京都 永観堂(2011-11-04)
*延暦23年(804)
7月
・遣唐使船、肥前国を出発。遺唐大使は藤原葛野麻呂(かどのまろ)。
一行には桓武天皇の特旨によって最澄と空海が加えられている。
一行は4隻で出発。
第1船には留学僧(るがくそう)として空海が、第2船には請益僧として最澄が乗船。
第3船は行方不明、第4船は孤島に流される。
留学僧(学問僧)は、唐に一定期間滞在して仏教学の研鎖を積む者。元来、帰国は次の遣唐使ということになっていたが、空海は、行きと同じ遣唐使に同行して帰国。
請益僧は、随行する遣唐使とともに帰国しなくてはならない者。
空海
宝亀5年(774)年、讃岐国多度郡弘田郷(硯香川県善通寺市付近)に生まれる。最澄誕生の7年後。父は多度郡司佐伯直田公(さえきのあたいたきみ)で地方の明望家。母は阿刀(あと)氏。
幼時、母方の外舅で、伊予親王の侍講、阿刀大足(あとのおおたり)について学問を修める。
延暦7年に上京。
延暦10年、官人へのコースを目指して大学明経の科試をパスし、博士岡田午養(うしかい)・味酒浄成(うまざけのきよなり)らから教えをうける。
空海の故郷近くには佐伯氏の氏寺と考えられる古代寺院跡があり、讃岐国からは、明法家など多くの学者が輩出している。
また、多度津という港があり、畿内との交流も盛ん。空海が仏教や学問に興味を持つようになったのは、こうした生活環境にあったと言える。
順調にいけば、都で学者か下級役人に、あるいは故郷で郡司になったかもしれないが、ある沙門(在俗僧)と山会い、虚空蔵求聞持法(記憶力を増進する修行法)を授けられたことを契機にして、突然僧侶へ転身。
その後、吉野の金峯山、土佐の室戸崎、阿波の大滝岳、石鎚山などの四国の山々を跋渉し、山林修行に励う。
延暦16年(最澄が内供奉に任ぜられた年)、俗世と決別するために『聾瞽指帰(ろうこしいき)』(のち『三教(さんごう)指帰』と改題)を著す。この書は、わが国初の小説とも評され、仏教・儒教・道教をそれぞれ擬人化させた仮名乞児・亀毛先生・虚亡隠士などを登場させ、三教の論争の形をとりながら、仏教が一番勝っていることを説いている。彼の将来を嘱望し、出家に反対していた家族や親類縁者に対して、仏門に入る理由と自分の意志が固いことを示した宣言の書とでもいうべき性格を持っている。
その翌年、大安寺の勤操(きんぞう)について戒をうける。またこの年、大和国の久米寺の東塔の下で、久しく求めていた「大日経」を発見し密教への関心を沸き立たせる。
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8月
・桓武(68歳)、和泉・紀伊への巡遊。
その矢先、台風のために中院の西楼が倒壊し、近くにいた牛が死ぬ。天皇は牛年生まれなので、これを気に病む。
桓武行幸に先立って、坂上田村麻呂が行宮の地を定めるべく摂津・和泉に派遣されている。
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8月
・空海(31)ら遣唐使一行の第1船、福州に到着。
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9月
・最澄の乗った遣唐使第2船、明州(寧波)に到着。
その後、最澄とその弟子で中国語に通じている義真(後、初代天台座主、円珍の師。後出の青龍寺の義真とは別人)らの一行は、台州(浙江省)の長官陸淳の紹介により道邃(どうすい、天台中興の祖ともいわれる湛然の弟子、天台七祖で天台山修禅寺座主)や行満について学ぶ。
ついで、最澄は、天台宗を開いた智顗(ちき)が修行した地で、中国本土はもとより周辺諸国からの巡礼者で賑わう天台山国清寺に向かう。
2人は、巡礼に成功し、円頓戒(えんどんかい)という天台宗の戒を受けるが、帰国までの余暇に越州龍興寺や明州開元寺で密教の教えも受ける。
最澄らは台州に戻り、道邃から更に天台の教えを学び、菩薩戒を授けられる。
その後、明州で遥唐第1船の乗員と旧交を温めた後、経典を書写するため、越州の龍興寺に向かう。
龍興寺近くで順暁が修行していた。
順暁は、善無畏(ぜんむい)から続く天台の正統な継承者で、一行(いちきよう、弘景から天台を学んだが、善無畏の弟子でもあり、『大日経疏』をつくった)や不空(ふくう、真言第六祖、真言宗の根本経典の一つ 『金剛頂経』を漢訳)にも師事したことのある学僧。
最澄は順暁に学び、胎蔵界と金剛界の灌頂(インドの即位儀礼に範を求め、頭に香水を注いで、秘法を伝授する儀式)を授けられる。
最澄は、順暁の正式な弟子として認められた。
最澄は所期の目的を果たし、延暦24(805)年6月、明州から遣唐第1船に乗り帰途につく。
彼の請来した典籍は『僧最澄請来目録』のなかにみることができる。
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10月
・桓武、蘭生野(大阪府岸和田市か)に鷹狩り。
田村麻呂はこの鷹狩に奉仕し、綿200斤を与えられる。
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11月3日
・大使や空海ら遣唐使一行、福州を発ち長安に向う。
12月21日、長安着。
8月に福州海岸に漂着して早々、大使葛野麻呂のために地方官(福州観察使)への書簡を代作した(『性霊集』巻5)ことが効を奏し、人数制限の厳しい長安行きの一行に加えられる。
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12月
・桓武の発病。
心身の不調をきたし、年をこえても本復せず。怨霊に悩まされる夜が続く。
以後、仏教・神紙による快復祈願と恩赦が続き、とくに早良親王(延暦19年に崇道天皇を追贈)の怨霊への謝罪が多い。
延暦24年正月、親王を葬った淡路に寺院を建立、
延暦24年4月、親王を国忌(天皇・皇后の忌日で政務を行わない日)の例に入れ、改葬する手だてをとる。
延暦24年8月、6月に中国から帰国した最澄を殿上に呼び、悔過(けか、自分の犯した罪を償う仏教行事)を行わせる。
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12月21日
・遣唐使一行、長安東郊の長楽駅に到着、
翌年正月1日の含元殿での元日朝賀の儀にようやく間に合う(『日本後紀』延暦24年6月8日条)。
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