北の丸公園 2013-02-22
*昭和17年(1942)
11月21日
・閣議、陸軍の船舶増徴24万トン(海軍は3万トン)は認められるが、第1次徴傭は14万5千トンとし、残り9万5千トンは12月5日第2次決定とする(政府の一時逃れ)。
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11月23日
・ガダルカナル、第17軍戦闘指令所2回爆撃。
司令官、参謀長は軽傷。専属副官、護衛憲兵即死。事務用品など破砕飛散し事務処理にも事欠く状況。
この日夜、戦闘指令所を15km移動し903高地南側に設置。
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11月23日
・参謀本部、インド・アッサム進攻の「21号作戦」を、戦況悪化から実施保留指示。
南方軍第15軍(飯田)第18師団長牟田口廉也中将も反対。
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11月23日
・19日反撃を開始したソ連軍、スターリングラードでドイツ第6軍を包囲。
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11月24日
・ガダルカナル、この日以降、輸送の為、潜水艦が連日カミンボに入泊。この日は、陸上との連絡不備で失敗。
25日、伊17潜による輸送成功。
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11月24日
・東京都制案要綱閣議決定
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11月24日
・ドイツ空軍のスターリングラード空中補給、開始。
ヒトラー、第6軍に脱出を禁止
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11月25日
・SOEとギリシャ・レジスタンス、ゴルゴポタモス鉄橋爆破(ギリシャ経由でのリビアのドイツ軍への補給路遮断)。
9月末、イギリス落下傘兵1個小隊がギリシアに降下、現地抵抗勢力と連絡をとり、25日夜~26日、ゴルゴポタモス鉄橋を破壊。ギリシア人ゲリラ約150参加。
ギリシャのレジスタンス:
1942年6月ドイツ軍のソ連侵攻に対応して、ソ連は全世界の共産主義者に対ドイツ軍抵抗運動を呼びかけ。
ギリシアでは、既に共産党が抵抗組織「民族解放戦線(EAM)」編成にとりかかっている。EAMは共産党主導によるものではあるが、共産党は人民戦線戦術を採用。
ゴルゴポタモス鉄橋爆破成功に刺激され、EAM以外のレジスタンス組織も本格的活動を開始。1941年秋にアテネの旧政党関係者が結成した「民主ギリシア国民連合(EDES)」はゴルゴポタモス鉄橋爆破作戦にEAMと協力。
また、社会民主主義者プサロス大佐(後、共産主義者に暗殺)の「国民社会解放同盟(EKKA)」等も存在する。
大衆の支持はEAMに集まり、EAM軍事組織「ELAS」が1943年夏には2万人、EDES兵力は約5千人、EKKAは数百人程度。
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11月26日
・今村第8方面軍司令官、ラバウル着。
26日~統帥発動。
ガダルカナル島の第17軍司令官百武晴吉中将の状況報告。
「すでに糧食の補給を受けざること半月、それ以前の少量給与と相まち、大部分は栄養失調におちいり、飢餓による戦死者、日々平均百に及び、攻撃行動に堪え得る体力を保持する者ほとんど皆無なり。軍は密林内塹壕により、辛うじて敵の攻撃を撃退しあり。敵は我が頑強なる防戦に恐れ、陣内に突入し来らざるも、熾烈なる弾幕を浴びせ、特にその航空戦力をもって補給を遮断し、我が全員の餓死を待ちあるが如し」
12月、今村は、経理部長森田親三中将・軍医部長上原慶中将に、ガダルカナル島の戦況から判断すると、ニューブリテン島の日本軍もやがて孤立するかもしれず、最悪事態に備え万全の策を立てたいと伝え、上原には、この島のカナカ族と同じ物を食べて日本人は生きてゆけるものかどうかの調査研究を、森田へは、陸海軍将兵他約10万の日本人の現地自活策の調査研究を、指示。
3日後、森田は加藤参謀長から、ニュープリテン島方面自活計画を立案し、翌18年1月末までに提出するよう指示される。
森田は陸軍省へジャングル開墾や熱帯農業の権威の派遣を依頼。
その結果、18年1月中旬、熱帯産業研究所サイパン支所長山中一郎が、1ヶ月の予定でラバウルに出張。山中の指導の下に、軍参謀太田庄次、貨物廠長広田明その他が協議、自活計画案が今村に提出される。
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11月26日
・日立製作所亀戸工場、待遇改善要求に対して会社側からの誠意が見られず、「対抗手段として共産主義者指導の下に製品の手抜を為して不良品を作成せしめた」として首謀者6名を検束または不拘束の取調べ。
12月21日、要求撤回。2名は工場内に共産主義グループを結成したとされる。
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11月26日
・ユーゴ、ビハチ、ユーゴスラヴィア人民解放反ファシスト会議開催
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11月27日
・東条内閣閣議決定、「華人労務者内地移入に関する件」。強制連行。
