2014年7月20日日曜日

1782年(天明2年)1月 この年から天明の大飢饉 松平定信の反田沼意次活動 ヨハン・クリスティアン・バッハ没 【モーツアルト26歳】

オニユリ 江戸城(皇居)東御苑 2014-07-15
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1782年(天明2年)
この年
・この年から天明の大飢饉おこる。
天明2年は、春から夏にかけて雨が多く、諸国に洪水の被害がでた。
近世における稲作の北限に最も近かった津軽地方では、すでに安永8、9年、天明元年とあいつぐ岩木川の洪水に見舞われたが、さらにこの年に長雨と洪水・大風などが加わったため、津軽藩領全体で12万1,780石の減収となった。
この年は諸国の作柄は平均して6割程度であったといわれるが、奥羽地方では天明の大飢饉はすでに一足先に始まっていた。
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・米沢藩の藩政改革:
改革前期の諸政策は、農民負担の増大を招き、天明飢饉の被害を拡大した。
この年、竹俣当綱が、専権や公私混同のふるまいを理由に失脚させられ、1785年の藩主鷹山の隠退により、改革政治は一時中断した。
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・「天明二〔一七八二〕年に定飛脚問屋を大坂に置いて、その株式を許したが、これには冥加金を毎年五十両を出さしめた。」(辻善之助『田沼時代』)
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・藩校設立:薩摩藩の造士館(1782)
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・黄表紙:山東京伝、『御存商売物(ごぞんじのしようばいもの)』、絵草紙屋の競争のようすを描いている。
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・(年不詳!)天明の大飢饉の最中、蘭学者の杉田玄白は、「領主地頭の勢は何となく衰えて、下に権をとらるるに似たり」(『後見草(のちみぐさ)』)と述べている。
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・田沼意次暗殺計画と反田沼派の形成(松平定信の告白)
定信は、御三卿田安宗武の子で、8代将軍吉宗の孫、田安家から白河松平家の養子となった。
定信は11代将軍家斉への意見書の中で、二度ならず懐剣をしのばせて意次暗殺を図ったが、これを中止し、のち路線を変更して、田沼と親しくするふりをし、賄賂を贈って出世したと述べている。

同時に、定信は同志の者たちと内談し、意次打倒の計画を練ったことも述べている。
自叙伝『宇下人言』によれば、定信は1782年(天明2)の頃から、「刎頚の交(まじわり)」「惠蘭(けいらん)のちぎり」をする「信友(しんゆう)」の者たちと、定信派ともいうべき政治勢力を形成していた。
「この比(ころ)より信友多く交りてかたみに道を講じたり」(『宇下人言』)

そのメンバーは、本多弾正少弼忠籌(だんじようしようひつただかず、陸奥国泉藩1万7千石)、本多肥後守忠可(ただよし、播磨国山崎藩1万石)、戸田采女正氏教(うじのり、美濃国大垣藩10万石)、奥平大膳大夫昌男(まさとき、豊前国中津藩10万石)、堀田豊前守正穀(まさよし、近江国宮川藩1万3千石)、松平山城守信亨(のぶつら、出羽国上ノ山藩3万石)、牧野備前守忠精(ただきよ、越後国長岡藩7万4千石)、松平紀伊守信道(丹波国亀山藩5万石)、松平伊豆守信明(三河国吉田藩7万石)、加納備中守久周(ひさちか、伊勢国八田藩1万石、当時は世子)、牧野佐渡守宣成(のぶしげ、紀伊国田辺藩3万5千石)、松平越後守康致(美作国津山藩5万石)、松平河内守定奉(さだとも、伊予国今治藩3万5千石)、有馬佐兵衛佐誉純(越前国丸岡藩5万石)、松平大膳亮忠告(だいぜんのすけただつぐ、摂津国尼崎藩4万石)らであった。
これらの大名の多くは、5万石以下の小藩で、財政窮乏や百姓一揆・打ちこわしの危機に直面し、幕府権力の強力な指導を必要とする者たちであった。

