北の丸公園 2014-10-14
*應徳4年(1087)
この年
・ハンガリー王ラースロー1世、イシュトヴァーン1世を列聖。
*
・教皇ヴィクトル3世、没(位1086~1087)。
*
・フランス、アキテーヌ公ギョーム8世(30、1056~1086)、没。最古(最初)の吟遊詩人。ギョーム9世、即位(ギレム、15、1072~1126、位1087~1126、アリエノールの祖父)。
*
・フランス諸侯軍、スペイン 遠征。サグラーハス(ザッラーカ)の戦いの敗北後、ブルゴーニュ、ノルマンディ、フランス南部より大軍を集める。トゥデーラ(エブロ河畔)の包囲に失敗、帰国。
*
・フランドル伯ロベール1世(ル・フリゾン)息子ロベール2世、父と共に共同統治開始(6年間)。
*
・ピサ、北アフリカ・メヘディア(メーディア、チュニス南)、バレアレス群島を強襲、勝利。西地中海制海権を確保。
*
・ロゲリウス1世、シチリア南海岸(中央部西)アグリジェント征服。
*
・カスティーリャ王アルフォンソ6世、ロルカでセビーリャ軍を破る。
*
・サルジューク朝マリクシャー宰相ニザーム・アル・ムルク、騎士采邑地制度創設。采邑授与を初めて世襲化、半独立国家分立の道を開く。
*
1月1日
・現存する藤原宗忠『中右記』がこの日から始まる。
「今日、私の暦記、部類し了んぬ。寛治元年よりこの五月に至るよんかく卅四年間の暦記なり。合せて十五帙百六十巻なり。去々年より今日に至るまで、侍の男共を分かち、且つは書写せしめ、且つは切り続(つ)がしめて、その功を終ふるなり。」(保安元年(1120)6月17日条)
宗忠はこの時、右近衛権少将、26歳。前年末の堀河天皇の即位、代替りをうけて新年から執筆を開始したと考えられている。
尚、書き終わりは、保延4年(1138)2月29日条。
「入道聖人を請ひて、受戒す。世事今より心に長く断ち、日記せざるなり」とある。亡くなるのはこの3年後であるが、以後は日記はない。
『中右記』は34年分の日記を全て書写させて写本を作り、それを切り張りして、宗忠みずからが指揮して膨大な部類記を作った。
その理由は・・・、
「これ只(ただ)、四位少将宗若し奉公志を遂げば、公事を勤めしめんがために、抄出する所なり。他人のためには定めて鳴呼(おこ)を表はさんか。我家のためには何ぞ忽忘に備へざらんや。仍りて強ひて老骨を尽くして部類する所なり。全く披露すべからず、凡て外見すべからず、ゆめゆめ。若し諸子の中、朝官に居る時は、少将に借り見るべきなり。」
長男の四位少将宗能(むねよし)がよく奉公し公事を行なうために(宗能は二条天皇の代に内大臣へ昇った)、大部な部類記を作った。また、人に見せるのを禁じ、家の財産として長男に継がせようという閉鎖的な扱い方がみられ、道長の時代とは異なってきている。
*
2月5日
・白河上皇、この日落成した鳥羽殿に初めて渡御。
10日、周辺を遊覧して源顕房「古我の水閣」に幸し、そこから帰京。
*
3月28日
・従五位下藤原為隆を越前権守に任じる。
*
春
・エル・シドの帰参
春、カスティーリャ・レオン王アルフォンソ6世、エル・シッドの罪を赦す。
エル・シッドをサラゴサのムスタイーンとの戦いに送り、征服した土地は全て世襲として与えると約束。
エル・シドは続く数年、イベリア半島東部全域で戦う。
*
4月7日
・ 「寛治」に改元。
*
4月15日
・摂政藤原師実・賀茂社参詣.若狭守藤原正家、御幣を献じる(「為房卿記」)。
*
5月30日
・ハインリヒ4世長男コンラート、共同国王に即位(13、1074~1101、共同国王在位1087~1098)。
ハインリヒ4世長子コンラートの離反。
教皇派の中心トスカーナ女伯マティルデの説得。