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11月27日
・ドイツ軍『リーラ(藤色)』作戦(ツーロン港のフランス軍艦58隻の捕獲作戦)、トゥーロン占領。フランス艦61隻自沈。
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11月27日
・宋美齢、アメリカ到着。入院し、公に姿を現すのは43年2月。
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11月28日
・米、マンザナー収容所から最初の志願兵カール・ヨネダ等、米陸軍情報学校入隊。
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11月28日
・ラ・レユニオン島、自由フランスに参加
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11月28日
・ソ連軍、中部戦線で攻勢
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11月末
・英印軍、ブチドンーモンドウの線で反撃開始
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11月30日
・ガダルカナル、藤田中隊(歩兵第228連隊第8中隊藤田巌中尉)、イヌ高地から堺台を結ぶ線に捜索拠点を推進する為、薄暮に出発。
中隊はイヌ高地陣地の北部台上を東から西に突破、一本木付近を通過し、マタニカウ川河谷に沿って帰還。
藤田中隊長は敵陣鉄条網を破壊する際に、側防火器射撃により戦死。
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11月30日
・ドラム缶(ネズミ輸送)輸送開始。
29日午後10時30分、駆逐艦8隻に各艦ドラム缶200個を積み、2水戦司令官指揮の下、警戒艦2隻と共にショートランド出撃。
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11月30日
・ルンガ沖海戦。
ネズミ輸送作戦中の第2水雷戦隊田中頼三少将指揮部隊とカールトン・ライト少将部隊、ガダルカナル島周辺最後の海戦。
米重巡1、駆逐艦1。以降制海権は米に。
米海軍は、制海権を失った日本軍の駆逐艦の高速を生かした輸送(「Tokyo Express」)を阻止する為、カールトン・ライト少将率いる第67任務部隊(重巡「ミネアポリス」「ニューオリンズ」「ペンサコラ」「ノーザンプトン」軽巡「ホノルル」駆逐艦「フレッチャー」「ドレイトン」「モーリー」「パーキンス」「ラムソン」「ラードナー」をルンガ沖に派遣。
30日午後8時40分、田中頼三少将率いる第2水雷戦隊(駆逐艦「高波」「親潮」「黒潮」「陽炎」「巻波」「長波」(旗艦)「江風」「涼風」の順で単縦陣)がドラム缶各200個以上積みサボ島南方から泊地に突入、ドラム缶投入準備を始める。
ライト部隊旗艦「ミネアポリス」は、レーダーにより田中部隊を捕捉接近。
田中部隊はこれを発見、物資投入を断念し、全軍突撃を下令。
午後9時20分、ライト部隊の前衛駆逐艦部隊の魚雷20本は命中なく、巡洋艦部隊の射撃が日本艦隊先導の「高波」に集中、「高波」も反撃し2隻に命中弾を与えるが集中砲火を浴び大破、炎上。
一方田中少将は、午後9時22分、砲撃開始後、旗艦「長波」「江風」「涼風」は反転。
先行部隊の「親潮」「黒潮」「陽炎」「巻波」を指揮する第15駆逐艦指令佐藤寅次郎大佐は、正対する米艦隊をやりすごした後、絶好の射点から雷撃開始、次々と命中を出す。
反転した旗艦部隊も米艦隊に対し雷撃を敢行、多数の命中弾を出す。
米艦隊、重巡「ノーザンプトン」沈没、「ミネアポリス」「ニューオリンズ」「ペンサコラ」大破。
日本水雷戦が勝利した最後の海戦。
2水戦司令官に対する評価は、日本では芳しくない。
戦闘前の午後4時45分からの単縦陣制形の時、旗艦「長波」が中央に位置した事は、日本海軍の伝統を破るものであり、夜戦開始の際「長波」は一撃を加えただけで避退、全軍の適切な戦闘指導を行なわず、夜戦は各駆連隊、各艦ごとの戦闘になってしまった、という。
「ニミッツ・・・日本の砲火、魚雷戦の技術、エネルギーと忍耐と勇気を賞讃した。・・・田中は飛び切り素晴らしかった。・・・駆逐艦一隻を代価として重巡一隻を撃沈、他の三隻をほとんど一年にわたって戦闘不能とした。戦争における多くの作戦について、アメリカ側の過誤は、敵側のそれによって帳消しにされてきたが、田中は、その駆逐艦隊の短時間の混乱はあったにしても、タサファロングでは誤りを犯さなかった。」(モリソン「合衆国海軍作戦史」5)。
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11月30日
・佐藤賢了軍務局長、参謀本部に申入れ。
「陸軍省軍務局長曰く ①来年度鉄三五〇万トンは絶対確保するを要す ②右保持困難なるが如き作戦は御免蒙る。意中言外に「ガ」島作戦の中止を要求するが如し」(「機密戦争日誌」11月30日)
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11月30日
・横浜港停泊中のドイツ巡洋艦ウィッケルマイク、爆発して死者不明102人。
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