江戸城(皇居)東御苑 2014-07-15
*眼前の風景のなかに過去を見る。古典を重ね合わせる。いわば荷風はいつも風景を通して過去を見ている。過去の文人たちと風景を通してつながろうとしている。こうした文人趣味の荷風にとって、この時期、慰められたことのひとつは、岡山と熱海に成島柳北の足跡を見たことだろう。
随筆「隠居のこゞと」(大正11年)に「余の平生好んで幕府遺臣の随筆を讀むは時に遇はざるの感慨平々淡々たる行文の中自ら言ふべからざる悲調をなせるものあるが故なり。成島柳北の紀行随筆の類は余が青年の頃より今に至るも讀んで猶飽かざるものなり」とあるように荷風は旧幕臣柳北の随筆や日記を好んで読んだ。
随筆「成嶋柳北の日誌」(昭和2年)に詳述されているように大正15年には柳北の孫大嶋隆一から、「硯北日録」「航薇日記」はじめ柳北の手沢の日記を借り受け、連日これを翻読し、筆写した。
この時期の「日乗」には、
「硯北日録を讀みて夜分に至る」(大正15年10月21日)、
「柳北の硯北日録を讀みて深更に到る」(10月22日)、
「終日硯北日録をうつす」(11月2日)、
「午後柳北の日誌を写す」(11月22日)などとある。
丸谷才一は「断腸亭日乗」の文体は、柳北の文体に倣っていると喝破したが(日記の文体」、「図書」昭和55年11月号)、「午後柳北の日誌を写す」という文章からは確かに柳北の日記を眼前にした荷風の興奮が伝わってくる。
「柳北先生の硯北日録七巻を写し終りぬ、餘すところ投閑日録日毎之塵其他十数巻あり、卒業の日猶遠しといふべし」(昭和2年1月6日)、
「燈下硯北日録の注釋をつくりて深更に及ぶ」(1月7日)、
「讀書抄写日課の如し・・・二更前家に帰り柳北の投閑日録を写し畢る」(1月12日)、
「成嶋柳北の書簡航薇日記獄中詩稾その他凡て大嶋氏より借りたりし文書を整理し使の者に持たせて同氏の手許に返送す」(昭和3年2月22日)
「濹東綺譚」の「わたくし」が日本堤の古本屋で、亭主に「檀那、花月新誌はお持合せでいらっしゃいますか」といわれ「持ってゐます」と答えるのも柳北への景仰の念からだろう。
岡山、熱海と流浪する荷風が、それぞれの土地で柳北との縁を知ったときの喜びは想像に難くない。
7月13日、菅原明朗と2里半の道を歩き、福田村という小村を訪ねる。岡の上から小豆島が見える。
「余小豆島の名を聞き成嶋柳北が明治二年にものせし航薇日記中の風景を想起し却て一段旅愁の切なるを覚えたり」。「航薇日記」は柳北が明治2年、幾内、山陽を旅したときの日記。荷風は眼前の風景を過去の文人の旅に重ね合わせている。
ただこのときは「却て一段旅愁の切なるを覚えたり」と柳北を思い浮かべることでかえって流浪の身を嘆いている。
しかし、岡山で終戦を迎え、9月に熱海で暮すようになって、この地がまた柳北と縁のあるところと知ったときには喜びを隠さない。
9月5日
「秋霖の天気午に近くして初て霽る、木戸氏の留守宅頗廣大なり、鑛泉を引きたる廣き浴室もあり、書齋は西洋づくりにて活版の書冊多し、偶然架上に柳北全集のあるを見出し驚喜して巻中の航薇日誌を讀む、餘今黄薇の地を去り東行して熱海に来る、熱海は柳北が晩年病を養ひし處ならずや、餘弱冠のころより柳北先生の人物と文章とを景慕して措く能はざるもの、今その遊跡の同じきを知り歓喜の情更に深きを覚ゆ」
柳北は明治17年に向島の自宅で没したが、明治14、15、16年と熱海に遊んでいる。それを知っている荷風は、「今その遊跡の同じきを知り歓喜の情更に深さを寛ゆ」と感動を記している。
家を失ない、先の見通しも立たない老いた荷風が、柳北によって慰められている。
偏奇館炎上のあとの「日乗」が災禍の日々にあってなお平静を保っているのは、荷風が過去を、過去の文化を意識していたからこそだろう。現実には背を向けている荷風が、柳北に象徴される良き昔とは深くつながっている。
大日本帝国とは切れている荷風が、それゆえに、江戸の文人との連続性を保っている。
文化の厚みとはこのことをいうのだろう。
そしてもうひとついえることは、この戦乱の日々、荷風が精神の平静を保つことが出来たのは、他ならぬ「日乗」のためだった。
日々、日記を書き続けることで、精神の荒廃におちいる危険をまぬがれた。文が荷風を支えた。さらにいえば「日乗」の硬質な文体そのものが、荷風に緊張を与えた。
丸谷才一のいう「清雅と猥雑を包括して、まるで現実の総体をとらへたやうに錯覚させるあの魔術」によって、荷風は少なくとも「日乗」という作品のなかではストイックに自己を律することが出来た。
確かにこの時期の荷風はしばしば弱音を吐く。しかしそれが「日乗」のなかでは文体によって濾過され、愚痴や哀嘆でさえ一個の言葉として美しく自立する。
6月21日
「軒裏に燕の巣ありて親鳥絶間なく飛去り飛来りて雛に餌を與ふ、この雛やがて生立ち秋風立つころには親鳥諸共故郷にかへるべきを思へば、余の再び東京に至るを得るは果して何時の日ならんと、流寓の身を顧み涙なきを得ず」
7月13日
「余小豆島の名を聞き成嶋柳北が明治二年にものせし航薇日記中の風景を想起し却て一段旅愁の切なるを覚えたり。薇陽の山水見るに好しと雖到底余の胸底に蟠る暗愁を慰むべきに非らず」
9月6日
「行李を解きてより既に数日を経たれど一二度郵便出しに出でし外杖を門外に曳きしことなし、終日一室に静臥し讀書に空腹の苦しみを忘れんと力むるのみ、此地の食料折々鯖鯵など魚類の配給なきにあらねど馬鈴薯南瓜など腹のはる野菜少く、五叟の家にては米飯も古に二度炊しぐのみ、此れを薇陽総社町の旅宿に比ぶれば其量半分にも及ぼざるべし、将来の健康を思ひ朝夕秋風の冷なるを知るにつけ心情暗惨たらざるを得ず」
言っていることは、要するに、早く東京に帰りたい、美しい風景を見ても心が慰められない、腹が減った、熱海の食料事情は岡山に比べ貧しい、といった弱音、愚痴なのだが、それがひとたび漢語まじりの文語体によって表現されると、硬質、端正な作品となって立ち上がる。
まさに丸谷才一のいう「魔術」である。しかも、散策、古典読書、風景の見立てといった文人趣味が、文体の強度をさらに補強していく。
偏奇館炎上後の困難な時期に荷風を支えたのは、他ならぬ「日乗」の文体だったということが出来るだろう。
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