2011年11月10日木曜日

川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(5) 「四 山の手の子の下町住まい」

東京 北の丸公園(2011-11-01)
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川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(5) 
「四 山の手の子の下町住まい」
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「日乗」を書き始めた大正6年頃、京橋区木挽町9丁目の路地(現在の銀座8丁目辺り)に小さな家を借りていた。

随筆「断腸花」(昭和9年)によれば、その家は、三十間堀にかかった出雲橋に近い木挽町9丁目の裏通りにある格子造りの二階建て。
隣りは深雪という待合茶屋。
ここで電話を借りて仕出し屋から料理を運んでもらえる。
そのころ習っていた三味線を借りることも出来る。
真向かいの家は芸者の着物を縫う仕立屋でその隣りは駄菓子屋と豆腐屋。

三十間堀川は、銀座と木挽町を区切る堀割で、北は京橋川、南は汐留川と結ばれ、そこに汐留(新橋)の方から、出雲橋、木挽橋、三原橋、旭橋、豊玉橋、紀伊国橋、豊蔵橋、貞福寺橋が架かっていた。

荷風は江戸情趣の残るこの界隈を愛し、「新橋夜話」の一篇「見果てぬ夢」(明治43年)で、明治末年の三十間堀の様子を描いている。

このあたりは関東大震災のあとに昭和通りが出来、三十間堀は昭和24年に埋め立てられ、この家の位置を特定することは難しいが、だいたい現在の銀座第一ホテル(三井ガーデンホテル銀座)、銀座病院のあたり。
銀座通りと新橋の花街に近い華やいだ町で、モダン都市と下町情趣の両方がある。
都心だから行動にも便がいい。
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どの辺りかは、別記事である「永井荷風年譜(22)」をご参照下さい。
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築地界隈は、荷風好みの花街の雰囲気を持っていただけでなく、胃弱という持病を持っていた荷風にとっては医者に近いという利点もあった。

大正6年9月20日
「昨日散歩したるが故にや今朝腹具合よろしからず。
午下木挽町の陋屋に赴き大石国手の来診を待つ。
そもそもこの陋屋は大石君大久保の家までは路遠く往診しかぬることもある由につき、病勢急変の折診察を受けんが為めに借りたるなり」
とある。

日本橋にいたかかりつけの医師大石貞夫の往診の便宜のためにこの家を借りたという。

「断腸花」にはその他に、この「木挽町の陋屋」を借りたのは、自ら主宰する文芸誌「文明」の編集室に使うためと、三味線の稽古場に使うためとある。
その他、何よりも新橋の花柳界に近い地の利のよさがあった。

荷風はこの「木挽町の陋屋」を「無用庵」と名づける。
「深更腹痛甚しく眠られぬがまゝ陋屋の命名を思ふ。遂に命じて無用庵となす」(9月20日)


「無用庵」を別宅にした荷風はいよいよ「三味線」の世界に入っていく。
大正6年9月20日
「此夜木挽町の陋屋にて獨三味線さらひ小説四五枚かきたり」

三味線は、荷風の江戸趣味の道楽で、随筆「築地がよひ」(「文明」大正6年3月号)に「築地二丁目なる清元梅吉のもとに通ひそめてより早くも三年越しとはなりけり」とある。

老後の無聊の慰めのためと書いている。
「われ今さへ既に世とそむき果てたる身の、老後に到らばいよいよ尋ね来べき友もなく、訪ひ行きて語らん人もあらずなりぬべし。
かくては雪の日のさびしさ、雨の夜のつれづれをいかにすべき。
消えかゝる炭団果敢(はかな)き置炬燵の獨り居も、もし三味線持つ道知りたらんには、よしや勘処すこし位はづれても、獨絃獨吟、過ぎし日の夢思出でゝ自ら慰さむたよりともなりなん・・・」

荷風が三味線に凝って、「毎朝、暁起(げうき)直ちに築地に赴く事、今は殆どわが日課となりぬ」になったのは、荷風の廃滅趣味、江戸趣味のためばかりではない。
荷風「築地がよひ」に、「素人にして而も男たるもの蓋しわれ一人のみ」とある。
若い芸者たちから「先生、先生」と呼ばれ、親しまれる。
それも楽しかったのだろう。

荷風は「無用庵」で、親友井上唖々らと「文明」の編集の仕事をしたり、三味線の稽古をしたり、大久保の本宅からここに来て泊って小説を書くこともあった。

9月22日
「無用庵に在り。小説おかめ笹執筆」

「無用庵」は、単身者荷風にとって「家」の重みを感じさせる大久保余丁町の本宅とは違った逃避所であり、気ままな仕事場であり、下町の雰囲気を味わえる隠れ家だった。

山の手の人間である荷風は、「無用庵」にいるときだけは自分を下町の人間に擬すことが出来た。


荷風における山の手と下町、文明と文化の二重性、往還はこのころから始まっている。」(川本)

