横浜市戸塚区からの今日(11月12日)朝7時過ぎの富士山
このところ、休日になると曇り空だったので、冠雪の富士山は今シーズン初
*
*
2011年11月12日土曜日
「”原発輸出”再開の愚」(日経ビジネスオンライン)
「日経ビジネスオンライン」の「ポストFUKUSHIMAの経営論」というカテゴリに
”原発輸出”再開の愚
という記事が出た。
見出しは、
・原発建設を成長産業と見るのは経済オンチ
・さらにダイナミックな欧州の脱原発
・黄昏市場にのめりこむ日本が抱え込む新たなリスク
と続き、
記事の締めは以下の文で終っている。
「 「新成長戦略」の惰性でずるずると原発リスクを抱え込む野田政権。
そこに、いまだ健在の“原子力ムラ”の無責任な蠢(うごめ)きを感じるのは筆者だけだろうか。」
*
*
「惰性でずるずると」ではなく、「確信をもって」やってると思うけど、いまだ健在の原子力ムラの蠢動には同意する。
*
”原発輸出”再開の愚
という記事が出た。
見出しは、
・原発建設を成長産業と見るのは経済オンチ
・さらにダイナミックな欧州の脱原発
・黄昏市場にのめりこむ日本が抱え込む新たなリスク
と続き、
記事の締めは以下の文で終っている。
「 「新成長戦略」の惰性でずるずると原発リスクを抱え込む野田政権。
そこに、いまだ健在の“原子力ムラ”の無責任な蠢(うごめ)きを感じるのは筆者だけだろうか。」
*
*
「惰性でずるずると」ではなく、「確信をもって」やってると思うけど、いまだ健在の原子力ムラの蠢動には同意する。
*
2011年11月10日木曜日
京都 琵琶湖疏水の秋景色 木々の色付きが水面に映える
①永観堂の紅葉し始めたもみじに酔い、
②南禅寺の三門、水路閣を見て、
③「ねじりまんぼ」をくぐり抜け、インクラインを下り、
次に、琵琶湖疏水の畔を歩いた。
(その後、粟田口青蓮院に行った。)
*
秋の木々の色付きが琵琶湖疏水の水面に映える。
*
*
*
②南禅寺の三門、水路閣を見て、
③「ねじりまんぼ」をくぐり抜け、インクラインを下り、
次に、琵琶湖疏水の畔を歩いた。
(その後、粟田口青蓮院に行った。)
*
秋の木々の色付きが琵琶湖疏水の水面に映える。
*
*
*
川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(5) 「四 山の手の子の下町住まい」
東京 北の丸公園(2011-11-01)
*川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(5)
「四 山の手の子の下町住まい」
*
「日乗」を書き始めた大正6年頃、京橋区木挽町9丁目の路地(現在の銀座8丁目辺り)に小さな家を借りていた。
随筆「断腸花」(昭和9年)によれば、その家は、三十間堀にかかった出雲橋に近い木挽町9丁目の裏通りにある格子造りの二階建て。
隣りは深雪という待合茶屋。
ここで電話を借りて仕出し屋から料理を運んでもらえる。
そのころ習っていた三味線を借りることも出来る。
真向かいの家は芸者の着物を縫う仕立屋でその隣りは駄菓子屋と豆腐屋。
三十間堀川は、銀座と木挽町を区切る堀割で、北は京橋川、南は汐留川と結ばれ、そこに汐留(新橋)の方から、出雲橋、木挽橋、三原橋、旭橋、豊玉橋、紀伊国橋、豊蔵橋、貞福寺橋が架かっていた。
荷風は江戸情趣の残るこの界隈を愛し、「新橋夜話」の一篇「見果てぬ夢」(明治43年)で、明治末年の三十間堀の様子を描いている。
このあたりは関東大震災のあとに昭和通りが出来、三十間堀は昭和24年に埋め立てられ、この家の位置を特定することは難しいが、だいたい現在の銀座第一ホテル(三井ガーデンホテル銀座)、銀座病院のあたり。
銀座通りと新橋の花街に近い華やいだ町で、モダン都市と下町情趣の両方がある。
都心だから行動にも便がいい。
***
どの辺りかは、別記事である「永井荷風年譜(22)」をご参照下さい。
***
築地界隈は、荷風好みの花街の雰囲気を持っていただけでなく、胃弱という持病を持っていた荷風にとっては医者に近いという利点もあった。
大正6年9月20日
「昨日散歩したるが故にや今朝腹具合よろしからず。
午下木挽町の陋屋に赴き大石国手の来診を待つ。
そもそもこの陋屋は大石君大久保の家までは路遠く往診しかぬることもある由につき、病勢急変の折診察を受けんが為めに借りたるなり」
とある。
日本橋にいたかかりつけの医師大石貞夫の往診の便宜のためにこの家を借りたという。
