2013年2月19日火曜日

ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(61) 「第5章 まったく無関係 - 罪を逃れたイデオローグたち -」(その1)

北の丸公園 2013-02-18
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ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(61) 
「第5章 まったく無関係 - 罪を逃れたイデオローグたち -」(その1)

ミルトン(・フリードマン)は「理念は結果を伴う」という真理を絵に描いたような人間だ。
- ドナルド・ラムズフェルド米国防長官(二〇〇二年五月)

人々が刑務所に入れられたのは価格を自由化するためだった。
ー エドゥアルド・ガレアーノ(一九九〇年)

シカゴ学派の経済理論を実践するのに、弾圧が必要というなら、その考案者たちはなんらかの責任を感じるべきではないのか?
 ごく短い間ではあったが、南米南部地域で犯した罪によって、新自由主義運動が糾弾されるかに見えた時期があった。
それにより、新自由主義が最初の実験室であるラテンアメリカから世界へと広がる前に、人々の信頼を失うかと思われたのである。
一九七五年にミルトン・フリードマンがチリを訪れた運命の旅のあと、『ニューヨーク・タイムズ』紙のコラムニスト、アンソニー・ルイスは簡潔ながら挑発的な調子でこう問いかけた。
「もし純粋なシカゴ学派の経済理論をチリで実践するのに、弾圧という代償を払わなければならないのなら、その考案者たちはなんらかの責任を感じるべきではないか?」

 チリ経済革命の「知的立案者たち」は、革命遂行に伴う人的代償の責任を負うべきだ - そう主張したオルランド・レテリエルが殺害されたあと、彼の遺志を継いだのは草の根活動家たちだった。
この時期、フリードマンが講演を行なえば、必ずレテリエルの名前を挙げて彼を糾弾する者に中断されたし、フリードマンを称えるいくつかのイベントでさえ、彼は裏口から出入りすることを余儀なくされた。

ピノチェトを支持したフリードマンとナチスに協力したテクノクラートの間の共通点
 シカゴ大学の学生たちは、自分の大学の教授たちが軍事政権に加担したと知ってひどく幻滅し、大学に調査を要求した。
なかにはファシズムを逃れて一九三〇年代にアメリカに渡ったオーストリア人経済学者ゲルハルト・ティントナーのように、学生の側に立つ教授もいた。
ティントナーはピノチェト政権下のチリをナチス政権下のドイツになぞらえ、ピノチェトを支持したフリードマンと第三帝国に協力したテクノクラートの間に共通点を見出した(一方のフリードマンは自らを批判する人々を「ナチス」だと非難した)。

フリードマンとアーノルド・ハーバーガーの自己宣伝
 フリードマンとアーノルド・ハーバーガーはともに、ラテンアメリカ出身のシカゴ・ボーイズたちが成し遂げた経済的奇跡が自分たちの手柄であることを嬉々として喧伝した。
一九八二年、フリードマンは 『ニューズウィーク』誌に寄せた文章のなかで、さながら息子自慢の父親のようにこう書いている。
「シカゴ・ボーイズは(中略)卓越した知的能力と執行能力を兼ね備え、自分たちの信念と勇気と献身をもって実行に移した」。
また、ハーバーガーはこう語っている。
「これまでに書いたどんな論文より、私は自分の学生たちを誇りに思う。実際、あのラティーノ・グループは学術的な貢献よりもはるかに私自身の功績と言える」。ところがシカゴ・ボーイズが起こした”奇跡”に伴う人的代償という点になると、二人はそこにはなんの関係もないと言い切る。

チリの独裁には反対だが、専門的な助言はわるいことではない
 「私はチリの独裁的政治体制に対して明確に異を唱えるものであるが - 」と、フリードマンはニューズウィーク』誌のコラムに書く。
「一経済学者としてチリ政府に専門的な助言を行なうことは、悪いことだとは考えない」

チリ:自由市場経済のおかげで自由な社会が誕生した(フリードマン)
 フリードマンは回顧録のなかで、最初の二年間、ピノチェトは自分の力で経済運営をしようとしていたが、「一九七五年にまだインフレが猛威を振るっていたとき、世界的な景気後退の影響でチリも不況となったために、「シカゴ・ボーイズ」に助力を求めてきた」と主張している。
これは見え透いた事実の改竄だ。シカゴ・ボーイズはクーデター以前から軍部と協力しており、経済改革は神事政椎発足当日から開始されたのだ。
その他の場所でも、フリードマンはピノチェト政権(一七年間続いた独裁政権下で何万人もの人が拷問された)が民主主義を力で破壊したどころか、その反対だったと主張する。
「チリのことでいちばん重要なのは、自由市場経済のおかげで自由な社会が誕生したということです」とフリードマンは述べている。"

フリードマンのノーベル賞受賞
 レテリエルの暗殺から三週間後、ピノチェトの犯罪とシカゴ学派の経済改革との関係を雄弁に物語るニュースが飛び込んできた。
フリードマンがインフレと失業との関係に関する「独創的かつ重要な」業績を評価され、一九七六年のノーベル賞経済学賞を受質したのだ。
フリードマンは受賞スピーチの場を利用して、経済学は物理学や化学、医学などと同じように厳密かつ客観的な科学であり、その基本は事実に対する公平な分析にあると主張する一方で、自分に都合の悪い事実は無視した。
すなわち、受賞の理由となった彼の中心的仮説が誤りであることが、それを冷酷にも実行に移したチリに生じた現実 - 食料の配給を受ける人々の列、腸チフスの流行、閉鎖された工場など - によって生々しくも証明されたという事実である。

翌年、アムネスティ・インタナショナルがノーベル賞受賞
---拷問室で行なわれたショック療法は厳しく非難されるべきだが、経済的なショック療法は称賛されるべきである、ということなのか?
 一年後、南米南部地域をめぐる議論の本質を見せつけるような出来事が起きた。
アムネスティ・インターナショナルが、主としてチリとアルゼンチンにおける人権侵害を暴き、糾弾するという勇気ある行動を評価されてノーベル平和賞を受賞したのである。
実際のところ経済学賞と平和賞はまったく別個の賞で、別々の委員会によって選定され、授与される場所も違う。
けれどもこの二つの受賞を遠いところから見れば、あたかも世界でもっとも権威ある陪審員がこう評決を下したかのようだ - 拷問室で行なわれたショック療法は厳しく非難されるべきだが、経済的なショック療法は称賛されるべきである、と。
この二種類のショック療法は、レテリエルが皮肉たっぷりに書いたように「まったく無関係」というわけだった。
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