コンラートは父ハインリヒ4世後妻のロシア公女プラセーデと手を組み父と敵対、教皇の前に膝を折り皇帝を名乗る。
しかし、実権なく直轄領も収入も無い。
やがてヴェルフェン家の再度の裏切りにより、コンラートの野望は破綻。
1101年廃嫡され失意のうちに没(28)。
*
6月
・この年の春から夏、義家は国衙の業務を停止し、兵粮米の確保、坂東諸国の郎等たちの召集など、戦争準備に専念。
これを知った政府は、合戦を停止させるため官使を派遣。
*
6月14日
・東大寺、若狭封戸からの米20石の代物の仮納返抄を出す。
*
6月14日
・若狭守藤原正家、権左少弁藤原為房に摂政藤原師実の初度の上表にあたり上表文を作るよう指示。
24日、摂政藤原師実初度の上表。若狭守藤原正家が上表文の草案を作成。越前守源清実ら表をのせる机を運ぶ(「為房卿記」)。
*
7月1日
・摂政藤原師実2度めの上表にあたり、若狭守藤原正家、上表文草案を作成(「為房卿記」)。
*
7月9日
・奥州の合戦を停止させるため、使が発せられる。
*
7月25日
・陣定で越前の唐人のことを議論。
「陣定有り。越前の唐人の事、按察大納言(藤原実季)これを承る」(「為房卿記」寛治元年7月25日条)。
「越前の唐人の事を定め申さる」(「本朝世紀」7月某日)。
27日条では「仰せて云く、大宰府に非ずして唐人を安置すべきや否やの事、尋ね申すべしてえり」(大宰府以外の地に安置してよいかどうか議論)。
8月16日条では「早旦、召しに依り殿下に参る。越前の唐人の廻却宣旨(中略)等」とあり、「廻却宣旨」が出ている。
「越前国の唐人の事、并に国々条の事を定めらる」(「本朝世紀」12月7日条)、
「諸卿、越前国の唐人の事を定め申す」(「百練抄」同日条)とあり、少なくとも寛治元年7月~12月宋人が越前に滞在していたことがわかる。
*
8月16日
・越前の唐人を廻却させる宣旨につき、藤原為房が摂政藤原師実に呼ばれる(「為房卿記」)。
*
8月23日
・摂政藤原師実3度めの上表にあたり、若狭守藤原正家、上表文草案を作成(「為房卿記」)。
25日、官奏にあたり若狭守藤原正家、申奏(「為房卿記」)。
*
8月28日
・東大寺、若狭封戸からの米150石の代物の仮納返抄を出す。
*
9月9日
・ノルマン朝イングランド始租ウィリアム1世(59、ギヨーム征服王)、占領したマンテ入城の際に落馬して負った重傷がもとで、ノルマンディのルーアンで没。
第3子ウィリアム2世(27、赤顔王)がイングランド国王を、長子ロベール(34、2世)がノルマンディ公領を継承。4男ヘンリ1世(19)は兄ロベール家臣としての所領のみ(1100年ウィリアム2世殺害、即位)。
26日、ウィリアム2世、イングランド国王に即位。
ウィリアム1世臨終の際、へンリーを除く息子達は父の臨終の床を見捨て、付き従う従僕も持てるだけの戦利品を持って姿を消す。心ある家臣が遺体をノルマンディーのカーン修道院に埋葬したといわれる。
ウィリアム2世:品行の醜聞で名誉失墜、教会掠奪、司教・修道院を売却。カンタベリ大司教ランフランク、穏やかに叱責。
彼の苛酷な支配に対しウェールズを中心とした諸侯らが反抗するが、統治の改善などを約束してこれを抑える。
一時、カンタベリ大司教管区を管理してその収益を収用。
実在論を説くスコラ哲学者アンセルムスは、ウィリアム2世によりカンタベリ大司教に任命、やがて王と衝突し、大陸へ追放。
1100年8月2日ニュー=フォレストで狩猟中、何者かの矢で倒され没。末弟ヘンリ1世が後継。
*
9月23日
・左兵衛尉源義光、兄義家を応援すべく私的に陸奥に下向。朝廷、官を解く。
* *
0 件のコメント:
コメントを投稿