「断腸花」にはその他に、この「木挽町の陋屋」を借りたのは、自ら主宰する文芸誌「文明」の編集室に使うためと、三味線の稽古場に使うためとある。
その他、何よりも新橋の花柳界に近い地の利のよさがあった。
荷風はこの「木挽町の陋屋」を「無用庵」と名づける。
「深更腹痛甚しく眠られぬがまゝ陋屋の命名を思ふ。遂に命じて無用庵となす」(9月20日)
「無用庵」を別宅にした荷風はいよいよ「三味線」の世界に入っていく。
大正6年9月20日
「此夜木挽町の陋屋にて獨三味線さらひ小説四五枚かきたり」
三味線は、荷風の江戸趣味の道楽で、随筆「築地がよひ」(「文明」大正6年3月号)に「築地二丁目なる清元梅吉のもとに通ひそめてより早くも三年越しとはなりけり」とある。
老後の無聊の慰めのためと書いている。
「われ今さへ既に世とそむき果てたる身の、老後に到らばいよいよ尋ね来べき友もなく、訪ひ行きて語らん人もあらずなりぬべし。
かくては雪の日のさびしさ、雨の夜のつれづれをいかにすべき。
消えかゝる炭団果敢(はかな)き置炬燵の獨り居も、もし三味線持つ道知りたらんには、よしや勘処すこし位はづれても、獨絃獨吟、過ぎし日の夢思出でゝ自ら慰さむたよりともなりなん・・・」
荷風が三味線に凝って、「毎朝、暁起(げうき)直ちに築地に赴く事、今は殆どわが日課となりぬ」になったのは、荷風の廃滅趣味、江戸趣味のためばかりではない。
荷風「築地がよひ」に、「素人にして而も男たるもの蓋しわれ一人のみ」とある。
若い芸者たちから「先生、先生」と呼ばれ、親しまれる。
それも楽しかったのだろう。
荷風は「無用庵」で、親友井上唖々らと「文明」の編集の仕事をしたり、三味線の稽古をしたり、大久保の本宅からここに来て泊って小説を書くこともあった。
9月22日
「無用庵に在り。小説おかめ笹執筆」
「無用庵」は、単身者荷風にとって「家」の重みを感じさせる大久保余丁町の本宅とは違った逃避所であり、気ままな仕事場であり、下町の雰囲気を味わえる隠れ家だった。
山の手の人間である荷風は、「無用庵」にいるときだけは自分を下町の人間に擬すことが出来た。
「荷風における山の手と下町、文明と文化の二重性、往還はこのころから始まっている。」(川本)
下町に住みたい気持は、明治41年にフランスから帰国したときに持っていた。
帰国直後の井上唖々あての手紙。
「僕も金の工面さへつけば一日も早く長屋でも借りたい下宿でもいゝ。場所は千束町か深川本所にしたいね」(明治41年8月8日)。
「無用庵」より先、大正4年、かねてからの夢を実現すべく、築地につい先頃まで待合だったという小さな家を借りる。
京橋区築地1の6。現在、銀座キャピタル・ホテルのあるあたり。
この頃の生活を書いた随筆「築地草」(大正5年)によると、近くには、清元の師匠の家、仏師屋などがあり、また、待合や妾宅が多かった。
「爪弾の小唄は常にわが壁隣につゞき新内の流しは夜毎窓外に雨の来るが如し」とある。
さらに大正5年、短期間だが、代地河岸、現在の柳橋1丁目に家を借りている。
築地、柳橋ともに隅田川に近い花街、「水」と「三味線」がある。
築地、柳橋の次に選ばれたのが木挽町。
小島政二郎が木挽町で見かけた荷風の姿。
「一度銀座で、向こうから歩いて来る荷風と擦れ違ったこともあった。
その時、彼は大きく黒のボヘミアン・タイを結んでいた。牡丹の花のような大きさだった。そのころ、そんなネクタイを結んでいる人は日本国中に恐らく一人もいなかったろう」
「黒の背広に、黒のソフト、黒のコバート・コート。コバート・コートというのは、上着とスレスレぐらいの短いオーバーだ。全部黒ずくめ。黒のソフトをやや前のめりにかぶって、両方の手をオーバーのポケットに突ッ込んで、大股に歩いて来た。
こんなハイカラ、こんなダンディななりをした文士なんか見たことがなかった」(『鴎外荷風万太郎』(文藝春秋))
「アメリカとフランスで暮して帰国した帰朝者のダンディズム、モダニズムと、江戸趣味が荷風のなかに同居している。
西洋と江戸があり、現実の日本だけがない。
荷風の二重性の中心には、現実の日本の欠如という大きな空虚があった。」(川本)
木挽町の「無用庵」に約1年いた後、大正7年12月、再び築地に戻る。
築地2丁日30番地。築地本願寺近く。
今度は、借家ではなく、父から受け継いだ大久保余丁町の家を売り、その金で築地に家を買った。
戸籍もここに移し、電話もひく。
長く永井家で働いている「老婆しん」も来る。