下町に住みたい気持は、明治41年にフランスから帰国したときに持っていた。
帰国直後の井上唖々あての手紙。
「僕も金の工面さへつけば一日も早く長屋でも借りたい下宿でもいゝ。場所は千束町か深川本所にしたいね」(明治41年8月8日)。

「無用庵」より先、大正4年、かねてからの夢を実現すべく、築地につい先頃まで待合だったという小さな家を借りる。
京橋区築地1の6。現在、銀座キャピタル・ホテルのあるあたり。
この頃の生活を書いた随筆「築地草」(大正5年)によると、近くには、清元の師匠の家、仏師屋などがあり、また、待合や妾宅が多かった。
「爪弾の小唄は常にわが壁隣につゞき新内の流しは夜毎窓外に雨の来るが如し」とある。

さらに大正5年、短期間だが、代地河岸、現在の柳橋1丁目に家を借りている。
築地、柳橋ともに隅田川に近い花街、「水」と「三味線」がある。

築地、柳橋の次に選ばれたのが木挽町。

小島政二郎が木挽町で見かけた荷風の姿。
「一度銀座で、向こうから歩いて来る荷風と擦れ違ったこともあった。
その時、彼は大きく黒のボヘミアン・タイを結んでいた。牡丹の花のような大きさだった。そのころ、そんなネクタイを結んでいる人は日本国中に恐らく一人もいなかったろう」
「黒の背広に、黒のソフト、黒のコバート・コート。コバート・コートというのは、上着とスレスレぐらいの短いオーバーだ。全部黒ずくめ。黒のソフトをやや前のめりにかぶって、両方の手をオーバーのポケットに突ッ込んで、大股に歩いて来た。
こんなハイカラ、こんなダンディななりをした文士なんか見たことがなかった」(『鴎外荷風万太郎』(文藝春秋))

アメリカとフランスで暮して帰国した帰朝者のダンディズム、モダニズムと、江戸趣味が荷風のなかに同居している。
西洋と江戸があり、現実の日本だけがない。
荷風の二重性の中心には、現実の日本の欠如という大きな空虚があった。」(川本)

木挽町の「無用庵」に約1年いた後、大正7年12月、再び築地に戻る。
築地2丁日30番地。築地本願寺近く。
今度は、借家ではなく、父から受け継いだ大久保余丁町の家を売り、その金で築地に家を買った
戸籍もここに移し、電話もひく。
長く永井家で働いている「老婆しん」も来る。

市川猿之助(2世)は市川圑子といっていた若いころ築地に住んでおり、荷風に「喜熨斗君(猿之助の本名)一寸来たまえ」とよくこの築地2丁目の家に呼ばれ、本の奥付に貼る検印を押したり、蔵書の虫干しを手伝ったり、外遊中の思い出話を聞いて日の暮れるのも忘れるようなこともたびたびだったという。(
猿之助「築地僑居のころ」)。

大正7年12月22日~23日に引越し

12月22日

「築地二丁目路地裏の家漸く空きたる由。竹田屋人足を指揮して、家貝書筐を運送す」

12月23日

「午後旅亭を引払ひ、築地の家に至り几案書筐を排置して、日の暮るゝと共に床敷延べて伏す」

早速、
新橋の芸妓八重福と親しくなり、引越しのための仮り住まいの旅館で床をともにしている。
22日
「午後病を冒して築地の家に往き、家具を排置す、日暮れて後櫻木にて晩飯を食し、妓八重福を件ひ旅亭に帰る。
此妓無毛美開、閨中欷歔(ききよ)すること頗妙」
八重福とは翌大正8年に入っても関係が続く。


1月1日

「八時頃夕餉をなさむとて櫻木に至る。藝者皆疲労し居眠りするもあり。八重福余が膝によりかゝりて又眠る」

1月2日

「夜半八重福春着裾模様のまゝにて来り宿す」

1月3日

「夜半八重福来り宿す」

1月4日

「八重福との情交日を追ふに従ってますます濃なり。多年孤獨の身邊、俄に春の来れる心地す」

柳橋、芳町(人形町)が江戸時代からの花柳界、
新橋から木挽町、築地にかけての花柳界は新興。

明治6年に煉瓦街が完成したのを期に銀座が文明開化の中心になる。
新橋(汐留)駅が鉄道の起点になる。
木挽町には逓信省と農商務省が出来る。
築地には海軍の諸機関(海軍病院、海軍大学、水交社など)が出来る。
そうした政治の中心地の夜の町として新橋の花柳界が生まれた。

