2017年2月26日日曜日

【閲覧注意;全てゴヤの版画作品ですが一部に残虐な光景があります】 堀田善衛『ゴヤ』(114)「版画集『戦争の惨禍』」(2)「この老画家の、人間としての真の偉大さ - という言葉を私は敢て使いたいと思う ー は、人間のやらかす所業の一切に耐えて、現実としてのこの怪獣をあえて描き出し、なおかつ、これを如何にしてでも押しとどめようとする、無名の、足腰ともに逞しい女性をこの怪獣にとりつかせたところにあるであろう。」

第二群に分類されるものは、二〇番から二七番までで、これは戦闘のあと、その結果の悲惨を文字通りに抉り出している。傷ついた者に手当をし(二〇番)、担ぎ出し(二一番)、そうして死んでしまった者はその場に当分は放置せざるをえない (二二番)。・・・。この二二番、二三番の、積み上げられ、あるいはばらばらに散らされた屍の傍に投げ出されたサーベルの、その無機質な金属の、鋭い、人工的な角度が、屍の、どう仕様もなく無形態な形態と、まことにあらわな対比を示す。

かくて、この無機質なものの怖ろしさは、二六番の銃殺刑の図にいたって極まることになる。山の洞窟と思われる暗所に男女の一群が避難をしている。その一群に、光りの射し込んでいる入口から八本の銃剣がつきつけられている。一瞬後には、一斉射撃によってこの男女は屍と化すであろう。
一斉射撃による銃殺刑は、フランス軍の創意によるものであった。この金属製の、複数の銃剣と銃の、その鋭い人工的な角度は、そのままで”現代”の到来を示している。この複数の銃剣は、やがて機関銃となり、ロケットとなる。この二六番は、「見ていられない」と詞書されているが、それはむかしむかしの戦争の図などというものではなくて、われわれの現代そのものであろう。長く長く、われわれは「見ていられない」ものを見続けて来ている。
無機質の工業製品によって、つまりは顔のない暴力装置によって大量の人間が一度にまとめて殺される時代が到来する。われわれはゴヤの手によって、その時代の開始期に立ち合わされている。

二七番には、後景にゴヤ自身が悪魔のような面構えで登場して天の一角を睨みつけているのであるが、・・・。

ゴヤ『戦争の惨禍』20

ゴヤ『戦争の惨禍』21

ゴヤ『戦争の惨禍』22「最悪」1808-14

ゴヤ『戦争の惨禍』23

ゴヤ『戦争の惨禍』24

ゴヤ『戦争の惨禍』25

ゴヤ『戦争の惨禍』26「見ていられない」1808-14

ゴヤ『戦争の惨禍』27

二八、二九番の二枚は、いわば番外のようなものであって、マドリードの暴民によるベラレス侯爵惨殺の景である。・・・そうして、ここでゴヤのいわゆる”公平さ”と言われるものについて一言をしなければならないであろう。
戦争に公平も何もあるものかということになれば、何も言うことはないわけであるが、とりわけてフランス人の研究者たちは、敵味方双方の残虐行為をゴヤが”公平”に描き出しているということを強調し、そこから、たとえばスタンダールにおける、あるいはトルストイの戦場描写においての、敵味方にこだわらぬ”公平性”などと結びつける向きがある。
けれども私には、そういう言説は無用のものであろうと思われる。公平であろうがなかろうが、いずれは「血まみれな戦争の宿命的結果」なのである。
ゴヤ『戦争の惨禍』28

ゴヤ『戦争の惨禍』29

そうして三〇番の、怖るべき「戦争による被害」が来る。夜間、睡眠中の一家が砲弾の直撃を受けた結果の図である。
椅子は人々よりも高くはね上って何かにひっかかり、一人の女人もまた逆さに吊り下って死んでいる。
私は何もむげにピカソを否定しようとするものではないのだが、先の市民戦争においての、ナチ空軍によるゲルニカ無差別爆撃を悼みかつその怒りをぶっつけたピカソの『ゲルニカ』と、この一枚とをどうしても比較したくなる心持を自分に禁ずることが出来ない。
この一枚もまた、どこにも中心のない、画面のいずれの部分もすべて中心となりうる。その点でもゲルニカを連想させるものがあり、かかる悲惨に対して傑作ということばを寄せうる自分自身に、私は痛い自己嫌悪を覚える。