市川猿之助(2世)は市川圑子といっていた若いころ築地に住んでおり、荷風に「喜熨斗君(猿之助の本名)一寸来たまえ」とよくこの築地2丁目の家に呼ばれ、本の奥付に貼る検印を押したり、蔵書の虫干しを手伝ったり、外遊中の思い出話を聞いて日の暮れるのも忘れるようなこともたびたびだったという。(猿之助「築地僑居のころ」)。
大正7年12月22日~23日に引越し。
12月22日
「築地二丁目路地裏の家漸く空きたる由。竹田屋人足を指揮して、家貝書筐を運送す」
12月23日
「午後旅亭を引払ひ、築地の家に至り几案書筐を排置して、日の暮るゝと共に床敷延べて伏す」
早速、新橋の芸妓八重福と親しくなり、引越しのための仮り住まいの旅館で床をともにしている。
22日
「午後病を冒して築地の家に往き、家具を排置す、日暮れて後櫻木にて晩飯を食し、妓八重福を件ひ旅亭に帰る。
此妓無毛美開、閨中欷歔(ききよ)すること頗妙」
八重福とは翌大正8年に入っても関係が続く。
1月1日
「八時頃夕餉をなさむとて櫻木に至る。藝者皆疲労し居眠りするもあり。八重福余が膝によりかゝりて又眠る」
1月2日
「夜半八重福春着裾模様のまゝにて来り宿す」
1月3日
「夜半八重福来り宿す」
1月4日
「八重福との情交日を追ふに従ってますます濃なり。多年孤獨の身邊、俄に春の来れる心地す」
柳橋、芳町(人形町)が江戸時代からの花柳界、
新橋から木挽町、築地にかけての花柳界は新興。
明治6年に煉瓦街が完成したのを期に銀座が文明開化の中心になる。
新橋(汐留)駅が鉄道の起点になる。
木挽町には逓信省と農商務省が出来る。
築地には海軍の諸機関(海軍病院、海軍大学、水交社など)が出来る。
そうした政治の中心地の夜の町として新橋の花柳界が生まれた。
古くからの花街、柳橋では、薩長の軍人や官僚を田舎者として相手にしなかった。
新橋はその結果、薩長など地方出身のエリートの遊ぶ町として栄えていく。
『資生堂百年史』(資生堂、昭47年)にある酔多道士「東京妓情」(明治16年)。
「維新で権力者になった地方出身者は『関東の花を折ろう』と東京一の柳橋におもむいたが、不粋な者としてきらわれたため、新橋に遊ぶことになった。新橋芸妓は喜んで迎え、その権力に便乗した」
柴田和子『銀座の米田屋洋服店』(東京経済、平成4年)には、新橋と柳橋の違いをあらわす「御前の新橋、旦那の柳橋」が紹介されている。
「花柳界と言えば、明治の初めまでは、墨田川に臨む両国橋のたもと、柳橋が一等地だった。
日本橋界隈の大商人がここに来て遊んだ。その頃新橋は、まだ微々として振るわなかった。
ところが明治五年に日本最初の鉄道、当時でいう陸蒸気が新橋と横浜間に開通すると、新橋が東京の玄関口となった。
東京駅が出来るのは、ずっと後の大正三年である。
それに新橋は日比谷の官庁街に近い。
明治維新の志士たちが出世して政府高官となり、新橋に来て遊ぶようになったのである」
「荷風はその新橋で遊んだ。
明治の文明を嫌った荷風が、明治の新興の花柳界に出入りした。
ここにも荷風の二重性、矛盾がある。
明治の花柳界のなかにしか、江戸文明が生き残れなかったのも矛盾である。」(川本)
大正8年4月22日。
「朝まだき新富町の雛妓三四人押掛け来り、電話にて汁粉を命じ食ひ且つ唄ふ。
雛妓等先頃より余が寓居をよき遊び場所となし、折々稽古本抱えて闖入し来り、余の睡を驚すなり。
櫓下車宿和田屋の曳子は余が寓居をば遊藝師匠の住居と思ひゐるとのことなり」
荷風の家が若い芸者たちのたまり場になっている。困ったといいながらも荷風は楽ししそうだ。
市川猿之助、「胃腸が弱くてお粥ばかり食べて居られた先生の、孤独のつれづれを慰めるものは、江戸古来の音曲と『折々稽古本抱へて闖入し来り』『電話にて汁粉を命じ食ひ且つ唄ふ』その界隈の妓女達だったらうと思ひます」という。
「鯉川兼待」の名で「文明」に発表した有名な春本「四畳半襖の下張」はこの頃書かれる。
「築地はまた銀座にも近い。
荷風は花柳界で江戸趣味を満足させながら、他方ではモダン都市銀座も享受する。
江戸趣味、陋巷趣味の荷風は、同時に誰よりもモダニストである。
ここにも荷風の二重性がある。」(川本)
安藤更生『銀座細見』(春陽堂、昭和6年)。
「銀座を-特別の目的なしに、銀座という街の雰囲気を享楽するために散歩することを『銀ブラ』というようになったのは、大正四、五年ころからで、都会生活に対して特別警抜な才能を持っている慶應義塾の学生たちから生まれてきた言葉だ」
「雨瀟瀟」(大正10年)、「わたしは銀座の近邊まで出掛けた時には大抵精養軒へ立寄ってパンと缶詰類を買って帰る」。