このころの会合は、和歌を詠み合ったり、相互に善行をすすめたりする一種の修養会のような性格であったが、しだいに時勢を慨し、幕政のあり方を批判する政治的集会に変化していった。

本多忠籌:
定信は、「古にいふ英雄、かつ至て信実深く、義あってよく物に感ず」(『宇下人言』)とその人柄を激賞。
泉藩の表高は僅か1万5千石、生産力は低く、平年でも減収が普通であったから、慢性的な財政難に苦しんでいた。
忠籌は藩主になると、1万5千石のうち5千石を藩債返還にあて、残り1万石で藩の一切の費用を弁ずることにし、自分はもとより家中・領民にもきびしい倹約を命じた。
その結果、20年で天明元年には藩債をほぼ完済し、1万両の軍用金まで貯えた。
しかし、翌々年には天明の大飢饉に襲われ、領地の平均減収約4割という大被害をうけた。忠籌は難民に食料・種籾を給し、郷蔵を各所にたてて凶年に備えさせたので、白河領と同様、領内から1人の餓死者もでなかったという。
忠籌はまた荒地の再墾を奨励したり、堕胎・間引きを禁止し、養育金を交付して人口増加につとめるなど、目ざましい活動をくりひろげた。
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・幕府、勘定方役人を派遣、手賀沼・印幡沼開墾実地検分。
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・米、オハイオ州ナーデンヒュッテンでのデラウェア・インディアン虐殺事件。男35、女27、子供34。ペンシルバニアを追われ、更に追われてサンダスキーに移るが、収穫期にナーデンヒュッテンの元の農場に戻った時。
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・広州、ジャーディン・マセソン商会、設立(1832年の改組後、この名を用いる)。
当初はアヘン・茶の貿易(アヘン戦争前、林則徐が広州で没収したアヘン2万箱中7千が、この商会のもの)。
1843年、上海開港後、上海支店設立。後、各地に進出。各業種に手を広げ、一大コンツェルンを形成。
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1月
・オーストリア、神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世、教育・社会活動に携わっていない修道院廃止。国家と教会の分離。
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・初、モーツアルト、クラヴィーアのための幻想曲ニ短調(K.397(385g))作曲。
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1月1日
・ヨハン・クリスティアン・バッハ、ロンドンで没。
バッハの死は「音楽界にとっての損失」(1782/4/10付、モーツアルト、父への手紙)。
4月10日付のモーツァルトの手紙。
「イギリスのバッハが死んだことはもうご存知でしょうか? 楽界にとって残念なことです!」
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1月23日
・この日付けモーツアルトの父レオポルト宛ての手紙。ウィーンでの三つの目標について語る。
①リヒテンシュタイン侯アーロイス・ヨーゼフが「ハルモニー・ムジーク」(吹奏楽団)を作ろうとしていて、これに作品を提供すること。これはいささか確実な話で、終身契約も可能。
②皇帝が宮廷音楽家にしてくれること。皇帝自身の話では望みがありそうだった。
③マクシミリアン・フランツ大公のこと。大公が既にケルン選帝侯だったら、自分もとっくにその楽長になっていたことだろう。
モーツァルトは第二が最上だと語る。だが、こうした希望的観測はいずれも実現しなかった。

なお、彼はこの手紙で生徒が3人になり、毎月18ドゥカーテンの収入があると報告。
もう1人生徒があれば24ドゥカーテン(102フロリーンと24クロイツァー)で、「これだけあれば、当地で妻と二人で(静かに落ち着いて暮していこうと思えば)充分生計がなりたちます。」
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1月30日
・この日付けモーツアルトの父レオポルト宛ての手紙。
「オペラ(*『後宮からの誘惑』)は眠っちゃったわけじゃありません。そうじゃなくて ー グルックの大歌劇のためと、それに台本がどうしても書き変えなければならない箇所がたくさんあったために、そのままになっているのです。でも復活祭がすめばすぐに舞台にかけられるでしょう。」
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