変更もなされ、馬場下横町が喜久井町となります。
夏目家の定紋が井桁(いげた)に菊なので、それにちなんで父直克が喜久井(菊に井戸)と名付けとといい、夏目坂も同じ時期に同じように直克が名付けたそうです(漱石「硝子戸の中」)
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明治9年には、養子先の塩原夫妻が離婚したため、養子縁組を解消して、漱石は実家に戻ることになります。
(実際には、その間に、養父母が不和になり、養母が引き取ったり、養父とその愛人が引き取ったりして、漱石の生活環境は複雑だったようです)
これらの幼児期の体験は、漱石自身に様々な影響を与え、その作品にも影を落としています。
代表的なのは「道草」でしょうか。
多くの評論家が色んな詮索をしてます。
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▼漱石生誕地の碑
地下鉄「早稲田」駅の二番出口を出てすぐ。
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▼四つ角に小倉屋さんという酒屋がありその右隣が漱石の生家跡ということで、碑があります。
この酒屋さんは、中山(堀部)安兵衛が決闘に向う前に一杯やったというお店だそうで、その時の升も現存しているとか(但し非公開)
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▼漱石山房への道
早稲田通りに正法寺というお寺があり、これを右折して直進すると山房跡があります。
正法寺の脇には下のような道標があり、この脇を直進します。
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▼漱石山房
漱石は、千駄木の「猫の家」から西片に移り、朝日新聞に入社後の時期に、生家に近いこの地に移ります。
全て借家です。
いわゆる文士の羽振りが良くなるのは、昭和初期の「円本ブーム」以降のようです。
「猫の家」は、現在は明治村の保存されていますが、この山房は空襲で焼けたそうです。
ただ、蔵書類は予め疎開させていて無事だったとのこと。
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▼猫塚
「吾輩は猫である」の主人公「吾輩」も、千駄木~西片~早稲田へと漱石一家とともに移動し、漱石同様にここで終焉を迎えたとのことで、庭に石を組んでお墓を建てたそうです。
もちろん、空襲でやられてますので、これも復元したものです。
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▼無料パンフレット「漱石山房の思い出」
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「★東京インデックス」 をご参照下さい。
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