随筆「銀座」(明治44年)
「銀座界隈は云ふまでもなく日本中で最もハイカラな場所である」とあり、自分は築地あたりの江戸の残り香を愛するが、同時に、このあたりのハイカラな風景に目を向けざるを得ないとしている。
「然しまた自分の不幸なるコスモポリチズムは、自分をして其のヴェランダの外なる植込の間から、水蒸気の多い暖な冬の夜などは、夜の水と夜の月島と夜の船の影が殊更美しく見えるメトロポオル、ホテルの食堂をも忘れさせない」
「日乗」大正8年1月1日
築地明石町にあった外人専用のホテルで朝食としてショコラ(チョコレート)を畷り、クロワッサンを食したとある。
ショコラは銀座の三浦屋より取り寄せ、クロワッサンは、尾張町ヴィエナカッフェーというアメリカ人の店で買う。
「三味線」の世界にいる荷風が、他方で「ショコラ」と「クロワッサン」の朝食をとる。
江戸趣味とモダニズムが同居している。
江戸趣味はまたモダニズムの逆の形のあらわれでもあるのだから、荷風の二重性は複雑である。
*
延暦24年(805)12月~延暦25年(806)1月 徳政相論 「まさに今、天下の苦しむところは、軍事と造作なり。この両事を停むれば、百姓安んぜん」
京都 永観堂の多宝塔(2011-11-04)
*延暦24年(805)
12月7日
・この日、桓武天皇は、参議藤原緒嗣(32歳、百川の子)と参議菅野真道(まみち、65歳、百済系渡来氏族出身)に勅して、「天下の徳政」(民衆に恵みを与える政治)を相論させる。
藤原緒嗣は「まさに今、天下の苦しむところは、軍事と造作(ぞうさく)なり。この両事を停むれば、百姓安んぜん」と主張して、軍事と造作、つまり征夷と造都の中止を主張。
対する菅野真道は異議をとなえて譲らなかったが、桓武天皇は緒嗣の議を善しとして、停廃することを決めた。
有識者でこれを聞いて感動しない者はなかったという(『日本後紀』延暦24年12月壬寅条)。
「軍事と造作」の停止という、国政の基本方針の大転換をもたらしたこの論争を、「徳政相論」と呼ぶ。
光仁・桓武天皇の擁立に功績のあった藤原百川の子であるとは言え、桓武朝の政治を真っ向から批判することになりかねない意見を、若い緒嗣が自らの意思だけで主張できたとは到底思えない。
緒嗣の主張を後押しする官人が多数いたとしても、桓武天皇に事業継続の意思があれば、そもそもこのような討論はさせないであろう。
征夷と造都の中止は、桓武天皇によってあらかじめ用意されていた結論だったとみるのが自然である。
民衆の疲弊と国家財政の窮乏は、桓武も認めざるを得ない域に達している。
桓武は、信頼する官人2人に相反する意見を述べさせ、若い緒嗣の良心的意見を選択することによって、臣下の意見に耳を傾け、民衆の苦しみに理解を示す名君を演じてみせた。
25年の治世の中で、一貫して征夷と造都を進めてきた桓武が、最後に見せた引き際の演出である。
この日、民衆の負担を軽減せよとの桓武の給旨(勅語)に基づき、衛士(えじ)・仕丁(しちよう)・隼人男女・雅楽歌女・仕女の削減、封戸租の軽貨による京進、諸国貢調脚夫の役日数の削減、備後国が納める調の品目変更、伊賀以下21ヶ国に対する当年の庸の免除など、諸負担の軽減を公卿が建議し、勅許を受けている(『日本後紀』)。
徳政相論はそれに続いて行われた。
しかも桓武は、同年11月初めにこの方針を決定し公卿に伝えていた。
12月7日に軽減された諸負担のうち、隼人司に仕える隼人男女の削減、備後国の調に関する太政官奏が『類聚三代格』に収録されていて、それによれば、民衆の負担軽減を命ずる天皇の綸旨は、同年11月10日以前に出されていたことがわかる(『類聚三代格』巻4延暦24年11月10日太政官奏、同巻8延暦24年12月7日太政官奏。後者の日付は前田家本の11月10日が正しい)。
つまり負担軽減の方針は、すでに11月10日以前に示され、12月7日に具体的内容の確定と勅許が行われた。
それに続いて徳政相論を行い、征夷と造都を終わらせた。
民衆の疲弊という現実を桓武天皇が受け入れ、政策転換を余儀なくされたというのが実情。
桓武の側近で、東北の実情と民衆の疲弊を最もよく知る人物は、坂上田村麻呂である。征夷中止の決定には、田村麻呂が関わっていたと思われる。
また桓武は延暦19年7月に早良親王を「崇道天皇」と追称し、延暦23年12月に発病してからは、一層怨霊の慰撫に努める、翌年4月には淡路にあった崇道天皇陵を大和に改葬している。
