2014年5月21日水曜日

延久4年(1072) 天台僧成尋、北宋に渡る。 神宗に謁見。 後三条天皇、院蔵人所を開設。

江戸城(皇居)東御苑 2014-05-20
*
延久4年(1072)
・イングランド、ウィンチェスタ教会会議。
カンタベリ大司教ランフランク、ヨーク大司教座をカンタベリに従属せしめる決議。
*
・ウィリアム征服王令状。
「霊魂の規範に関わる訴訟」は教会法・教会裁判所で裁判、俗人の関与禁止。
*
・マグヌス、ザクセン大公即位(27、1045~1106、ザクセン大公~1106)。
ザクセン大公世襲のビッルング家(ビルンガー家)最後のザクセン大公。
マグヌス自身は1170年ハインリヒ4世に敗北し拘禁中。
ザクセンの有力者、父没後もマグヌスの拘禁を解かないハインリヒ4世に反乱(ザクセン反乱1173~1175)。
1095年、娘ヴルフヒルトがヴェルフェン家ハインリヒ黒大公と結婚。
*
・オットー・フォン・ノルトハイム、拘禁を解かれる。
1070年ザクセン大公息子マグヌスと共に皇帝ハインリヒ4世に反抗、バイエルン大公を罷免、拘禁。
*
・セルジューク・トルコ、アルプ・アルスラ-ン、没(位1063~1072)。
息子マリクシャー、即位(位1072~1092)。
サルジューク朝極盛期。行政はイラン人官僚機構が運営。名宰相イラン人ニザーム・アル・ムルク(国の秩序)(イスラム世界の統一を維持。
1092年イスマーイール派暗殺団により暗殺)。
*
・ブルガリア貴族の反乱。
第1次ブルガリア帝国皇室に連なるセルビア公息子コンスタンティン・ボディンに「ブルガリア人の皇帝」の称号を送り、ビザンチン帝国との戦いを継続。
コンスタンティン・ボディンはブルガリアをセルビアに併合しようとしたためにブルガリア貴族たちとの関係が悪化し、反乱は失敗に終る。
*
1月
・ゴルペヘーラの戦い。
カスティーリャ王サンチョ2世、弟レオン王アルフォンソ6世に勝利。
弟支配のレオンを併合。
父フェルナンド1世の帝国を統一。
サンチョ2世の最高司令官軍旗棒持者(アルフェーレス)はロドリーゴ・ディーアス(エル・シッド、29)。
レオン王アルフォンソ6世、トレード王マームーンの許に亡命(亡命期間1072年1月~10月)。
*
1月10日
・シチリア伯領の始まり
ノルマン人ロベール・ギスカール(57)弟ロゲリウス1世(41、ロジェ1世)、パレルモ攻略、兄ロベール・ギスカールよりシチリア伯に叙任
(ロベール・ギスカールはパレルモ、メッシナ半分、ヴァル・デモーネを直轄領として統治し、これ以外のシチリア島の大部分を取得、将軍アリスゴートゥス・デ・プテオリースにシチリアで広大な領地を与える)。
ロゲリウス1世は南イタリアで最も王に近い男となる。
*
1月23日
・後三条天皇、院蔵人所を開設、院蔵人に反藤原氏の人事を行って藤原排斥を狙う。
*
1月29日
・前関白藤原頼通、出家。
*
3月15日
・天台僧成尋(じょうじん、62)、肥前国松浦郡壁島(佐賀県呼子町加部島)で唐人船に乗り北宋に向う。
25日、蘇州に到着。

成尋:
寛弘8年(1011)~永保元年10月6日(1081年11月9日)、父は陸奥守藤原実方の子藤原貞叙。母は女流歌人で「成尋阿闍梨母集」を残す源俊賢の娘(成尋阿闍梨母)。
7歳で出家、岩倉大雲寺の文慶(もんきょう)に師事、その後悟円・行円・明尊から台密(天台宗における密教)の法を受ける。
1041年(長久2年)大雲寺別当、天喜元年(1053)延暦寺総持院阿闍梨となり、藤原頼通の護持僧となる。
1072年(延久4年)北宋へ渡り、天台山・五台山など智者大師の聖跡・諸寺を巡礼。神宗に謁見し、祈雨法を修し善慧大師の号を受ける。また、円仁や奝然の旅行記と恵心僧都源信「往生要集」を中国にもたらし、経典など600巻余を日本へ送る。自らも帰国しようとしたが、神宗に遺留され北宋に残り、汴京開宝寺で没。旅行記「参天台五台山記」。
*
4月23日
・杭州、日本語を話す高麗船人が、成尋を訪問。
杭州では、日本往来5回の船員陳詠を紹介され通訳とする。陳詠は、1年余、成尋の通訳を勤め、出家し、管許の僧となり、皇帝神宗の国書を携えて日本に渡る。
*
6月4日
・園城寺焼失。
*
8月
・アプーリアでロベール・ギスカールの留守を狙った反乱勃発。
ロベール・ギスカール、メルフィに戻る。
これ以降、シチリア島は弟ロゲリウス1世に完全に委される。
反乱参加者はロベール・ギスカール甥アベラルドゥス、ロベール・ギスカール有力家臣、カープア候リカルドゥス1世、サレルノ候 ギスルフス2世など。
秋、ロベール・ギスカール、全家臣をメルフィに召集、反乱者は誰一人姿を見せず。
*
9月5日
・後三条天皇、石清水八幡宮寺の荘園を定める(延久の荘園整理令)。
「太政官牒す 石清水八幡宮護国寺 宮寺所々の荘園三十四箇処のこと、 一、まさに旧の如く領掌すべき庄二十一箇処のこと、・・・一、まさに停止ずべき庄十三箇処のこと、・・・。」(「太政官牒」同日条)。
*
9月29日
・延久の宣旨枡。後三条天皇、量衡の制を定める。
*
10月
・後三条天皇、「仏法と国家に永遠の繁栄を」という自身の御願によって仁和寺内に建立した円宗寺で、「国家の泰平、五穀豊穣」を祈念して法華会を修させた。
最初の講師に園城寺僧を任じ、以後、延暦寺と圃城寺から隔年で講師を出させ、その実績によって僧綱(僧正・僧都・律師からなる仏教界を統率する幹部僧)に任ずることとした。

