北の丸公園 カワヅザクラ 2013-02-28
*1766年(明和3年)
4月初
・モーツアルト一家、ハーレムに行き、大オルガンを弾く。
中旬、アムステルダム着。
16日、モーツアルト、アムステルダム乗馬学校で3度目の音楽会。
一行はこのあと、ウトレヒト、ロッテルダム、ムールディク、アントヴエルぺ、メヘレ、ブリュッセル(以上でオランダの旅を終え)、ヴァランシエンヌ、カンプレを経てパリに着(5月10日)。
前日4月15日付「アムステルダム火曜時報」紙(フランス語)に予告。
「二人の子供が異なったハープシコードではなく、同じハープシコードで、4手でコンチェルトを弾く。・・・」。
この日付「デンマーク水曜時報」(デンマーク語)には「クラヴィアとヴァイオリンのためのソナタ」(K26~31)の出版広告。
「ヴァイオリンの伴奏を伴うクラヴィアのための6曲のソナタ、オランニエ皇女ナッサウ=ヴァイルブルク侯妃殿下に献呈。9歳の有名な若き作曲家J.G.ヴォルフガング・モーツァルトによる、作品4、価格3フローリン」
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4月22日
・フランス、アンヌ=ルイーズ=ジュルメーヌ・ ド・スタール、パリに誕生。
筆名「スタール夫人」、ホルシュタイン男爵夫人、旧姓ネッケル、ルイ16世の財務総監・銀行家ネッケル娘。皇帝ナポレオンの権力に対する抵抗運動を組織、反ボナパルトの精神的支柱ともなる。1786年、20歳で17歳年上のフランス宮廷付き駐仏スウェ ーデン大使スタール=ホルシュタイン男爵と結婚、2年後に別居して文筆活動にはいる。
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5月
・尼崎藩、武庫郡55ヶ村の農民、在々絞り油屋・干鰯屋への菜種販売の自由を大坂町奉行所に訴願(菜種訴願)。
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5月10日
・モーツアルト一家、パリ到着。宿舎はグリムが予約してくれていたパレ・ロワイヤルの近くにあるトラヴェルシエール通りの浴場主ブリエル宅(現、モリエール通り8番地)。
28日、ヴェルサイユ滞在。~6月1日迄。
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6月1日
・モーツアルト一家、パリに戻る。
12日、モーツアルト、『キリエ』ヘ長調(K.33)を作曲(最初に書いたキリエ)。
中旬、ショーベルトが仕えていたコンチ公ルイ・フランソワ・ド・ブルボンの宮殿(「タンプル」)での演奏会。
ギターの音あわせをしている歌手のピエール・ジュリヨットの伴奏をしようとしてチェンバロの前に座って、足をぶらぶらさせているモーツァルト。
これをミシェル・バルテレミー・オリヴィエが描いた絵がルーブル美術館所蔵となっている。
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6月3日
・幕府、大坂にあった長崎の銅会所を改めて銅座とし、諸国の銅を一手に買い受けさせている。(産銅の独占)
翌年、更に独占強化のため、代官川崎平右衛門を勘定吟味役に抜擢して鉱山のことをつかさどらせた。
この鋼は、貨幣新鋳にとって必要なものであり、その材料確保の意味もあるが、他方、中国との貿易にも棒銅(さおどう)として輸出されている。それだけに、その入手には強引な手をつかい、山師をして諸国の銅山を探らせその開発を急いだ。
のちに田沼意次非難の材料となる吉野の金峰山試掘もその一例。
これは、山の持主である醍醐三宝院門跡の運動によって中止されるが、そのために木は切り倒され、山肌は荒れ、近くにあった放牧地をすっかりだめにしてしまったといわれる。
出羽の秋田藩は、領内の銅山の収公を命ぜられ、付近の村々1万石が幕府の管轄に移される。但し、この銅山は、享保の頃から産出が乏しくなり、藩直営として収支の採算が苦しくなっていたものだった。
「銅座と銅の専売