早良親王の崇りによる身内の不幸を見続けてきた桓武は、崇りが自分に及んでいると思ったに違いない。
征夷と造都の中止には、桓武天皇の健康問題も絡んでいた。
徳政相論による征夷中止の決定を承けてまず行われたことは、東国を東北政策に関わるあらゆる負担から解放すること。
東国、特に坂東諸国は、征夷軍士・鎮兵の派遣、柵戸の移配、征夷のための物資の調達など、東北政策に関わる膨大な人的・物的負担を課されていた。
8世紀の100年間における東北政策の負担が、東国社会を疲弊させ、このことが征夷の続行を不可能にした大きな要因である。
徳政相論以後は、東国に負担を求めることは基本的になくなり、東北政策に必要な人と物は、一部を除いて陸奥・出羽両国でまかなわれるようになる。
*
*
延暦25年(806)
この年
・平城朝、この年、諸王および五位以上の子孫で10歳以上のものは全て大学に入り、それぞれ学科を修得することを命じる。
嵯峨・淳和の時代においても、この政策に若干の修正を加えるが、その基調を保持する。
*
・唐の白居易、「長恨歌」を作る。
*
1月
・この月、最澄は朝廷に表を提出して天台法華宗の開立を乞い、まもなく勅許せられ、比叡山寺をその本拠とした。
朝廷側は、最澄の建議をいれて従来の南都六宗に天台をくわえ、諸宗の年分度者(ねんぶどしや)制(朝廷が、各宗で毎年人数を定めて学業を試験し、数名の得度者をゆるす制度)を確立し、それによって桓武の仏教対策を一層徹底させた。
最澄の立宗のための第一歩は、政治のツボをついて早期の成功を収めた。
最澄自身が得た密教は、雑密と総称される、あまり体系化されていないものの一部である。
しかしそれでも最澄は一応灌頂という新式の伝法儀式を受けてきた。
密教と天台教学との関係を詰めていない最澄の思惑を無視して、朝廷はこの新来の法力をも国家に奉仕させようとする。
*
・公出挙の利率を5割とする。
*
1月26日
・最澄の提案を南都に置かれた僧綱(そうごう、僧正・僧都・律師で構成される僧尼全体の監督・指導機関)が認めるという形で、年分度者(ねんぷどしゃ)の定員が改訂される(『類聚三代格』巻二)。
年分度者は、毎年得度させる僧侶の定員のこと。
得度は、在家の仏教信者(男性を優婆塞=うばそく、女性を優姿夷=うばい、という)が、僧尼に従って一定の修行をして沙弥(しゃみ、女性は沙弥尼しゃみに)になること。
得度してさらに修行を積み、やがて受戒して比丘(びく、尼ならば比丘尼びくに)になり、ようやく正式な僧尼になれる。
この年の年分度者の制度では、天台宗は、三論3人(うち1人は成実)、法相3人(うち1人は倶舎)、華厳2人、律2人と並んで2人の定員を得る。
天台宗に与えられた定員2人のうち、1人は『摩訶止観(まかしかん)』を読む天台教学の専門家、もう1人は『大日経』を読む密教の専門家であることとされた。
実際にはこの直後に桓武が没し、天台宗初の年分度者が誕生するのは大同5年(810)のこと。
ともかくこれで天台宗を学んで沙弥になるコースが成立した。
*南都の諸宗派、そして、年分度者の監督に当たった僧綱(仏教の統制機関で僧正・僧都・律師から構成される)との関係
奈良時代以来、奈良の寺院には南都六宗と呼ばれる六つの宗派があり、僧綱を独占していた。
また、正式な僧侶になるために必須な授戒も、中央では東大寺戒壇院でしか行われず、僧綱が監督していた。
天台宗に年分度者が許可されたことについて、僧綱は、自らの権益を侵されたと感じた。
後に、最澄は僧綱と激しい論戦を行うが、その伏線はこの辺りから始まる。
*
*
2011年11月9日水曜日
京都 ねじりまんぼ インクライン(明治23年)
今回は、
永観堂禅林寺で紅葉はじまるもみじに酔い(コチラ)、
南禅寺で三門、法堂、水路閣などの境内を一周して(コチラ)、
金地院の前を通り蹴上方面に向かい、インクラインを岡崎方面に下ってゆく。
*
▼ねじりまんぼ
強度を保持するためレンガを捩じるように組んだトンネルや坑道を構築する工法・技術を、どうやら「ねじりまんぼ」と呼ぶらしい。
ココで教えてもらった。
このねじりまんぼは、インクラインを潜り抜ける道になっている。
(この上にインクラインがある)
南禅寺境内にある水路閣、インクライン、ねじりまんぼは、全て琵琶湖疎水関連の歴史遺跡といえる。
*
▼よく見ると、ねじれている、というか、よじれている様子が見える
*
▼ねじりまんぼを抜けると地下鉄「蹴上(けあげ)」駅前
そこから京都市街方面を見たところ
*