この頃は、南京三会(宮中御斎会・興福寺維摩会・薬師寺最勝会)の講師を務めることが正規の僧綱昇進ルートであり、天台宗は山門・寺門ともに独自の僧綱昇進ルートとなる法会の創設を念願していた。
円宗寺法華会は天台両門の願望に応えるものであり、後三条は、最初の講師を寺門から出して寺門の不満を宥めた。

しかし、それによって園城寺戒壇問題が解決したわけではない。戒壇問題の背後には天台宗内部の正統・異端をめぐるセクト抗争があり、これを権力的に決着することはできなかった。延暦寺と園城寺の対立を中心に、寺院間対立や強訴は以後、ますます熾烈なものになる。
*
10月7日
・カスティリャ王サンチョ2世、サモーラ(ドゥエロ河畔)包囲中に暗殺(位1065~)。
弟レオン王アルフォンソ6世、亡命先トレードより帰国し即位(位レオン王1065~1072、カスティーリャ・レオン王~1109)。
一旦分離したカスティーリャ・レオン王国が再び統合。
兄弟のガルシーア、亡命先セビーリャより帰国、アルフォンソ6世に捕らわれ幽閉、1090年没。
アルフォンソ6世の政策:教皇の臣下となることは拒否。初期にはイスラム教徒の領土を征服せず、イスラム教国に貢納を要求。
*
10月13日
・成尋、開封に到着。
2日後、皇帝神宗(24)に謁見。

開封相国寺前の延安橋のたもとに船を停泊、船から見たさまの記述。
「牛、車を懸けて過ぎ行く。日本の車屋形に似ると雖も、前後左右に四柱あり。窓蓋の柱なり」。
一行は、開封太平興国寺伝法院入りし、50日間逗留。

「午時(午前12時)三蔵来たりて請ふ。即ち房に向ひ皇帝に見(まみ)えしむ。日本風俗を問ふ。答ふ、文武の道を学ぶ。唐朝を以って基と為す。」(熈寧5.10.15)。
都の広さ、人の数、国の広さ、四季はあるか、どんな姓があるか、王(天皇家)の姓は何か、などを問われる。本国で必要な物は何か、と問われ、香・薬・錦・蘇芳などと答える。皇帝より、五台山に向う成尋ら僧8人の為に、通行する州府県鎮館駅に食糧支給させる手配がなされる。更に、官の馬10疋、護衛兵20人、馬の口取り20名が付けられ、一行は、49名・馬12疋の大部隊となり都の門を出る時は大勢の見物人がでる。11月1日開封出発。
*
11月27日
・成尋、五台山に到着。12月2日迄滞在、12月26日に開封に再び到着。
「廿七日、天晴れる。卯三点(午前7時)繁時駅行衛を出ず。申一点(午後4時)宝與軍宝與駅に到着す。未時(午後2時)、始めて滅山谷に入り、軍初門に入る。始めて東台頂を見、感涙先落す。」(熈寧5.11.27)。

開封では太平興国寺伝法院の居を定め、漢訳大蔵経作製作業を見聞、東アジア各地域の僧侶・海商と交流。深刻な旱魃に対する降雨の修法が奇跡的に成功、神宗から強く慰留され帰国を断念。
*
12月
・源顕房(師房2男)、白河天皇の践祚直前、一時的に、兄俊房の権中納言を超えて権大納言に進む。
前年、顕房の女で左大臣藤原師実(頼通の子)の養女の賢子が皇太子貞仁親王(さだひと、白河天皇)の後宮に入ったため。
後、堀河天皇即位後、外戚として権勢ふるい、村上源氏嫡流の座を占める。
*
*

0 件のコメント: