日陰の花 シャガ 2012-04-23 江戸城(皇居)東御苑
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川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(47)「二十八 私娼というひかげの花」(その1)
「荷風の小説はその大半が女性を主人公にしたものだが、その場合の女性はほとんどがいわゆる玄人の女である。素人の女性はまず出てこない。初期は芸者、大正から昭和に入るとそれが私娼、カフェーの女給、踊子と多様化していく。いずれも都市の歓楽街、狭斜の巷に生きる女たちである。荷風にとって女といえば、家庭の女ではなく、あくまでも町の女である。そこがいかにも家庭というものを嫌った、単身者荷風らしい。」(川本)
「今日の価値観でいえば玄人の女と金を払って関係を持つとは女性蔑視もはなはだしいということになるが、「明治の児」である荷風にとってはむしろ遊びを玄人の女に限定しているのは、彼なりの倫理であり、美学である。」(川本)
「日乗」昭和3年12月31日
「(余は)女好きなれど処女を犯したることなく又道ならぬ戀をなしたる事なし、五十年の生涯を顧みて夢見のわるい事一つも為したることなし」
と誇らし気に書く。
「明治の男としての逆説的倫理観の表明」(川本)である。
素人の女には絶対に手を出さないというのが荷風の確固たる信念である。
「(荷風は)性的交渉をする相手は、絶対に玄人に限り、素人の女性には手をつけない。つまり、女性は金で買うべきであって、同じ階級の女性と対等の恋愛をすることは、罪悪であるという、今日のモラルとは正反対の倫理観を抱いていた」(中村眞一郎『つゆのあとさき』解説、岩波文庫、1987年)
玄人の女が相手だから当然そこには近代的な意味の恋愛はありえない。
あるのは恋愛ではなく好色、色恋沙汰である。
にもかかわらず荷風の作品は決して放恣な好色文学ではない。
形容矛盾を承知でいえばモラリストの愛欲文学、ストイックな好色小説である。
「女好きなれど処女を犯したることなく又道ならぬ戀をなしたる事なし」と自らを律したうえで荷風は玄人の女の世界へ入っていく。
自らに禁止事項を課したうえで遊んでいる。
決して放縦淫乱ではない。
明治の男としての限定はあったものの、彼なりの美的倫理をもった放蕩無頼である。
だから彼は決して女に溺れることはなかった。
数多くの女と性的交渉を持ったが、つねに冷静で、ビジネスライクといいたいほどに情にとらわれることはなかった。
もっとも封建的女性観を持った荷風が同時にもっとも近代的個人だったという逆説も成立する。
無論、買われた女にとってはしょせんただの淫蕩な客でしかないのだが。
「そうした数多くの玄人の女のなかで、荷風がもっとも愛したのは私娼ではなかったか。芸者よりも女給よりも、あるいは踊子よりも〝格下″の私娼こそ荷風の落魄趣味にもっとも合った女たちではなかったか。」(川本)
荷風の作品中もっとも美しい「濹東綺譚」(昭和12年)の主人公お雪は玉の井の私娼である。
かつて谷崎潤一郎や小林秀雄が評価した「ひかげの花」(昭和9年)の主人公お千代もまた私娼である。
戦後の短篇の佳品「吾妻橋」(昭和29年)も私娼の話である。
他に、「かし間の女」(大正15年)がある。
「私娼を措くとき荷風は生き生きとしてくる。」(川本)
若き日の「西遊日誌抄」(明治39年)にすでにニューヨークの「賎業婦」に対する愛情が記されている。
「鳴呼彼等不潔の婦女、余これを呼んで親愛なるわが姉妹となすを憚らず。余は光明と救ひの手を要求せず。余は彼等と共に一掬の鴉片を服すべき機会を待つのみ」
「デカダンス、落魄趣味、あるいはやつし。荷風は世の人々からは冷蔑されるニューヨークの私娼たちに熱っぽいオマージュを捧げる。過剰とも思われる愛着を表明する。」(川本)