ゴヤ『戦争の惨禍』30「戦争による被害」1808-14

以上の二八、二九、三〇番を第三群とすれば、三一番から三九番までの、処刑、拷問、死体陵辱の図は第四群にあたり、それはもう「見ていられない」。

三一番の「これ以上何が出来るか」と詞書されたものは、仏兵によるゲリラの性器切断図である。スペイン・ゲリラもまた仏兵に対して頻繁にこれを行った。また現在でも、スペインの田舎に入って行って、市民戦争当時の話を、彼らの重い口から聞くとすると、共和国軍、フランコ軍とを問わずに、こういう残虐行為が行われたとの証言が、必ず最後には出て来るのである。

三三番は「これ以上何が出来るか」と詞書されているが、人間というげだものには、まだまだ出来ることがある。三九番がそれである。性器を切りとった上で、首と四肢をばらばらに切断して木の枝にぶら下げる! 「死体に対しての、何たる武勇ぞ!」という…・・。

三四番と三五番は、絞首刑の図であり、先のものは「ナイフを一本もっていたばかりに」と詞書され、後者は「何故か、誰も知らない」とされている。前者の、杭にしばりつけられて、咽喉に縄をまき、その縄を杭のうしろの煙い棒でまわして徐々に絞めて行く処刑法は、スペインに伝統的なものであった。

ゴヤ『戦争の惨禍』31

ゴヤ『戦争の惨禍』32

ゴヤ『戦争の惨禍』33「これ以上何が出来るか」1808-14

ゴヤ『戦争の惨禍』34「ナイフを一本もっていたばかりに」1808-14

ゴヤ『戦争の惨禍』35「何故か、誰も知らない」1808-14

ゴヤ『戦争の惨禍』36

ゴヤ『戦争の惨禍』37

ゴヤ『戦争の惨禍』38

ゴヤ『戦争の惨禍』39「死体に対しての、何たる武勇ぞ!」1808-14

ここまで書いて来て、私ももう気分が悪くなり嘔吐をもよおしかけているのであるが、この第四群と、四一番からはじまる第五群との中間に、一枚の怪獣図(四〇番)がはさみ込まれている。
この、豚と猪と虎の合いの子のような怪獣に一人の女性がとりついて、短剣で刺そうとし、剣先が口中に突き出ている。もはや耐えがたいまでに気特の悪くなっている私には、この怪獣でさえが、人間のやらかす所業に吐き気をもよおして、何かをゲーと吐き出しているかに見えて来る。
この怪獣は、最終的に(八一番)もう一度あらわれる。・・・
ゴヤにとってのこの怪獣は、すでに怪獣でも、怪でも獣でさえもなくて、それは現実それ自体である。そうして、この老画家の、人間としての真の偉大さ - という言葉を私は敢て使いたいと思う ー は、人間のやらかす所業の一切に耐えて、現実としてのこの怪獣をあえて描き出し、なおかつ、これを如何にしてでも押しとどめようとする、無名の、足腰ともに逞しい女性をこの怪獣にとりつかせたところにあるであろう

・・・ここにわれわれの老画家によってわれわれに差し出されているものは、すべてこれ”狂気の沙汰”と普通ならば言わなければならぬ事態であり、従って、この狂気の沙汰というものを含まぬ、あるいはそれを囲い込んで排除した、いわば理性一本槍の人間観というものは、人間観としては、人間世界にあって通行権を持たぬものだ、と画家によってわれわれは告げられているようである。

ゴヤ『戦争の惨禍』40「怪獣」1808-14




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