2011年11月10日木曜日

延暦24年(805)12月~延暦25年(806)1月 徳政相論 「まさに今、天下の苦しむところは、軍事と造作なり。この両事を停むれば、百姓安んぜん」

京都 永観堂の多宝塔(2011-11-04)
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延暦24年(805)
12月7日
・この日、桓武天皇は、参議藤原緒嗣(32歳、百川の子)と参議菅野真道(まみち、65歳、百済系渡来氏族出身)に勅して、「天下の徳政」(民衆に恵みを与える政治)を相論させる。

藤原緒嗣は「まさに今、天下の苦しむところは、軍事と造作(ぞうさく)なり。この両事を停むれば、百姓安んぜん」と主張して、軍事と造作、つまり征夷と造都の中止を主張

対する菅野真道は異議をとなえて譲らなかったが、桓武天皇は緒嗣の議を善しとして、停廃することを決めた。
有識者でこれを聞いて感動しない者はなかったという(『日本後紀』延暦24年12月壬寅条)。

「軍事と造作」の停止という、国政の基本方針の大転換をもたらしたこの論争を、「徳政相論」と呼ぶ。

光仁・桓武天皇の擁立に功績のあった藤原百川の子であるとは言え、桓武朝の政治を真っ向から批判することになりかねない意見を、若い緒嗣が自らの意思だけで主張できたとは到底思えない。
緒嗣の主張を後押しする官人が多数いたとしても、桓武天皇に事業継続の意思があれば、そもそもこのような討論はさせないであろう。
征夷と造都の中止は、桓武天皇によってあらかじめ用意されていた結論だったとみるのが自然である。

民衆の疲弊と国家財政の窮乏は、桓武も認めざるを得ない域に達している。
桓武は、信頼する官人2人に相反する意見を述べさせ、若い緒嗣の良心的意見を選択することによって、臣下の意見に耳を傾け、民衆の苦しみに理解を示す名君を演じてみせた。
25年の治世の中で、一貫して征夷と造都を進めてきた桓武が、最後に見せた引き際の演出である。

この日、民衆の負担を軽減せよとの桓武の給旨(勅語)に基づき、衛士(えじ)・仕丁(しちよう)・隼人男女・雅楽歌女・仕女の削減、封戸租の軽貨による京進、諸国貢調脚夫の役日数の削減、備後国が納める調の品目変更、伊賀以下21ヶ国に対する当年の庸の免除など、諸負担の軽減を公卿が建議し、勅許を受けている(『日本後紀』)。
徳政相論はそれに続いて行われた。

しかも桓武は、同年11月初めにこの方針を決定し公卿に伝えていた。
12月7日に軽減された諸負担のうち、隼人司に仕える隼人男女の削減、備後国の調に関する太政官奏が『類聚三代格』に収録されていて、それによれば、民衆の負担軽減を命ずる天皇の綸旨は、同年11月10日以前に出されていたことがわかる(『類聚三代格』巻4延暦24年11月10日太政官奏、同巻8延暦24年12月7日太政官奏。後者の日付は前田家本の11月10日が正しい)。

つまり負担軽減の方針は、すでに11月10日以前に示され、12月7日に具体的内容の確定と勅許が行われた。
それに続いて徳政相論を行い、征夷と造都を終わらせた。

民衆の疲弊という現実を桓武天皇が受け入れ、政策転換を余儀なくされたというのが実情。
桓武の側近で、東北の実情と民衆の疲弊を最もよく知る人物は、坂上田村麻呂である。征夷中止の決定には、田村麻呂が関わっていたと思われる。

また桓武は延暦19年7月に早良親王を「崇道天皇」と追称し、延暦23年12月に発病してからは、一層怨霊の慰撫に努める、翌年4月には淡路にあった崇道天皇陵を大和に改葬している。
早良親王の崇りによる身内の不幸を見続けてきた桓武は、崇りが自分に及んでいると思ったに違いない。
征夷と造都の中止には、桓武天皇の健康問題も絡んでいた。

徳政相論による征夷中止の決定を承けてまず行われたことは、東国を東北政策に関わるあらゆる負担から解放すること。
東国、特に坂東諸国は、征夷軍士・鎮兵の派遣、柵戸の移配、征夷のための物資の調達など、東北政策に関わる膨大な人的・物的負担を課されていた。
8世紀の100年間における東北政策の負担が、東国社会を疲弊させ、このことが征夷の続行を不可能にした大きな要因である。
徳政相論以後は、東国に負担を求めることは基本的になくなり、東北政策に必要な人と物は、一部を除いて陸奥・出羽両国でまかなわれるようになる。
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延暦25年(806)
この年
・平城朝、この年、諸王および五位以上の子孫で10歳以上のものは全て大学に入り、それぞれ学科を修得することを命じる。
嵯峨・淳和の時代においても、この政策に若干の修正を加えるが、その基調を保持する。
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・唐の白居易、「長恨歌」を作る。
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1月
・この月、最澄は朝廷に表を提出して天台法華宗の開立を乞い、まもなく勅許せられ、比叡山寺をその本拠とした。

朝廷側は、最澄の建議をいれて従来の南都六宗に天台をくわえ、諸宗の年分度者(ねんぶどしや)制(朝廷が、各宗で毎年人数を定めて学業を試験し、数名の得度者をゆるす制度)を確立し、それによって桓武の仏教対策を一層徹底させた。
最澄の立宗のための第一歩は、政治のツボをついて早期の成功を収めた。  

最澄自身が得た密教は、雑密と総称される、あまり体系化されていないものの一部である。
しかしそれでも最澄は一応灌頂という新式の伝法儀式を受けてきた。
密教と天台教学との関係を詰めていない最澄の思惑を無視して、朝廷はこの新来の法力をも国家に奉仕させようとする。
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・公出挙の利率を5割とする。
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1月26日
・最澄の提案を南都に置かれた僧綱(そうごう、僧正・僧都・律師で構成される僧尼全体の監督・指導機関)が認めるという形で、年分度者(ねんぷどしゃ)の定員が改訂される(『類聚三代格』巻二)。

年分度者は、毎年得度させる僧侶の定員のこと。
得度は、在家の仏教信者(男性を優婆塞=うばそく、女性を優姿夷=うばい、という)が、僧尼に従って一定の修行をして沙弥(しゃみ、女性は沙弥尼しゃみに)になること。
得度してさらに修行を積み、やがて受戒して比丘(びく、尼ならば比丘尼びくに)になり、ようやく正式な僧尼になれる。  

この年の年分度者の制度では、天台宗は、三論3人(うち1人は成実)、法相3人(うち1人は倶舎)、華厳2人、律2人と並んで2人の定員を得る。
天台宗に与えられた定員2人のうち、1人は『摩訶止観(まかしかん)』を読む天台教学の専門家、もう1人は『大日経』を読む密教の専門家であることとされた。

実際にはこの直後に桓武が没し、天台宗初の年分度者が誕生するのは大同5年(810)のこと。
ともかくこれで天台宗を学んで沙弥になるコースが成立した。  

*南都の諸宗派、そして、年分度者の監督に当たった僧綱(仏教の統制機関で僧正・僧都・律師から構成される)との関係
奈良時代以来、奈良の寺院には南都六宗と呼ばれる六つの宗派があり、僧綱を独占していた。
また、正式な僧侶になるために必須な授戒も、中央では東大寺戒壇院でしか行われず、僧綱が監督していた。
天台宗に年分度者が許可されたことについて、僧綱は、自らの権益を侵されたと感じた。
後に、最澄は僧綱と激しい論戦を行うが、その伏線はこの辺りから始まる。
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