▼インクラインから山科方面を見たところ
以前にインクラインに来た時の記事(コチラ)
*
▼京都市街方面を見たところ
*
*
永観堂禅林寺で紅葉はじまるもみじに酔い(コチラ)、
南禅寺で三門、法堂、水路閣などの境内を一周して(コチラ)、
金地院の前を通り蹴上方面に向かい、インクラインを岡崎方面に下ってゆく。
*
▼ねじりまんぼ
強度を保持するためレンガを捩じるように組んだトンネルや坑道を構築する工法・技術を、どうやら「ねじりまんぼ」と呼ぶらしい。
ココで教えてもらった。
このねじりまんぼは、インクラインを潜り抜ける道になっている。
(この上にインクラインがある)
南禅寺境内にある水路閣、インクライン、ねじりまんぼは、全て琵琶湖疎水関連の歴史遺跡といえる。
*
▼よく見ると、ねじれている、というか、よじれている様子が見える
*
▼ねじりまんぼを抜けると地下鉄「蹴上(けあげ)」駅前
そこから京都市街方面を見たところ
*
▼インクラインから山科方面を見たところ
以前にインクラインに来た時の記事(コチラ)
*
▼京都市街方面を見たところ
*
*
「除染、除染というより、早く子どもの疎開を」(福島の女性の座り込み集会)「毎日新聞」11月2日
無断でリンクを張らして戴いている「ウィンザー通信」さん(右欄のMY BLOG LISTにあります)の記事に、
「食べて応援?除染で応援?瓦礫を受け入れて応援?もうこんな国のウソにだまされんのはやめにしような!」
というのがあります。
ここには、「毎日新聞」11月2日の夕刊に掲載された
「特集ワイド:女たちの脱原発 座り込み集会ルポ」
が転載されてます。
福島の女性70人が3日間、全国の支援者が7日間、経産省前で座り込み集会を実行したときの、前者3日間のルポです。
是非ご一読を。
「食べて応援?除染で応援?瓦礫を受け入れて応援?もうこんな国のウソにだまされんのはやめにしような!」
というのがあります。
ここには、「毎日新聞」11月2日の夕刊に掲載された
「特集ワイド:女たちの脱原発 座り込み集会ルポ」
が転載されてます。
福島の女性70人が3日間、全国の支援者が7日間、経産省前で座り込み集会を実行したときの、前者3日間のルポです。
是非ご一読を。
延暦24年(805)1月~11月 最澄が唐より帰国し、桓武天皇の期待に応える
京都 永観堂(2011-11-04)
*延暦24年(805)
1月
・桓武天皇、早良親王を葬った淡路に寺院を建立。
*
2月
・桓武天皇は奈良の石上神宮の神宝を平安京に運び込もうとするが、石上神官の神の崇りがあり、急いで返却し、神の魂を鎮めるための「鎮魂」を執り行わせる(『日本後紀』延暦24年2月10日条)。
*
2月10日
・大使ら遣唐使一行、空海や橘逸勢(たちばなのはやなり)たちを長安に残したまま、長安を出立。6月には無事帰国。
(空海は、大同元年(806)8月、帰国が遅れていた遣唐判官高階遠成(とおなり)の船に同乗して、橘逸勢と共に帰国。)
橘逸勢らと長安に残った空海は、奈良時代以来、遣唐使として渡った日本人留学生の居住先となっていた西明寺(第3代皇帝高宗が建立)に移り住む。
まず、北インド出身の般若三蔵(唐でも有名な経典の翻訳家)と牟尼室利(むにしつり)三蔵から、梵語(サンスクリット語)とインド哲学を学ぶ。
漢字で記された経典は、もともと中国で梵語から漢訳されたものであるから、密教の本質を知るには梵語が不可欠である。
次に青龍寺の恵果(けいか、真言第7祖)を訪問し、師事する。
恵果は、金剛智-不空と続く『金剛頂経』系の密教(金剛界を重視)と、善無畏-一行と続く『大日経』系の密教(胎蔵界を重視)の正統な継承者。
空海によれば、死期の迫った恵果は空海が訪れることを予期しており、すぐに灌頂壇に入ることを促したという(『僧空海請来日録』)。
その言葉のとおり、恵果は6月に胎蔵界の灌頂、7月に金剛界の灌頂、8月には伝法灌頂を授け、3ヶ月で真言の奥義をことごとく空海に伝授。
また、恵果は経典・曼荼羅・法具なども空海に贈る。これらのいくつかは、現在でも東寺や高野山金剛峯寺に伝存している。
恵果の弟子は千人を越えたが、若くして亡くなった義海を除けば、この三つすべてを授けられたのは空海だけである。正統な真言密教が日本に伝来したことを意味する。
恵果は、予言どおりその年12月に没す。
翌年、空海は弟子を代表して師を追悼する「大唐神都青龍寺故三朝国師潅頂(かんじよう)阿闇梨恵果和尚之碑」(「性霊集』巻2)という碑文を撰し、恵果の死を悼む。
