■明治17(1884)年秩父(16)「乍恐天朝様ニ敵対スルカラ加勢シロ」
*
11月(日付なし)
・上海に東洋学館設立。
この年7月、日下部正一、九州改進党員の宗像政・和泉邦彦・長谷場純孝が、「東洋学館趣意書」を発表。
*
日下部は神風連に参加、征韓論で奔走、佐賀の乱を助けようとして敗れ、西南戦争で西郷軍に参加して降服、秋田監獄に1年余を過す。
その後、熊本の反民権政社紫溟会に属す。
この年2月清国に旅行、大阪事件の弁護人横田虎彦によると、彼は清国をみて、「到底今にして支那の一部を分割せざれば、支部の十八省は遠からず欧州諸強国の植民地と化すること必然なりと信じ、機に乗じ寧ろ一部分にでも分取せばやとの考を起し、他日機会に応ぜん為め一筒の学館を設け、続々壮士を送りで予め事ある日を待たんとの決心を為し・・・」、佐賀出身の大陸浪人山口五郎太や玄洋社平岡浩太郎とも結びついて学館設立を計画。
山口は途中、「最早や学校などを作りて間に合わぬゆえ一つ奮発せんか」「かうして居てはいけぬ。今は清国は仏国からもやられる所なれば、我より兵を出さん」と言う。
*
この挙兵は、いわゆる福州組事件で、福州駐在陸軍中尉小沢豁郎を中心として大陸浪人が挙兵を図り実現せずに終った事件で、大井憲太郎、小林樟雄も日下部を通じてこの事件の計画に関係する。
小林によれば、事件の意図は、「朝鮮の独立其物に無形に関係し目的を達せんと欲する」もので、清仏戦争中の清国で挙兵し、間接的に朝鮮に対する清国の勢力を弱めようというのが目的。
東洋学館設立にはその後、小林樟雄、杉田定一、植木枝盛、末広重恭、中江兆民など民権家が関係する。
東洋学館設立・福州組事件も、ともにアジア侵略の動向に沿って生じたものであり、しかも国権主義者と民権家がともに関係する。
*
・川上音二郎、神戸大黒屋で仏教演説会。中止解散命令。
*
・西多摩郡五日市地方の山林所有者たち、大上田彦左衛門・深沢名生・高尾道太郎らを総代に地租上納延期願を県令宛に提出。
11月30日までに11、12両年度の山林原野の地租納入の決定が下った為の延納運動。各地で活発な嘆願運動展開。
*
・国会期限短縮建白書を起草。ただし、提出建白の日付は、明治18年4月。元老院受付は7月。
*
・この頃、福田英子、築地新栄町にあるミッションスクール新栄女学校(女子学院の前身)に入学。~翌年4、5月。
*
岡山から東京に出る。出るにあたっては、小林樟雄の紹介で自由党総理板垣退助に会って激励をうけ、ついで、自由党の運動や教育事業に資金援助を惜しまない土倉庄三郎から旅費50円、学資提供の約束も貰う。
上京後は、かねて板垣から紹介されている「自由燈」記者坂崎斌を頼る。英子は、ここで英語を学び、傍ら坂崎から心理学や、自由党の人々の思想的拠所の一つスぺンサーの社会哲学を学ぶ。
*
・文部省、「民権数え歌」が小学生に歌われるのを取締るため宮城県などの知事宛に内達。
*
11月1日
秩父蜂起。失うべき何物ももたぬ秩父の困民は、この日一斉蜂起する。
死刑7人・重罪296人。
*
・午前1時、松山警察署長吉峰警部、13名率い寄居町出発。
*
・午前1時25分、県警本部長江夏警部長、寄居に向う途中で浦和の警察本部・岩槻・所沢・大和田・飯能各分署の全警官の出動命令を出す。
*
・午前5時、県警本部長江夏警部長、寄居警察所到着。午前6時以降、本野上・小鹿野分署より急報届く。
*
・午前6時、松山警察署長吉峰警部、皆野村で大宮郷警察署長斎藤警部と合同、計23人で出発。「永保社」打毀しの周三郎を追う。
*
・朝、上州三波川村木下武平、4名率い秩父応援第3陣として秩父に向かい椋神社入り。
*
・午前10時前、吉峰・斎藤警部隊、阿熊渓谷入り。新井周三郎・柏木太郎吉らの銃撃で下吉田村清泉寺に逃込む。
清泉寺の警官隊を攻撃した柏木太郎吉・影山久太郎、抜刀接戦により斬死。門平惣平が苦悶する太郎吉の首を切り落とす。巡査4負傷。
午前10時頃、警官は下吉田村戸長役場に退く。
*