「私娼は夜の女のなかでも、芸者などに比べれば、はるかに〝格下〞の「賎業」である。世をはばかる〝ひかげの女″である。芸者は職業として認知されているが、私娼はそうはいかない。法律の外にあって、世間から身を隠さなければならない。世を捨てなければならない。荷風はこの私娼こそを愛した。それはちょうど町でいえば濹東の陋巷を愛したことに似ている。荷風独特の裏通り好みである。」(川本)
「日乗」には実にしばしば私娼が出てくる。
行きずりの私娼、二度三度となじみを重ねる私娼、日々のものを与えて囲い者にする私娼。
荷風は実に多くの私娼と性的関係を持っている。
彼女たちと密室の快楽を共有している。
「日乗」昭和11年1月30日の16人のこれまで関係を持った女性の名前。更に、「此外臨時のもの挙ぐるに遑あらず」。
野口富士男『わが荷風』で、「終生女体にひたりきって倦むことを知らなかった」「異常とみるよりほかにない執拗な女体探尋」と書いた。
しかし、この16人すべてが芸者、私娼、女給と玄人の女に限定されている。「女好きなれど処女を犯したることなく又道ならぬ戀をなしたる事なし」という明治の男のモラルは守られている。
「日乗」に私娼の記述が出るのは、大正12年6月18日と、かなり早い。
「雨ふる。市兵衛町二丁目丹波谷といふ窪地に中村芳五郎といふ門札を出せし家あり。圍者素人の女を世話する由兼ねてより聞きゐたれば、或人の名刺を示して案内を請ひしに、四十ばかりなる品好き主婦取次に出で二階に導き、女の写眞など見せ、其れより一時間ばかりにして一人の女を連れ来れり。年は二十四五。髪はハイカラにて顔立は女優音羽兼子によく似て、身体は稍小づくりなり。秋田生れの由にて言語雅馴ならず。灯ともし頃まで遊びて祝儀は拾圓なり」
「吉原など公娼のいる歓楽街があったこの時代、私娼は非合法の売春である。荷風はそこに惹きつけられる。公娼に対する私娼の秘密性、闇の部分に惹かれていく。」(川本)
「十圓」という金額は、大正10年の荷風の慶應での月給が「三田文学」編集手当て込みで150円だったことを考えると、現在の金額で2、3万円というところか。
「日乗」にはこの日以後、私娼が頻出。
大正12年9月27日
「心身疲労を覚え、終日睡眠を催す。讀書に堪えされば近巷を散歩し、丹波谷の中村を訪ふ。私娼の周旋宿なり」
「丹波谷の中村」は、大正12年6月18日の「圍者素人の女」を世話するという家。
この家が松竹撮影所のある蒲田に引越してからは、わざわざそこに足を運ぶ。
昭和2年4月3日
「夜蒲田の新開地御園町と云ふ処に赴き中村と云ふ者の住居を尋ぬ、主婦不在にて空しく帰る、曾て震災の頃市兵衛町丹波谷に居住し素人の女を、周旋せしものなり、去年より蒲田に転居し松竹活動写眞女優の下廻を周旋する由なり」
東京の町の裏通りにある秘密めいた、いかがわしい〝私娼の宿″に惹きつけられている。年、「濹東綺譚」で玉の井の私娼お雪を訪ねる「わたくし」の萌芽をすでにこの時点で見ることが出来る。
それまでの荷風は花柳界での遊びが多かった。そこから「腕くらべ」や「おかめ笹」が生まれた。
しかし、大正末期、次第にその関心が、花柳界から、よりいかがわしく、秘密めいた私娼へと移行していく。
「東京が「江戸」から「モダン都市」へと様相を変えていくに従って、荷風の女への関心はよりアンダーグラウンドなものへ、より周縁的なものへと変化している。」(川本)
また現実に、関東大震災後、東京の町が「江戸」から「モダン都市」 へと大きく変るにつれて、夜の女の生態も変ってきている。
それまでの玄人中の玄人の芸者の領域に、半玄人というべき私娼が入りこんでくる。
玄人の素人化であり、素人の玄人化である。
玄人と素人の領域が曖昧化してきて、そこに私娼という新しい夜の女が作られている。
荷風はその変化に敏感である。
(つづく)
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