古くからの花街、柳橋では、薩長の軍人や官僚を田舎者として相手にしなかった。
新橋はその結果、薩長など地方出身のエリートの遊ぶ町として栄えていく。

『資生堂百年史』(資生堂、昭47年)にある酔多道士「東京妓情」(明治16年)。
「維新で権力者になった地方出身者は『関東の花を折ろう』と東京一の柳橋におもむいたが、不粋な者としてきらわれたため、新橋に遊ぶことになった。新橋芸妓は喜んで迎え、その権力に便乗した」

柴田和子『銀座の米田屋洋服店』(東京経済、平成4年)には、新橋と柳橋の違いをあらわす「御前の新橋、旦那の柳橋」が紹介されている。

「花柳界と言えば、明治の初めまでは、墨田川に臨む両国橋のたもと、柳橋が一等地だった。

日本橋界隈の大商人がここに来て遊んだ。その頃新橋は、まだ微々として振るわなかった。
ところが明治五年に日本最初の鉄道、当時でいう陸蒸気が新橋と横浜間に開通すると、新橋が東京の玄関口となった。
東京駅が出来るのは、ずっと後の大正三年である。
それに新橋は日比谷の官庁街に近い。
明治維新の志士たちが出世して政府高官となり、新橋に来て遊ぶようになったのである」

「荷風はその新橋で遊んだ。
明治の文明を嫌った荷風が、明治の新興の花柳界に出入りした。
ここにも荷風の二重性、矛盾がある
明治の花柳界のなかにしか、江戸文明が生き残れなかったのも矛盾である。」(川本)

大正8年4月22日。
「朝まだき新富町の雛妓三四人押掛け来り、電話にて汁粉を命じ食ひ且つ唄ふ。
雛妓等先頃より余が寓居をよき遊び場所となし、折々稽古本抱えて闖入し来り、余の睡を驚すなり。
櫓下車宿和田屋の曳子は余が寓居をば遊藝師匠の住居と思ひゐるとのことなり」

荷風の家が若い芸者たちのたまり場になっている。困ったといいながらも荷風は楽ししそうだ。

市川猿之助、「胃腸が弱くてお粥ばかり食べて居られた先生の、孤独のつれづれを慰めるものは、江戸古来の音曲と『折々稽古本抱へて闖入し来り』『電話にて汁粉を命じ食ひ且つ唄ふ』その界隈の妓女達だったらうと思ひます」という。

「鯉川兼待」の名で「文明」に発表した有名な春本「四畳半襖の下張」はこの頃書かれる。

築地はまた銀座にも近い。
荷風は花柳界で江戸趣味を満足させながら、他方ではモダン都市銀座も享受する。
江戸趣味、陋巷趣味の荷風は、同時に誰よりもモダニストである
ここにも荷風の二重性がある。」(川本)

安藤更生『銀座細見』(春陽堂、昭和6年)。

「銀座を-特別の目的なしに、銀座という街の雰囲気を享楽するために散歩することを『銀ブラ』というようになったのは、大正四、五年ころからで、都会生活に対して特別警抜な才能を持っている慶應義塾の学生たちから生まれてきた言葉だ」

「雨瀟瀟」(大正10年)、「わたしは銀座の近邊まで出掛けた時には大抵精養軒へ立寄ってパンと缶詰類を買って帰る」。


随筆「銀座」(明治44年)

「銀座界隈は云ふまでもなく日本中で最もハイカラな場所である」とあり、自分は築地あたりの江戸の残り香を愛するが、同時に、このあたりのハイカラな風景に目を向けざるを得ないとしている。

「然しまた自分の不幸なるコスモポリチズムは、自分をして其のヴェランダの外なる植込の間から、水蒸気の多い暖な冬の夜などは、夜の水と夜の月島と夜の船の影が殊更美しく見えるメトロポオル、ホテルの食堂をも忘れさせない」


 「日乗」大正8年1月1日
築地明石町にあった外人専用のホテルで朝食としてショコラ(チョコレート)を畷り、クロワッサンを食したとある。
ショコラは銀座の三浦屋より取り寄せ、クロワッサンは、尾張町ヴィエナカッフェーというアメリカ人の店で買う。
「三味線」の世界にいる荷風が、他方で「ショコラ」と「クロワッサン」の朝食をとる。
江戸趣味とモダニズムが同居している。
江戸趣味はまたモダニズムの逆の形のあらわれでもあるのだから、荷風の二重性は複雑である

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