これより前、警官隊が阿熊の谷間を走るとき、巡査窪田鷹男が脚気の為に落伍、農家に匿われているところを戦死した柏木に捕えられ、周三郎と問答の末、斬られ、匿った農民も2日後に斬られ、首を晒される、とある。
*
○柏木太郎吉・影山久太郎:
落合寅市遺稿にある血判密約に名を連ね、秩父国民党運動には早くから携わる。
「神奈川県柏木太郎吉ハ博徒ニシテ、加藤織平方ニ久敷出入致シ居リタル者」(「田代栄助訊問調書」)。
「柏木太郎吉ハ門平惣平卜縁故アル者」(「新井周三郎訊問調書」)。
「新志坂ニテ殺サレタル柏木太郎吉ハ、神奈川県坂村木挽其村ニテ、伯父ヲ刃傷シ、秩父ニ来り、石間村加藤織平ノ子分ナリシ者、二六歳」(「田中千弥日記」)。
*
・午前12時、下鹿野分署の増援隊、下吉田村内での戦闘情報受け、清涼寺から下吉田戸長役場に移った吉峰警部と合流。警官の数は30余となる。
午後3時、織平・周三郎ら農民300が四方から役場を攻撃。警官隊は抜刀して、血路を開き脱出。逃げ遅れた青木巡査・秩父新道工事の県役人が捕虜となる
(青木巡査は椋神社迄連行。後、小鹿野~大宮郷~皆野と引立てられ、皆野で諭され新井周三郎の組に入る。11月4日新井に斬り付け殉職)。
午後5時頃、包囲の農民が椋神社に引上げる。
*
風布村の貧農・炭焼渡世の宮下茂十郎(33、重禁錮3年)は巡査青木与市に石塊を投げ、この石塊を額に受けた青木巡査は捕虜となる。茂十即はこの功により、青木巡査のサーベルを委ねられる。
*
埼玉県土木技師千葉正規、椋神社に連行され、菊池貫平より困民党参加を説得される。菊池は「現政府ヲ転覆スル革命ノ乱」と説明する。
*
・午前12時、鎌田警部、寄居を出発、皆野村で増援来着を待つ。
*
・午後1時、遠田宇市・坂本宗作・新井貞吉(23、寅吉息子)ら9名、上州勢の秩父応援第4陣として日野村出発。夜12時石間村加藤織平宅に着。蜂起軍を追尾し小鹿坂峠で追いつく(貞吉は後、信州転戦組に加わり十国峠捕虜巡査殺害事件で死刑)。
*
・午後2時、門平惣平、阿熊村新井駒吉宅にいた田代栄助に警官隊との戦闘、敵味方死傷者を報告。椋神社への進出を促す。
*
・午後2時、寄居に集結の警察官が40名に達した為、江夏警部長は、皆野村に向う。
*
・午後2時、三条実美一行、館林通過。
*
・貴布禰神社神官田中千弥の証言(「秩父暴動雑録」)。神官、中規模農家(負債あり)。
この日、畠に出ていたところ、午前11時、戸長役場から、非常事態のため巡査衆が大勢出張し、人夫を申し付けたので、得物を携え役場に集合するよう急報を受ける。
午後1時頃、家を出ようとすると、谷川一つ隔てた吉田往還を100人近い人数が白鉢巻、白襷、白い帽子をつけ、鉄砲組を前にして、槍、長刀、竹槍がこれに続き、吉田方面に押出して行く。
この耕地は誰も出ないことを申し合わせ、せがれを裏の山林に隠し、自分は現況を記録。
3時頃、4~5人が、「巡査共ハ残リナク片付タゾ、鉄砲大刀竹槍ナドヲ持テ椋神社へ出ヨ、出ザレバ焼払フゾ、早ク出ナイト片付ルゾ。」と怒鳴りながら上吉田へ走ってゆく。
4時頃、坂本宗作ら9名が近所の家から刀剣など強借。その時の暴徒の言葉。「今般自由党ノ者共、総理板垣公ノ命令ヲ受ケ、天下ノ政治ヲ直シ、人民ヲ自由ナラシメソト欲シ、諸氏ノ為ニ兵ヲ起ス・・・今般ノ役、運ニ叶ヒ勝利ヲ得バ金貨ヲ以テ厚ク謝セン。」
*
「秩父暴動雑録」が述べる「暴徒蜂起原因」。
①高利貸営業が必然的に困民を発生させる。
②自由党の「妄言、困民ノ心ヲ結ビ、貧民党ニ混淆シ」、ついには暴動に至る。
③賭博者で、高利貸に金を借りるのも、彼らと遊惰のやからである。
④警察官吏が農村の窮乏に眼をおおい、高利貸説諭請願をはねつけ、困民が家庭で安心して生業にいそしむ方法を考えず、また暴発を防止する点でも無力極まる。
*
・午後3時、石間村の主力が椋神社に向かう。石間の織平宅はこの日午前3時頃から農民100が集結、風布組も加わり、蜂起状態であった。
to be continued
0 件のコメント:
コメントを投稿