明和三(一七六六)年の六月三日を以て、幕府は大坂に銅座というものを置いて、ここに銅の専売をやらした。この座において国々から出るところの銅はことごとくその座に集めて売らしめることにした。すべて銅を扱う問屋、銅の鋳屋、仲買等銅を扱う者は皆その座の指揮によることにした。また、諸国において昔から銅の出る山はなお多く銅を掘出すことを計り、また新なる銅を見出したものは、試みに掘って、たとい出る処が少くとも、これを外へは売らずして、皆大坂に送らなくちゃならぬ。その銅はすべて座に納めて速かにその価を授ける。地方から送って来た物は、その便宜に従って船の着いた時に、その座に告げて船から出す。また銅を輸送する途中、およびその他津々浦々或は海上において銅を売買する事は相成らぬ。窃に銅を貯えまたは質とする事も禁ずる。もし禁を犯す者あればその銅はことごとく没収する。従来貯えて在るところの物、もしくは質に取ってある物があればその高を書いて速かに座に送るぺし。国々より出た銅の高は予めその定額を計って前年の冬中に座に申告すべし。その銅の相場はその時に応じて銅座に張出をするによって、その相場に依って、銅を買う者は買うなり、また仲買から買取るようにして、その価を相場より高くすることはならぬという令を出した。」(辻善之助『田沼時代』)
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7月
・イギリス、ロッキンガム内閣、国王の信を失って更迭。
ピット、チャタム伯となり再び政権(名目上はグラフトン首相)。印紙法撤廃過程でピットの影響力が増大。
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7月1日
・朝廷、宮中に仕える役人たちに対して、菊の紋章入りの提灯をみだりに使用することを禁じる
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7月9日
・モーツアルト一家、午後8時、パリ出発。
モーツァルトがパリを去った後、パリでグリムの「文芸・哲学・批評通信」の報告。
「この驚嘆すべき子供は現在9歳である。ほとんど成長していないが、音楽では並みはずれた進歩をとげている。 彼は2年前すでに作曲をよくし、ソナタの作者であった。その後ロンドンで英国王女のために6曲のソナタを出版した。 オランダではナッサウ・ヴァイルブルク公妃のために他の6曲のソナタを公けにした。 彼は大オーケストラの交響曲をいくつも作曲したが、それらは当地で演奏され、広く喝采を博した。 またイタリア語のアリアをいくつも書いたが、私は彼が12歳になる前にイタリアのどこかの劇場でオペラを演じさせるのではないかと思う。 ロンドンで冬の間マンツオーリを聴いていた彼は、それを大変よく活かし、声ははなはだ弱いとはいえ、趣きと感情をともどもに備えた歌い方をする」
「彼はなんとも愛すべき人物であり、言うことなすことすべての中に精神と感情がこもっており、あの年齢の優雅さとやさしさがないまぜになっています」
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7月12日
・モーツアルト一家、この頃、コンデ侯爵ルイ・ヨゼフ・ド・ブルボンの招待でディジョンに到着。約2週間滞在。
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7月18日
・モーツアルト、ディジョン(ブルゴーニュ公国の首府)で音楽会。市庁舎大広間。
この演奏会の予告。
「コンデ皇太子殿下のお許しとご臨席による演奏会 ザルツブルク領主大司教楽長モーツァルト氏が、明日1766年7月18日、市長舎ホールで大演奏会を催す。その9歳の息子と14歳の娘が大作曲家たちの手になるクラヴィアの協奏曲を演奏する。彼等は2台のクラヴィアのための協奏曲や1台のための4手の作品も演奏する。少年は自分の作曲したアリアを歌う。序曲はすべてこの比類なき偉大な作曲家として、すでにヴェルサイユ、ウィーン、ロンドンの宮廷で驚異の的となった少年の手になるものである。音楽愛好家が好みの楽譜を持参すれば、すべてこの少年は初見で演奏する。・・・」
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7月24日
・北米、ポンティアック戦争終結。
オタワ族・イギリス、オスウィーゴ条約締結。インディアンはアパラチア山脈の東をすべて失う。
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7月26日
・モーツアルト一家、リヨン到着。4週間滞在。
コルドゥリエ広場のホールで毎週水曜日に開催されていた定期演奏会に出演。
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