*
4月
・「怨霊に謝する」ために、早良親王を国忌(天皇・皇后の忌日で政務を行わない日)の例に入れ、改葬する手だてをとる。
*
4月
・桓武天皇、皇太子をはじめ太政官執政部の全メンバーを宮中に招集し、死後のことを託す。
*
6月
・坂上田村麻呂、参議となる。
この年、坂上田村麻呂は清水寺を建立。
これ以降、私的に寺院を建てることを禁止する桓武の寺院政策は徐々にしだいに骨抜きになるが、後々まで京に寺院を建ててはならないという意識は、貴族層に残る。
*
6月
・最澄、所期の目的を果たし、明州から遣唐第1船に乗り帰途につく。
*
7月
・遣唐大使藤原葛野麻呂が帰朝し、節刀を返上。
*
8月9日
・6月に中国から帰国した最澄を殿上に呼び、悔過(けか、自分の犯した罪を償う仏教行事)を行わせる。
最澄は、唐から持ち帰った仏像・経論を献上。
最澄に対する桓武天皇の並々ならぬ期待が窺える。
その後も最澄は、天皇の求めで殿上において毘廬舎那(びるしやな)法を行う。
*
9月
・桓武は、高雄山寺において、南都の高僧8人に対して、最澄による濯頂(古代インドの即位儀礼に由来する密教の儀式、頭上に水を注ぐ儀式)を受けさせ、また最澄を内裏に召し、毘廬舎那法という密教の修法をさせる。
前年以来病気がちの桓武の期待は、天台教学よりは密教の呪力の功験に集中した観がある。
しかし、渡唐の後に重要性に気づき、付け焼き刃的に会得してきた最澄の密教は、遅れて帰国した空海の前では色槌せたものになる。
*
10月
・この月、坂東から東北への補給路として重要な、下総国千葉郡から香取郡にかけての官道を廃止。
これは、房総から常陸国への連絡路の廃止を意味し、征夷の縮小化が準備されていることを示唆する。
*
10月23日
・播磨に移配の俘囚、吉弥侯部兼麻呂ら10人が、「野心を改めず」との理由により多褹嶋に配流。
*
11月
・坂上田村麻呂、坂本親王(桓武天皇皇子)の元服に奉仕し、衣被を与えられる(『日本後紀』)。
*
*
2011年11月8日火曜日
京都 南禅寺 木々が色づく 三門 法堂 水路閣
永観堂で「もみじ酔い」の後、すぐ近くの南禅寺に行く。
三門は以前上ったこともあり(コチラ)、またこの日は超混雑してたので、上るのはパス。
金地院など庭園で有名な塔頭もあるが、これもパス。
境内を一周して、水路閣を見て、「ねじりまんぼ」からインクラインに向かう。
境内は、ごく平均的な木々の色づきが見られる、というところでしょうか。
*
▼三門
*
▼法堂
*
▼水路閣(明治23年完成)
以前に来たときの記事はコチラ。
*
▼紅葉鮮やかなもみじ
次の「ねじりまんぼ」に行く途中、紅葉鮮やかなもみじを見つけた。
*
三門は以前上ったこともあり(コチラ)、またこの日は超混雑してたので、上るのはパス。
金地院など庭園で有名な塔頭もあるが、これもパス。
境内を一周して、水路閣を見て、「ねじりまんぼ」からインクラインに向かう。
境内は、ごく平均的な木々の色づきが見られる、というところでしょうか。
*
▼三門
*
▼法堂
*
▼水路閣(明治23年完成)
以前に来たときの記事はコチラ。
*
▼紅葉鮮やかなもみじ
次の「ねじりまんぼ」に行く途中、紅葉鮮やかなもみじを見つけた。
*
延暦23年(804)7月~12月 遣唐使出発。最澄と空海が参加。 桓武天皇発病
京都 永観堂(2011-11-04)
*延暦23年(804)
7月
・遣唐使船、肥前国を出発。遺唐大使は藤原葛野麻呂(かどのまろ)。
一行には桓武天皇の特旨によって最澄と空海が加えられている。
一行は4隻で出発。
第1船には留学僧(るがくそう)として空海が、第2船には請益僧として最澄が乗船。
第3船は行方不明、第4船は孤島に流される。
留学僧(学問僧)は、唐に一定期間滞在して仏教学の研鎖を積む者。元来、帰国は次の遣唐使ということになっていたが、空海は、行きと同じ遣唐使に同行して帰国。
請益僧は、随行する遣唐使とともに帰国しなくてはならない者。
空海
宝亀5年(774)年、讃岐国多度郡弘田郷(硯香川県善通寺市付近)に生まれる。最澄誕生の7年後。父は多度郡司佐伯直田公(さえきのあたいたきみ)で地方の明望家。母は阿刀(あと)氏。
幼時、母方の外舅で、伊予親王の侍講、阿刀大足(あとのおおたり)について学問を修める。
延暦7年に上京。
延暦10年、官人へのコースを目指して大学明経の科試をパスし、博士岡田午養(うしかい)・味酒浄成(うまざけのきよなり)らから教えをうける。
空海の故郷近くには佐伯氏の氏寺と考えられる古代寺院跡があり、讃岐国からは、明法家など多くの学者が輩出している。
また、多度津という港があり、畿内との交流も盛ん。空海が仏教や学問に興味を持つようになったのは、こうした生活環境にあったと言える。
順調にいけば、都で学者か下級役人に、あるいは故郷で郡司になったかもしれないが、ある沙門(在俗僧)と山会い、虚空蔵求聞持法(記憶力を増進する修行法)を授けられたことを契機にして、突然僧侶へ転身。
その後、吉野の金峯山、土佐の室戸崎、阿波の大滝岳、石鎚山などの四国の山々を跋渉し、山林修行に励う。
延暦16年(最澄が内供奉に任ぜられた年)、俗世と決別するために『聾瞽指帰(ろうこしいき)』(のち『三教(さんごう)指帰』と改題)を著す。この書は、わが国初の小説とも評され、仏教・儒教・道教をそれぞれ擬人化させた仮名乞児・亀毛先生・虚亡隠士などを登場させ、三教の論争の形をとりながら、仏教が一番勝っていることを説いている。彼の将来を嘱望し、出家に反対していた家族や親類縁者に対して、仏門に入る理由と自分の意志が固いことを示した宣言の書とでもいうべき性格を持っている。
その翌年、大安寺の勤操(きんぞう)について戒をうける。またこの年、大和国の久米寺の東塔の下で、久しく求めていた「大日経」を発見し密教への関心を沸き立たせる。
*
8月
・桓武(68歳)、和泉・紀伊への巡遊。
その矢先、台風のために中院の西楼が倒壊し、近くにいた牛が死ぬ。天皇は牛年生まれなので、これを気に病む。
桓武行幸に先立って、坂上田村麻呂が行宮の地を定めるべく摂津・和泉に派遣されている。
*
8月
・空海(31)ら遣唐使一行の第1船、福州に到着。
*
9月
・最澄の乗った遣唐使第2船、明州(寧波)に到着。
その後、最澄とその弟子で中国語に通じている義真(後、初代天台座主、円珍の師。後出の青龍寺の義真とは別人)らの一行は、台州(浙江省)の長官陸淳の紹介により道邃(どうすい、天台中興の祖ともいわれる湛然の弟子、天台七祖で天台山修禅寺座主)や行満について学ぶ。
ついで、最澄は、天台宗を開いた智顗(ちき)が修行した地で、中国本土はもとより周辺諸国からの巡礼者で賑わう天台山国清寺に向かう。
2人は、巡礼に成功し、円頓戒(えんどんかい)という天台宗の戒を受けるが、帰国までの余暇に越州龍興寺や明州開元寺で密教の教えも受ける。
最澄らは台州に戻り、道邃から更に天台の教えを学び、菩薩戒を授けられる。
その後、明州で遥唐第1船の乗員と旧交を温めた後、経典を書写するため、越州の龍興寺に向かう。
龍興寺近くで順暁が修行していた。
順暁は、善無畏(ぜんむい)から続く天台の正統な継承者で、一行(いちきよう、弘景から天台を学んだが、善無畏の弟子でもあり、『大日経疏』をつくった)や不空(ふくう、真言第六祖、真言宗の根本経典の一つ 『金剛頂経』を漢訳)にも師事したことのある学僧。
最澄は順暁に学び、胎蔵界と金剛界の灌頂(インドの即位儀礼に範を求め、頭に香水を注いで、秘法を伝授する儀式)を授けられる。
最澄は、順暁の正式な弟子として認められた。
最澄は所期の目的を果たし、延暦24(805)年6月、明州から遣唐第1船に乗り帰途につく。
彼の請来した典籍は『僧最澄請来目録』のなかにみることができる。
*
10月
・桓武、蘭生野(大阪府岸和田市か)に鷹狩り。
田村麻呂はこの鷹狩に奉仕し、綿200斤を与えられる。
*
11月3日
・大使や空海ら遣唐使一行、福州を発ち長安に向う。
12月21日、長安着。
8月に福州海岸に漂着して早々、大使葛野麻呂のために地方官(福州観察使)への書簡を代作した(『性霊集』巻5)ことが効を奏し、人数制限の厳しい長安行きの一行に加えられる。
*
12月
・桓武の発病。
心身の不調をきたし、年をこえても本復せず。怨霊に悩まされる夜が続く。
以後、仏教・神紙による快復祈願と恩赦が続き、とくに早良親王(延暦19年に崇道天皇を追贈)の怨霊への謝罪が多い。
延暦24年正月、親王を葬った淡路に寺院を建立、
延暦24年4月、親王を国忌(天皇・皇后の忌日で政務を行わない日)の例に入れ、改葬する手だてをとる。
延暦24年8月、6月に中国から帰国した最澄を殿上に呼び、悔過(けか、自分の犯した罪を償う仏教行事)を行わせる。
*
12月21日
・遣唐使一行、長安東郊の長楽駅に到着、
翌年正月1日の含元殿での元日朝賀の儀にようやく間に合う(『日本後紀』延暦24年6月8日条)。
*
*
登録:
投稿 (Atom)